「勝ち得て余りある勝利」

ロ−マの信徒への手紙8章33節、35〜39節

8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
    |
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
8:36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
    「勝ち得て余りある勝利
 
ロ−マの信徒への手紙8章33節、35〜39節、2005.1/16

 先週私共は、”神が私達を愛する余り、御子イエスを惜しむことなく死に渡し、全てを与える為に執り成しの祈り手として御子を死の墓から引き上げられた事”を学びました。今朝お読みした聖書の箇所はそれに続くロ−マ8:35−39節です。ここから「誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」という事について学んで参ります。

 使徒パウロは初めに、キリストの愛から私達を離れさせる災いのリストを掲げました。35節「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」というものです…戦争を体験された方々はそうした苦しみの大きさを知っていると思います。

また、ここにある苦しみを眺めてみますと全部で7つある事に気づきます。7というのは完全数ですから、パウロはここで”自分が経験したキリストから離そうとする苦しみを思いつく限り書き出した”と言えるのです。

 7つの患難のリストの中の「苦しみ」という言葉は、実は訳す事が難しい言葉だそうです。どちらかというと”「不安」という意味に近い言葉”です。宗教改革者のマルティン・ルターという人は、「信仰者の試みの最も深いものは、神から来る試みである」と言いました。

それは「苦しみの中、神様のみ顔が見えなくなる不安。祈っても届かないような気がする不安。神が眠っているような気がする不安」です…「神様起きて下さい。私はもうギリギリの所まで来てしまいました。私は滅んでしまいます」と不安の中で叫ぶ経験です。それは嵐の中で舟の中で寝ておられた主イエスを起こしたペトロの叫びです。

 最後にある「剣」という試練は、”殉教の死”の事であります…パウロは殉教したと伝えられておりますが、正にパウロには殉教の予感があったのでした。確かに戦争で多くのクリスチャンは信仰のふるいにかけられ信仰を捨てた方もおります。そうした事を思う時に患難の厳しさの前にたじろぎを覚えます。

 コルベ神父というお名前は聞いた事があると思います。第二次世界大戦中、ドイツのアウシュビッツで脱走を試みた人がつかまって連帯責任で処刑される人が選ばれました。選ばれた中の1人の人が「私には妻も子供もいます。どうぞお助け下さい」と乞うても聞き入れられずに連行されようとした時、コルベ神父が進み出て「私は神父で妻子がいないので私を代わりにして下さい」と進み出たという有名な話です。

 彼のように崇高な行為を行う者となりたいと思います。しかし、患難を前にたじろぐ事を知っている私は、人に対しても「私達もコルベ神父を模範としましょう」とはとても言えないのです…ここで使徒パウロが言っている事も、”「殉教にたえる力を持ちましょう」という事ではない”のです。「試練の中でも、私達はキリストの愛からは引き離されない」と言う事なのです。

 36節には、”クリスチャンにとって最も大きな困難”が記されています。「私達は、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」…これは詩篇44篇22節の引用です。”屠られる羊”と言いますと、”世の罪を取り除く神の小羊であるイエス・キリスト”を思います。”贖いの供え物と定められた羊には助かる望みはありません”でした…”キリストも定められた十字架の贖いの死から逃れる事が出来ません”でした。

 では、今の”キリスト者にとっての屠られる羊のような状況”とは何でしょうか?…”逃れる事が出来ないと思う中で、じわじわと続く苦痛(絶望)=出口の見えないトンネルのような苦痛(絶望)”ではないでしょうか?…私も30代は自律神経という病と闘いました…自分で自分に何が起きているのか理解できない。まして他人に理解して貰う事もできない。その中で神に御顔を隠されているような絶望を抱えながら牧師を続けました。太平洋独りぼっちのような苦痛です…人の弱さを知った時でした。

 順調な時には信仰に生きる事ができます。外からの迫害にも祈りをもって戦う事が出来ます…でも、”出口が見えないトンネルを通過する時、人は自分の弱さを知る”のです。”神を見失い、心が神中心から自己中心(わがまま)になってしまう弱さ”です。

 ”神から断絶した心という、神との関係の崩壊は、近しい人間関係の崩壊へと及んで参ります”…共に試練を乗り越える同士の筈の夫婦、親子、友人関係が傷つけあうものとなってしまうのです。ですから”クリスチャンは、どんな時にも「私にはキリストが必要だ」という事を忘れてはならない”のです。

 37節に「しかし、これら全ての事において、私達は、私達を愛して下さる方によって勝ち得て余りある勝利をおさめています」とあります。39節には「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」とあります…”キリストを求める時、全ての試練を乗り越えるキリストの愛が私達を捉えて離さない”のです。

 先日の聖会は、日本イエス・キリスト教団の工藤弘雄牧師が講師でした。今、私達が学んでいるローマ書からのお話しでした。とても霊調が高い聖会でした。近い内テープが届きますので、是非お聴き頂きたいと思います。そのお話しの中で工藤先生は、「ローマ書には、罪赦されて救われた者は義とされる」と書かれています。

 この”義とされる恵み”というのは、「まるで罪を1度も犯した事のないキリストのように、神に受け入れて頂く恵みなのです」と語られました。

”義とされる”という事は「義の衣を着せられる」とも言います。(口語訳)ローマ書6章11節はロ−マの信徒への手紙の中心の御言葉”です。「キリスト・イエスにあって神に生きている者(義の衣を着せられている)である事を認むべきである」…この”「義とされた事を認める」という視点からローマ書は見ていく”のです。

今朝の8章37節もそうなのです…33節で「人を義としてくださるのは神なのです(神があなたを義とされた事を認めなさい)」と語られた後で、35節で苦難のリストをあげ、36節で、”「しかし、これら全ての事において、私達は、私達を愛してくださる方によって輝かしい勝利(勝ち得て余りある勝利)をおさめる事が出来る=キリストによって、キリストの溢れる愛に留まる事が出来る”と記しているのです。

 しかし、実際には、”試練によってクリスチャン生涯が苦くなる人と、試練によってクリスチャン生涯が甘くなる(感謝に変わる)人がいる”のです。そして、「その差は、義の衣を着せられていると認めるかどうかから生まれる」と言われたのです。

 工藤先生は神学校の先生をしておられた時、御長男が誕生されました。しかし生後3ヶ月目に癌で足の切断を宣告されたそうです。先生は「自分の足を代わりに与えたい」という呻きの中、キリストの注がれる愛を受ける体験をされたのだそうです。子供さんの入院手術の為、布団を車に積んでいるのを、授業中じっとみつめていた女子神学生が後で「先生、あの時輝いておられました」と言われたそうです。

息子さんは成長に合わせて義足を変えて、今は立派な青年に成長されたそうです…工藤先生は、「試練は神の愛が洪水のように注いでいる事を体験する所となる。だから試練を浪費せず用いなさい」と言われました。心に突き刺さる言葉でした。

 「神は愛なり」と聖書は言います…しかし、”神の愛はお題目でない”のです…”行動という実績の伴ったもの”でした…”キリストは、私共に義の衣を着せる為、血の汗を流してゲツセマネの園で祈り十字架に架かって下さいました。神も三位一体の愛の交わりの中から、御子を贖いの犠牲として十字架の死に渡し審れて、神の痛みの愛を味わって下さった”のです。

 更に”神は、キリストを死から復活させられ、私達の為に、執り成しの祈り手として立てられた”のでした…”私達が「十字架によって義の衣を着させられたと認める」事も、この主イエスの背後の祈りゆえ”出来るのです。

 小林和夫師からお聴きしたお話しです。「母を天に送った時、一番力を落としたのは、祈り手を失ったという事でした。世の全てが自分を忘れ、敵となったとしても、母だけは私の為に祈ってくれる。そんな祈り手を失う事は力が抜ける事を感じた時でした」というお話しです。小林師は続けて、「けれどもキリストも、決して私を忘れず、何処までも祈り続けて下さる事を知りました」と言われました…”私達には確実に神に届く祈りをして下さる強い祈り手がついている”のです。

 「患難に勝ち得て余りある」と記した使徒パウロですが、彼も、”自分の弱さに苦しみ自覚していた人”でした。けれども”弱さの中、キリストの執り成しによる、キリストの力と愛を経験した人”でもありました。

ここでパウロが言っているのは「患難や誘惑や殉教にたえる力を持ちましょう」ではありません。「試練の中、恐れ、泣くかも知れない…でも、聖霊は義とされた事を認める者に対して、キリストの執り成しゆえ、絶対にキリストの愛からは離さない」と言ったのです。

”この勝ち得て余りある勝利であるキリストの愛から引き離す事は、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物もできない…サタンも、国家も、会社もできない”のです。この朝、「勝ち得て余りあるキリストの愛の中を歩ませて下さい」と共に祈り求めたいと思います。