インマヌエルなる神
イザヤ7章1〜14節
7:1 ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。
7:2 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
7:3 主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、
7:4 彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。
7:5 アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、
7:6 『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、
7:7 主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。
7:8 アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)
7:9 エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」
7:10 主は更にアハズに向かって言われた。
7:11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
7:12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
7:13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

マタイによる福音書1章18〜25節
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
 「インマヌエルなる神

      イザヤ7章1〜14章.マタイによる福音書1章18〜25節.
2005年アドベント2週

 イエス様が御降誕される733年前、イスラエルの十二部族は、北イスラエル(エフライム)の十部族と、南王国ユダの二部族に分裂していたのです。

 そんな中、”南王国ユダは、北イスラエルとスリヤから侵略される危機”の中におり、神は、神の民を救う為、イザヤに油を注いで預言者として立て、神の言を語らせた”のでした。南王国ユダの首都、工ルサレムは高台にあったので、いざ戦いが始まり、水源が遮断されると万事休すでした。

 イザヤ7;2には、その時の様子がこう記されています…「王の心も民の心も森の木々が風に揺れ動くように動揺した」とあります。そうした危機の中、アハズ王は目の色を変えて水源の確保の為に東奔西走していたのです。預言者イザヤにの眼差しには、そうした王や民の姿の中に、”静かに神に信頼して、神を待つ信仰が見えなかった”のでした。

 そんな中で主は預言者イザヤに言われました…イザヤ7章3〜4節「主はイザヤに言われた…水路の外れでアハズに会い、彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れる事はない」

 ”人は危機に直面しますと、慌ててしまって自分を見失い、神さえをも見失って、何かを画策したり、人に頼ろうとしてしまう”のです。クリスチャンと言えども、そうなりやすい事を、私共は経験から知っています…しかし、”神は御言葉に聴いて、御言葉に信頼して祈る事を求めておられる”のです。

 当時の南王国ユダの神の民は、厳格に礼拝を守り、御言葉も聞いていました。また献げ物を献げ、断食して熱心にお祈りをしていたのです。しかし”預言者イザヤは、彼等の中に、神に拠り頼もうとしない霊的な欠陥を見抜いていた”のです。

 預言者イザヤは、10節でアハズ王に対して、”7章10〜11節「主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に徴を求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」と言いました。

”聖書は徴を求める信仰を批判的”に見ています…しかし、”「この徴を求めよ」という主の御言葉は、”「徴を求めてでも良いから、神の言に信頼する信仰に立ちなさい」という、切なる神の迫りの言葉だった”のです。

 しかし、アハズ王は、7章12節「…私は求めない。主を試すような事はしない」と言ったのでした…一見信仰的な言葉に聞こえますが、”この時、アハズ王は、神様を必要としていなかった”のでした。アハズ王は既に、”アッシリアと同盟を結び、援軍を要請していたから”です。

 それは”致命的な過ち”でした…”アッシリヤとの同盟を結ぶという策略は、一時的には、南王国ユダを危機から救いました。しかし、それはアッシリヤに、パレスチナ占領の門戸を開く口火となった”のです…やがて”アッシリヤ”は、”BC721年に北王国イスラエルを滅ぼし…そして、”北イスラエルの10部族は歴史の舞台から消えていく”のです。続いてBC701年には、アッシリアは、工ルサレムを包囲して、かつての同盟国、南王国ユダをも滅ぼして行く”のです。

 イザヤ30章15節に「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。「お前達は、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼している事にこそ力がある」と。しかし、お前達はそれを望まなかった」

 ”この時、アハズ王と南王国ユダの民が、信じ求めるべきだった救いの徴が14節なのです…「それゆえ、私の主が御自ら、あなた達に徴を与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエル(神が私達と一緒にいて下さる)と呼ぶ。」

 その南王国ユダを救うインマヌエルが誰であったか諸説あり、今となっては分かりません。何故なら、”アハズ王や、神の民は、神の約束の御言葉に拠り頼む事を好まず、人に拠り頼んだ”ので、”インマヌエルなる人物が救世主として世に出て来る事が出来なかった”からでした。

 ”この預言は聖霊による特別なもの”で、やがて”救い主がおとめマリヤより生まれるという預言”でもあったのでした。

 ”預言者イザヤは、このイザヤ書を、スリヤと北イスラエルによる侵略の危機の中で、神の言を聴いて記しました”。と同時に、”聖霊は、イザヤの意図を超えて、未来の預言書としても、イザヤ書を導いて記させていた”のでした。

 これから”南王国ユダは滅んで、国民ごとバビロンに捕囚(拉致)”されるが、”そこからの解放の預言”ともなっていたのです。”更に700年後のメシヤ(救い主到来)の預言”として。また”終末(世の終わり)も預言”をも含んでいたのでした。

 7章14節の「それゆえ、私の主が御自ら、あなた達に徴を与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」…この箇所はクリスマスに読まれる”新約聖書マタイによる福音書1章21〜23節”で引用されている所です…”御使いがヨセフの夢に現れて婚約者マリヤが救い主を生むと告知した時の言葉”です。

 婚約中に身ごもるというのは、当時は死刑になっても仕方がなかった事でした。正しい人ヨセフは身に覚えのないマリヤの妊娠に戸惑い、密かに婚約破棄しようと悩んでいたのでした。そんな中でヨセフは、”御使いから、「あなたの婚約者が身ごもっている子は、インマヌエル(神と人が共にいる)と呼ばれるようになる」という言葉を聴いた”のでした。

 恋人達が一緒にいる事をアベックと言います。それは愛している者同士が一緒にいるという事です。しかし、”インマヌエル(神と人が共にいる)”と言うのは、単に一緒にいるという事ではなく、”一体になりえない全く別々の者が、全く同一になってしまう”という事なのです。

 重病人の側で心配しながら見守る家族も一緒にいます。でも、見守っているだけで、どうにも出来ないもどかしさを感じる事がしばしばあります。しかし”神は、天から私共を同情して見守っておられるだけの方ではないのです…罪人を救い、新しい命と愛を与える為に、罪と汚れに満ちた地上に降りてきて救って下さったお方”なのです。

 ヨハネによる福音書には、「言は肉体となり、私達の内に宿った」とあります…それは、”神がキリストという人間の中に入って、人間の悩みと苦しみと悲しみの全てを味わい、救って下さった”と言う事です。

 ”キリストは御降誕された時、家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされました”。それは、”家畜のよだれや糞の汚れと臭いがこびりついた冷たい石の桶”でした。それは、”この世と人の心の汚れと冷たさを暗示しています。主イエスは、そんな中に来て下さって、寝て下さった”のでした。それは、”汚れた世、汚れた私共の心の中にも来て住んで救って下さる事を示している”のです。

 この「神が人と共にいます」という出来事は、”二千年前のクリスマスに、ベツレヘムの家畜小屋で一度起こっただけではありません…今、私共が、絶望する時、悩む時、悲しむ時、礼拝する時、働いている時にも共にいて下さる”のです…そして、”その心備えをする時が、アドベント(待降節)”なのです。

 たとえばマタイ14章27節では”、嵐の中舟を漕ぎ出したものの、激しい風雨に悩んでいた弟子達に、主イエスが「私が共にいる」と語られた事”を記します…またマタイによる福音書の最後の28章20節では、”「インマヌエルなる主イエスは、世の終わりまで私共と共にいて下さる」と約束して終わっている”のです。

 今、”聖霊は、イエス・キリストにおいて、インマヌエル=神が私共と共にいる”事を実感させ、経験させて下さいます。”アハズ王は、「神が共にいる」と言う徴を拒否しました。そして、インマヌエルなる救世主を見る事なく滅びましたが、預言者イザヤは、そんな中、真の救い主である、イエス・キリストの御降誕をも預言していた”のでした。

 ”ヨセフは、「神が共にいて下さる」事を信じて、マリヤを妻に迎え、神の栄光の目撃者となり、神に託された、救い主の父親になるという使命を全うした”のでした。

 今、私共も、”イエス・キリストを信じ、キリストを主として受け入れる時、共にいて下さる、インマヌエルの神を持つ事が出来る”のです。このアドベント…インマヌエル(キリストが共にいて下さる事)を受け入れる備えの時となるように祈り”ましょう。