「思いがけない時に来られる神」
マラキ書3章1〜5節
3:1 見よ、わたしは使者(バプテスマのヨハネ)を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者(キリスト)/見よ、彼(キリスト)が来る、と万軍の主(神)は言われる。
3:2 だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。
3:3 彼は精錬する者、銀を清める者として座し/レビの子らを清め/金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を/正しくささげる者となるためである。
3:4 そのとき、ユダとエルサレムの献げ物は/遠い昔の日々に/過ぎ去った年月にそうであったように/主にとって好ましいものとなる。
3:5 裁きのために、わたしはあなたたちに近づき/直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者/雇い人の賃金を不正に奪う者/寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者/わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる。
マラキ書1章13〜20節
◆正しい者と神に逆らう者
3:13 あなたたちは、わたしに/ひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う/どんなことをあなたに言いましたか、と。
3:14 あなたたちは言っている。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても/万軍の主の御前を/喪に服している人のように歩いても/何の益があろうか。
3:15 むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え/神を試みても罰を免れているからだ。」
3:16 そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。
3:17 わたしが備えているその日に/彼らはわたしにとって宝となると/万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように/わたしは彼らを憐れむ。
3:18 そのとき、あなたたちはもう一度/正しい人と神に逆らう人/神に仕える者と仕えない者との/区別を見るであろう。
◆主の日
3:19 見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
3:20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「思いがけない時に来られる神」
マラキ書3章1〜5節、マラキ書3章13〜20節、
2005年12月18日、アドベント4週
私共は今、”待降節の日々を過ごしております。クリスマスを迎える準備の日々です。しかし同時に待降節は、世の終わりに、再臨される主イエスを待ちながら歩むという事を学んでいる時でもある”のです。「主イエスが再び来られるのを待つ」=「神が来られるのを待つ」と言うのが、”私共の信仰”だからです。
では、”主イエス(神)の再臨を意識しなければならない”のは何時か申しますと、それは、”苦しみ、絶望の中で、「神がおられないと思う時、神の姿が見えなくなったと思う時」です。そして、マタイによる福音書でも、また旧約聖書でも、「神、我らと共にいます」と語られたのは、いつも”イスラエルの民の危機的な時”でした。
そうした暗闇に閉ざされている人々に対する神のメッセージこそが、この「神、我らと共にいます」という、クリスマスのメッセージ”なのです。これは私共にとっても大切なメッセージです…”クリスマスという時は、今、皆さんが置かれている困難を思い浮かべて下さい。その所で「神われらと共にいます」という神の言を聴く時”なのです。
今朝開いた、旧約聖書の最後の書である。この”マラキ書”を記したのは、”預言者マラキ”です。彼の名前には、「私の使者」と言う意味があります。マラキ書3章には、「見よ、私(神)は、使者(キリスト)を送る。彼はわが前に道を備える。あなた達が待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなた達が喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる」と、”神の使者として遣わされる、主イエスの御降誕が預言”されているのです。
先々週、預言者イザヤの預言の言葉を聴きました。主イエスが御降誕される700年前、イスラエルの12部族は、北の10部族(北イスラエル)と南の2部族(南王国ユダ)に分裂していました。その時、南王国ユダの預言者イザヤが、「もうじき北イスラエルが滅ぼされ、その後、南王国ユダも滅ぼされて、国ごとバビロンに捕囚(拉致)される」と預言した話をしました。
バビロンの首都は、工ルサレムから1300km離れた、現在のイラク辺りにあった強大な国でした。預言者イザヤは、更に、そのバビロンに捕囚された民は、その”70年後に帰還する事も預言していた”のです。それは”預言者エズラ、ネヘミヤの時代に成就した”のです。
しかしその後、二世代、三世代と経つ中で、”張り詰めた信仰生活に弛みが生じて来て”…「先祖や自分達は犠牲を払って、神殿を建て直し、礼拝生活を献げてきた。しかし何も起こらないではないか?」という思いが心を占めるようになって行ったのです…神の祝福が当たり前となり、感謝を忘れて、”神の臨在が分からなくなって来た”のでした。”神がおられる事=神が支配しておられる事”が感じられなくなった彼等の信仰は、やがて虚脱感に支配されて行きました。
やがて、イスラエルの民は、神に呟きを始めました。14節「神に仕える事は空しい。たとえ、その戒めを守っても…何の益があろうか?」とあります。15節には、「むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ」と、”この世で悪事で栄える人々の生き様が羨ましくなった”のでした…”礼拝が力を失った結果”です。
その時、”預言者マラキ”が、”神から言葉を受けて語り”出したのです…1節「あなた達が待望している主は、突如、その聖所に来られる」と…。この”聖所”というのは、”礼拝の場”です。そこに主イエスが「突如、来られる」と言ったのです。5節には「直ちに…」とあります。「裁きの為に、私は、あなた達に近づき、直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者…私を畏れぬ者らを」と…。
神は思いがけなく来られて審かれる御方なのです。人間の計画に従って来られる御方ではないのです…”信仰生活と言うのは、苦しみや悲しみの中で、「神を呼び求め、御言葉を聴いて、神、我らと共にいます」と信じ待ち望み、「私の人生に介入して下さる神を体験する生活」なのです”。そして、そこにクリスチャンの、「慰めと希望と喜び」があるのです。
”クリスマスは、突然、神が介入された出来事で満ちています。大祭司ザカリヤも神の介入を経験した1人”でした。大祭司ザカリヤは、一生に一度あるかないかの光栄ある祭司の務めにクジで当たり、”聖なる神が御臨在されていた、神殿の最も奥にある至聖所に行きました。
そして、緊張しながら、古来の手順にのっとり、香を焚く儀式を行っていた”のです。そんな”大祭司ザカリヤの所に突如、御使いが現れ、「あなたの妻エリサベトが、不妊の胎に子を宿す。その子は、最も偉大な預言者となる。名をヨハネと名付けなさい」と言った”のでした…やがて、”この世に「主イエスこそ、救い主である」と紹介したバプテスマのヨハネ”です。
御使いの介入によって、ザカリヤは焦って手順を忘れて儀式を手間取り、更に”言葉まで失ってしまった”のです。しかし、やがて、”神の言が成就してヨハネが誕生した時、ザカリヤは癒され、神を賛美した”のでした。
神学者カールバルトは、「私達の自然の営みが神に妨害されない限り、それが癒される事はない」と言いました…”人は、神の不意打ちのような、思いがけない神の介入に出会わない限り、自分という存在、「このままでいいんだよ」という癒しに預かったり、人生という歩みで受けた傷が癒される事が出来ない”のです。
今朝は、受洗の恵みに預かった”T姉の信仰生涯の為に共に祈りたい”とおもいます…受洗にお導き下さった主イエスに感謝を祈り、そしてT姉の上に祝福を祈りたいと思います。
T姉のこれからの人生には、必ず困難が待ち受けていると思います。また自分の内にある原罪(罪深さ)に気づく時が来るかも知れません。しかし、姉妹が、そうした中で、”御言葉に聴き、御言葉の約束を信じて、主イエスを待ち望む人となるように祈って頂きたい”のです…”御言葉を信じ、主を待ち続けるならば、必ず、人生に介入して下さる神を体験出来るから”です。
預言者マラキは、更に、この「その時、主を畏れ敬う者達が互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者の為に記録の書が書き記された」と言ったのです…”私達が神の姿が見えないように思う時にも、神は耳を傾けて聞いておられる”と言うのです。
この16節には「記録の書」という興味深い表現が使われています。神の御下には、記録の書があり、私共がした事も、思った事も全てが記されていると言うのです。
”神の到来”は、ある意味、恐ろしい事かも知れません。19節に「見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、全てわらのようになる」とあるからです。聖い神が来られる時、汚れた者は見るだけで、燃やされるように滅んでしまうのです。
マラキ書3章2節には、「彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れる時、誰が耐えうるか?」とあります。”神が再び来られる時、神の審きを免れる人はいない”のです…ですから、その時は、”世の終りの日でもある”のです。
”そこから助かる道は、罪赦される以外にない”のです…”神が、ご自身の独り子を、地上にお送り下さり、十字架に架けて開いて下さった、神の赦しの恵みに預かる以外にない”のです。
先週、大河ドラマの義経が終わりました…弁慶が雨のように矢を受けながら死んだ、弁慶の仁王立ちのシーンがありましたが、”キリスト以前に、そのように神の前に立ちはだかり、民の赦しを祈り求めた人が1人だけいた”のです…”モーセ”です。
”モーセが、イスラエルの民のために執り成した時”の事を、詩篇106篇23節はこう言います。「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれた人モーセは、破れを担って御前に立ち。彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」と…。
”モーセが十戒を神に頂いて、ホレブの山から降りて来た時、下界ではモーセの帰りを待ちきれず、金の仔牛の像を造って拝んでいた”のです…その時の、”モーセの姿は、民の罪に対する神の罰が、雪崩のように侵入してくるのを、たった一人でせき止めようとしたようでした。
生きて帰る望みを捨て、神と民との間に立ちはだかった”のです…”罪を執り成す”というのは、そういう事なのです。また、”神の人の罪に対する審きの厳しさ”も、それ程の事なのです。
しかし、20節に「しかし、わが名を畏れ敬うあなた達には、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなた達は、牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る」とあるように、”主イエスを救い主と信じ、救われた者には、主イエスの再臨の時は、救いの時(赦しの時、慰めの時、癒しの時、キリストの愛の下に永遠に住むスタートの時)になる”のです。
今朝、受洗の恵みに預かったT姉も、この恵みに入れられたのです。
苦難の時には、誰もが神の御顔が見えなくなります…”クリスマスは、二千年前、この世に御降誕された救い主を、今年も、心にお迎えし直しつつ、私達の人生に介入して下さる主を体験し、世の終わりに再臨される主イエスを待ち望む事を学ぶ時”なのです。
”その思いがけない時に再び訪れる主イエスを知った者は、どんな絶望の中でも、人生を捨てる事が出来なくなる”のです…”「主を待ち望む」…そこに、クリスチャンが勇気と喜びを失わない秘密があるから”です。