「罪の始まり」
創世記3章
◆蛇の誘惑
3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
3:16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
3:18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。
3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
3:20 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。
3:21 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
3:22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
3:23 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
3:24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「罪の始まり」
創世記3章 2005年、10月23日
この朝は、神の言である創世記3章から、罪の始まりの経緯を学び、そして、その光で共に自分を顧みる時を分かち合いたいと思います。今朝、始めに覚えておきたい事があります…それは、”神は人を愛しあう対象として特別に造られた”という事です。また、それは、”自由意志を持つ者として創られた”という事でもあります。もし自由意志がなかったなら、人はロボットのようになってしまいます。
ロボットから、機械的に「あなたを愛します」と言われても余り嬉しくありません。愛する事も出来るし、愛さない事も出来る自由の中で、「あなたを愛します」と言われて、人は初めて喜びを感じますし、心も通い合うのです。それゆえ、”神は人に自由意志を与えられて、神と愛しあう存在、人と愛しあう存在として下さった”のです。
反面、”自由意志を持つ者として造られた”と言う事は、”自分の意志次第で、神に背く、神を裏切る者にもなれる”というリスクも背負ったと言う事なのです。
ある時、当時、「野の生き物の内で最も賢い」とされていた蛇を、サタンが利用して女を誘惑したのです。一般的に、蛇は女性の弱さをつこうとして女に近づいたと言われます。
サタンは、”2つの質問をもって女を誘惑しました”…そこで、”サタンの誘惑の手口”を見て参ります…”サタンは御言葉を巧みに歪めて神の言への信頼を崩そうとした”のでした。
蛇は「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか?」と問いました…本当は、神様は「園の中央の木の果実だけは食べてはいけない」(神を主としての意味)とおっしゃったのです。この「神に縛られているのではないか?」というサタンの言葉に、”御言葉を歪めようとするサタンの手口を見る事が出来る”のです。
女の蛇に対する答えに、女が蛇の策略にはまっていく姿を見て取れます…女は蛇に「食べてはいけない。触れてもいけないと神は言われた」と答えました。神の「食べてはいけない」と言われただけなのに「触れてはいけない」とも言われたと御言葉を歪め始めているのです。”ここに、神の言に信頼する姿勢が崩れ始めている”のです。
そして、この後直ぐに、”神の言への信頼は決定的に破綻する”のです…神は「木の実を食べると必ず死ぬ者となる」と言われたのに、女は蛇に、「死んではいけないから」と言われたと答えたのでした…”御言葉を歪め曖昧にするのは、御言葉への信頼が破綻している徴”なのです。
これで、サタンの思惑通りに、”この世に罪が生まれる舞台が出来た”のでした…そこで蛇は2つ目の質問を言い出しました。4〜5節「蛇は女に言った。「決して死ぬ事はない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となる事を神はご存じなのだ」と…。
6節に、「女が見ると、その木はいかにも美味しそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので彼も食べた」とあります。
ここに、”現代の悲劇の源が起きてしまったのです。罪が生まれたという事は、人間と全被造物が堕落して、神の祝福から墜ちてしまう事、取り返しのつかない過ち”でした。この”神への不従順という悲劇”は、”神の言への信頼が崩れた所に生まれた”のでした。これは”今も変わらない真理”です。
ここに1つの疑問が沸いて参ります…「善悪を知るようになる事が何故悪いのか?」という事です。”分別をわきまえないより、善悪を知っている方が遙かに良いのでは?”と思いますが、この”「善悪を知るようになる」という誘惑の言葉には大きな意味が隠れている”のです。
そこには、”「神のようになれる。神は必要ではない」という野心と傲慢が潜んでいた”のです。その誘惑の魅力の前に、女には、そちらになびく心をコントロールする事は出来なかったのです。これは現代人も欲している誘惑です…”自分の心の主人の座から神を押しのけ、自分の欲と感情の欲するまま、自分の人生を自分が支配したい思い”です。
歴史は、その間違いを証明しています…しばしば権力者は、自分を神として人を支配し、人を審いて自滅して来た歴史です。
何故なら、”人は神のように、愛と正義で支配し審く事は人には出来ない”のです…それゆえ、”人が神の座に立つ時、欲と権力と怒りの力で支配してしまう”のです…それは、”サタンの餌食となってしまう”事を意味します。ですから、”神の被造物である人間は、自分の限界を認め、謙って神を主としなければならない”のです。
罪は一度犯しますと、だんだん麻痺してきます。そして仲間を作って安心しようとしていきます。”女も早速アダムを仲間に巻き込んだ”のでした。6節「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」…そして、”この堕落した2人には共通の変化が生じた”のでした。それは、”裸が恥ずかしくなり、神から隠れようとする変化”でした。
何故、”以前と同じ裸なのに、急に恥ずかしくなったのでしょうか?”ロマ書3章の23節に「全ての人は罪を犯した為、神の栄光を受けられなくなっており」とあります…”人間に与えられていた神の栄光が、罪によって奪われて丸裸にされたゆえに、全ての人にとって裸が恥ずべきものとなってしまった”のです。
本来、”性は祝福”でした。しかし、”罪が入って来た途端、性は、素晴らしい祝福を失い、欲望の温床となり、悲劇が生まれる場となってしまった”のです。今、インターネットで、毎日、援助交際のメールが大量に送られて来て社会問題となっています。しかし、これを裏返せば、それだけ需要があるという事でもあるのです。
さて、神の栄光の衣を失い、裸が恥ずかしくなった2人は、それからどうしたのでしょうか?…”神から身を隠した”のでした。8〜10節「その日、風の吹く頃、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「何処にいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから。」
此処に、”罪の支配下に置かれている人の姿”が描かれているのです…”罪”という字は、”「目」という字が横倒し”になっていて、下に”「非ず」”という字があります…つまり、”目が正しい所に非ず(神を見ていない)時に罪が生まれる”事を現しているのです…そして、人は”神から隠れ、神から家出人となって行く”のです…ですから神様は、2人が何処に隠れているのか御存じなのに、「今、何処にいるのか?」と言われたのでした。
すごすごと神の前に出てきたアダムは、言い訳を始めました…”罪を女のせいにし、女は蛇のせいにした”のです。”罪ある所に責任転嫁が起きる”のです。そこで、”主権者であり、審き主である神の初めての審きがなされた”のでした…”神は、蛇と土地を呪われ”ました。
しかし、ここで大切な事があります。”人は呪われていない”という事です…”この時、既に神は、神の独り子イエスに、人間の罪を身代わりに負わせる決意をされていた”のです。男と女には、ただ、彼等が罪の結果、招いてしまった事を諭されただけなのです。
「女は苦しんで子を産み、男に支配される者となる。男は生涯額に汗して働く者となり、やがて死んで塵に返る」と言う事でした。そして、”神は断腸の思いで、永遠の命の楽園から2人を追放された”のでした。これは”呪いではなく、2人が自分の意志で招いた結果だった”のです。
しかし、神様はここで、エデンの園から男と女を追放されただけでなく、”原始福音”とも呼ばれる”贖いの約束をされていた”のです。”15節「…お前の子孫と女の子孫の間に、私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」という約束”です。これこそ、”やがてキリストが、サタンの頭を砕き、かかとを砕く…十字架のサタンに対する勝利、救いと永遠の命を与えるという約束”だったのです。
神の言への信頼を失い堕落した人間に、神は、御言葉への信仰によって救われる道を約束されたのです。御子キリストの十字架による救いの約束です。このように、”創世記3章は、人の罪の歴史の始まりであり、神の救いの歴史の始まりでもある”のです。