「感謝の賛美を献げる者へ」
ロ-マの信徒への手紙16章25〜27節
◆神への賛美
16:25 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。
16:26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。
16:27 この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「感謝の賛美を献げる者へ」
ロ-マの信徒への手紙16章25〜27節、2005、10/2
この朝をもって2年3ヶ月に及んだロマ書の学びが終わります。教会にとって必要であると示されて始めたロマ書の講解説教でしたが、その困難さに何度も挫折しかけた事を思い出し、感無量な思いを抱いております。
聴衆の皆様も教理的で堅い説教を良く辛抱して下さったと思います。しかし、信仰の生涯というものは、何よりも、”福音の真理に支えられ、導かれ、成長していくもの”ですので、この福音の教理的な学びの時は、何時か必ず、皆様の実になると信じております。
今朝お読みした所は、礼拝で言いますと最後の頌栄にあたる所です…パウロは、この重要な手紙を書き続け手紙の最後を迎えた時、”福音に秘められていた輝きに圧倒され、「ああ、神様の御名を心から褒め称えたい!神の栄光が永遠に賛美されるように…アーメン」という頌栄が込み上げてきた”のでした。
”イエス様が弟子達に教えられた、「主の祈り」も最後は、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン」と言う頌栄なのです。
また”主イエスの最後の祈りである、十字架上の祈りも最後は頌栄でした”。マタイによる福音書27章45〜46節「さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。そして三時頃に、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」です。
”この祈りを、主イエスの絶望と弱気の表れと揶揄する人々もおります”が、それは聖書に対して無知な人の言葉です…”当時の祈りは、暗唱していた旧約聖書の御言葉を唱えてから祈り出したから”です。
”十字架上で詩篇22篇を唱え始めた主イエスの頭の中には、詩篇22篇全体があった”のです…主イエスは、その聖句を唱えている途中で力尽きた”のでした。
詩篇22篇「わが神、わが神、何ゆえ私を捨てられるのですか。何ゆえ遠く離れて私を助けず、私の嘆きの言葉を聞かれないのですか。わが神よ、私が昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。/しかし、イスラエルの賛美の上に座しておられる。あなたは聖なるおかたです。/われらの先祖たちはあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。彼らはあなたに呼ばわって救われ、あなたに信頼して恥をうけなかったのです」。
正に、詩篇22篇は、”初めは絶望を神に訴えつつ、その祈りがやがて神賛美に変わり、神信頼に至る祈り”なのでした。
ここの「神は賛美の上に座している御方…」を新改訳聖書は、「神は賛美を住まいとしている」と訳しています…”キリストは神に捨てられたように見える状況下でも、神を賛美し信頼していた”のでした…”父なる神は、そんな御子イエスの信頼と賛美に応えられ、死の3日の後に、死の絶望の壁を打ち破って主イエスを復活させられた”のでした…”私共の祈りも、主イエスや、パウロのように、神を褒め称えて終わりたい”ものです。
しかし、自分の祈りを振ると、”必ずしも、神を褒め称えていた時ばかりではなかった”のです…それが、どんな時だったかを思い返すと、”神を賛美出来なかった時は、神の栄光でなく、自分の栄光にこだわっていた時”だったと気づきました。先週学んだ表現を使えば、”神の御心に仕えていた時でなく、自分の腹(感情、怒り)に仕えていた時”でした。
旧約聖書のネヘミヤ8章10節には、「主を喜ぶ事はあなたがたの力です」とあります…ロマ書16章25節にも、「神は…あなたがたを強める事がおできになります」とあります。新改訳では「堅く立たせる事が出来る」。口語訳では「力づける事が出来る」となっています。 この御言葉は、私共の、”神を呼び求めて祈る時の姿勢を呼び起こす”のです。
では、”主イエスはどのように私共を力づけて下さるのでしょうか?…それは、「名を呼ぶ」事によって”です。
ロマ書は、”神の義”という言葉が繰り返し出てきました…”十字架によって救われた者には、神の義(神との平和)が与えられるという恵み”が与えられると言い続けていました。
”神は御自身の心と平和で結ばれた者の心に名を呼びかけて下さる”のです…”神が名を呼んで下さると言うのは、私共の良いも悪いも全てを受け入れて下さる”という事なのです…人生の危機の時、或いは転機の時に、イエス様が私の名を呼んで、個人的に御言葉を心に語って頂く経験をする時、”私共は、深い慰めと力を体験する”のです。
故合田文治兄の葬儀の時、お見かけした顔の方とあるお店でお会いした事がありました、私が「その節はどうも」と御挨拶をした時、その方は、「私を覚えていて下さるなんて」と、とても喜んで下さり、お店の方に「この方牧師さんよ」と御紹介下さったのです。(笑)。
「名や顔を覚えて貰うという事は嬉しい事なんだなあ」と思わせられました。
”礼拝も、主イエスが、魂を生かし力を与えようと、私共1人〜の名を呼び招いて下さっている場”なのです。そこで、”クリスチャンは、御言葉という霊の糧を、キリストから1人〜頂き、力を受ける”のです。
25節に「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです」とあります。この”秘められた計画”と言うのは、”イエス・キリストの十字架と復活で開かれた救いの道”です。
26節では「…今や現されて(イエス・キリストの十字架と復活による救いの道)、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導く為、全ての異邦人に知られるようになりました」。
”預言者達”と言いますと、先ず、”救い主イエス・キリストの到来を預言した、旧約聖書の預言者”が考えられます。しかし、それだけではないのです。新約聖書、Tコリント14章で「…教会員みんなが預言を語る」と言っています。”神の真理(イエス・キリストが十字架で開かれた救いの道)を伝道の言葉も新約聖書では預言と言われるようになった”のです。
”私達が、自分はキリストの十字架によって救いに預かったと、福音を、私が経験した、私の福音として証言する時、人は上から力を受ける”のです。”私の福音を語る時、人は、疲れ果てる事なく、打ち出の小槌のように力を受け続け、福音が広がって行く”のです。
ですから、”パウロは疲れ切る事なく世界の果て迄、宣教する幻に燃えていた”のでした…もし、今、日本の四国で、こうして、福音を私の福音として体験した者達が、礼拝を献げている事をパウロが知ったら、どんなに驚き燃えて喜ぶだろうかと思います。
そして、”キリストこそ、真の力を与えて下さる救い主”と言った後、最後にパウロは「アーメン」と言って手紙を終えました。アーメンは「神さま真実です」という意味です。ですから、”私共が祈りの最後に「アーメン」と言う時、この祈りが神の前にある事を思う”のです。
最後に、1つのお話を紹介して、ロ-マの信徒への手紙の学びを終える事に致します。
第二次大戦中、ナチスドイツに弾圧を受けた、クリスチャンである彫刻家バルラッハという人の言葉です。
「私は神をもたぬ。それはその通り、まことに素晴らしい事。私は神を持たぬ。だが神は私を持っていて下さる」…「私は神を持たぬ」という言葉は、はじめ不信仰な言葉に聞こえますので、どっきりしますが、”「だが神は私を持っていて下さる」と言うのは、自分の力で神を信じ切れないような時、神が分からなくなってしまう様な時にこそ、神様は責任を持って、私共を持ち抱えて下さる御方という信仰告白”なのです。
私共はロ-マの信徒への手紙で福音の輝きを学んで来ました、この”福音に信頼して、「神を信じます」と神の懐に飛び込みさえすれば良い”のです…そうした者に対して、”私共が神を信じられる時も、信じ切れない時にも、神は責任をもって、私共を捉え、抱え続けて下さるのです…そこで、キリスト者は、福音の輝きを見出して、感謝の賛美を献げる者となる”のです。