人間の創造

創世記1章27節、2章1〜25節

1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

2:1 天地万物は完成された。
2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
2:4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、
2:5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
2:6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
2:10 エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。
2:11 第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。
2:12 その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。
2:13 第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。
2:14 第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。
2:15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
人間の創造

   創世記1章27節、2章4〜25節、2005年10月6日

 先週は、神様が神の言葉によって天地を創造された事を聴きました。この朝は、神様が、私共人間を造って下さり喜ばれた事を聴いて、共に、この神の喜びと感動に預かり、私共も、驚きと喜びをもって神を伝えるものとなりたいと思います。

 2章の初めに「神は天地創造を6日で終えられ、7日目に休まれた」と言う事が記されています。これは「休みの創造」とも言えます。忙しさに追われる現代人にとって、休みを取る事は容易ではありません。休みを意識して造り出さなければ休めない時代に私達は生きています。

 このような中で、私達が忘れてはならないのは、”神は7日目に創造された私共を見て喜ぶ為に休まれた”と言う事です。

 ですから、”神の被造物である私共人間も、神を喜ぶ(礼拝し、賛美する)為に休む時間を造り出す”のです…”礼拝こそ、神の喜びに触れ、神を喜ぶ所”だからです。

 先週、”神は天地を神の言をもって創造された事”を学びました…更に、”霊なる神は、人間だけに、命の息を吹き入れて下さって同じ霊を与えて下さったという事”も聴きました。それゆえ、”人は神と交わる者となった”のです。また、それは、”人間が礼拝と賛美に生きる者として造られた”という事でもありました。

 先週、四国教区の賛美大会がありました。規模は縮小しましたが、とても良い大会だったと思います。時々、土居教会に、今治から来られているYukoさんは、10月に2枚目のCDを出された方で、そうした忙しい中、飛び入りで参加して、ゴスペルをジャズアレンジで歌って下さり、会衆も一緒に主を賛美する事が出来ました。大会が素晴らしいものになり感謝しました。そして”賛美は神との交わりである事”をもう1度教えられた時となりました。

 1章27節には、「人間を創造した(バーラー)」と言う言葉が”3度”も記されています…1:27「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」

 この「創造(バーラー)」という御言葉は、他の被造物に対して使われる「造られた」(ある材料を用いて造られる)とは違い、”神が無から有を創造される時に使われる言葉”なのです。人間が、猿から進化した、土から造られた動物に過ぎないのなら、決して、この「創造」(無から有の創造)という言葉は使われない筈です。

 この箇所以外で、創造(バーラー)という御言葉が使われているのは、詩篇51篇9節「ヒソプの枝で私の罪を払ってください。私が清くなるように。私を洗ってください。雪よりも白くなるように」です…この”清い心”は、決して”人間の力では造り出す事は出来ないもの”なのです。”無から有を創り出す事の出来る神様だけが、私共の心を、清い心として新しく創造出来る”のです。

 2章7節には、”人の創造の場面”が描かれています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」…ここに、「神が命の息を吹き込まれた」と言う事が記されています。

 ”神は、人間の肉体を、この世界の材料である、土(アダマ)の塵で、アダムを造りました。しかし、霊は神の命の息によって、無から創造された”のです。

 詩篇104篇29節に「御顔を隠されれば彼らは恐れ、息吹を取り上げられれば彼らは息絶え、元の塵に返る」とあります。人は自分の力で生きていると思っています。しかし、”アダムは2章6節に「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあるように、”神の命の息によって、人の内に霊が与えられた”のです…”肉体の命でなく霊の命”です。

 ですから、信仰を与えられて救われた人が実感する事は、”人は生きているのでなく、神の霊によって生かされている”という事なのです。 

 さて、いよいよ此処で”エデンの園”が登場します…このエデンの園は4つの川の源流だったと記されています…今分かる川は、”第三のチグリス川と第四のユーフラテス川”です。そう考えますと、”エデンの園は、今のイラクからとトルコの間あたりにあった”と思われます。

 そのエデンの園で初めて創られた人間が、”アダム”なのです…2章の18節に「主なる神は言われた。人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とあります…人間は、「人との間」と書きますように、”人は交わる者として創られた”のです…それが、”霊を与えられた”という事でした。

 神様は一匹づつ動物をアダムの前に連れてきたのですが、アダムの対話者となる生き物はいなかったのです。
 
 此処で神は、「彼に合う助け合う者」を探されました。”この時期は、まだこの世に罪がなく、神とも動物とも直接会話が出来た楽園だった”ようです。

 「彼に合う」というのは、”差し向かえで、真っ正面から取り組める相手”という事です。

2章21節「そこで神様は、アダムを眠らせ、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉で塞がれた」とあります。そして眠りから目覚めて、初めてイヴを見たアダムは、”「ついにこれこそ、私の骨の骨、私の肉の肉」と言った”のです。

 この一見、グロテスクな表現こそが、人類最初の愛の言葉なのです…”元々1つの骨から切り取られた2人の骨はピタッと1つに帰る事が出来る”と言う”結婚の奥義を体験させる為、神はアダムからイヴを造られた”のでした。神様は、「男(イシュ)からとったから、(イシャー)と呼ぶ事にしよう」と言われました。

 此処に”二人は同じ者だが、お互いを補う性質の違う者としてつくられた”という意味があるのです。
よく結婚のお祝いで「お幸せに」と言います。愛しあう2人が結婚すれば本当に幸せになれるのでしょうか?

 あるリサーチによりますと,自分は本当に幸せな結婚をしたと答えた人は、”5%しかいなかった”そうです。”恋愛は、2人で生きる2つの人生ですが、結婚は、2人で生きる1つの人生”です。泥沼の中を行く様な苦しみが襲って来たとしても、2人が1つになって乗り越えて行くのが結婚なのです。

 全く違った者同士が一緒に暮らしますと、やがて相手の欠点が見えて参ります。そんな中で、2人が相手を受け入れ合う術を持っていませんと、”5%の幸せな結婚に入る事が出来ない”のです。

 ”夫婦を1つにする秘訣があります”…それは、”信仰”です。「私は,この人の為,神様から夫として(妻として)召されたと言う信仰”なのです。一体となる恵みによって世の荒波を乗り越えていくのが夫婦なのです。

 よく日本では”夫婦は他人の始まり”と言われます…しかし”聖書は,結婚は、2人が信仰によって1つに帰る所”と言うのです。

 20世紀最大の神学者と言われるカール・バルトも、創世記1:27の「神のかたち(神と交わる霊を持つ存在として創られた)」事を、「男の女の交わり」が示していると言いました…”人は誰かと1つ心になる事を通して、神との交わりを知る事が出来る”のです…反対も言えます。”キリストと熱く愛しあう所で、人は人と1つになる事が出来る”のです。

 独身に召された者もいるとパウロは言っています。救われたキリスト者は、皆、キリストの躰と1つになるという最高の恵みに預かる事が出来るのです。

 先週、会計報告の後、「教会の祝福の為お祈り下さい」と申し上げました。火曜日にO姉を訪問した時に、O姉が、「私は教会みんなで、キリストを熱く愛せるように、毎日お祈りしています」とお話下さいました。
 
 私は、その言葉をお聴きしながら、「ほんとうに、キリストを愛する事に、キリスト者としての祝福、教会の祝福は尽きる」と思わされました。そして、この”キリストを熱く愛する思いは、日毎に、キリストの言葉である、御言葉を慕い求めて聴き祈る事を生む”のです。

 ”キリストをあつく愛する時、私共は、教会(キリストの躰である共同体)や、妻や夫と一つになる事が出来る”のです…”神が私共に霊を吹き込み、人を交わる者として創造して下さった”からです。