「神と1つ思いで生きる」

ロ−マの信徒への手紙7章19〜25節
7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
7:21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
7:22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
 

ガラテヤ信徒への手紙2章19〜20節
「私は神に対して生きる為に、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
  
  「神と1つ思いで生きる」
    ロ−マの信徒への手紙7章19−25節、ガラテヤ2:19−20.(V)、04.9/5

 今朝、共に耳を傾けます神の言は、7章19〜25節です。今朝は、その中の24節「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」を中心に、”神と1つ思いで生きる道”という事を学んで参ります。

 使徒パウロは、一体、自分の何が惨めだと嘆いたのでしょうか?…19節で「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」…「そんな姿が惨めなのだ」とパウロは嘆いたのでした。

 ケンカに譬えれば分かりやすいと思います…ケンカをした時、相手に謝罪したいという思いがあるのに、「ムッ」とした思いが思い出されて謝れないと言えば分かりやすいかと思います。

 誰の心の内にもある”2つの自分”です…全ての人の内に、善と悪の2つの自分があるならば、時代劇の正義の味方のように、悪をせいばいする資格のある人などいないと思うのです。

 皆さんも自分の内にある、”2つの自分”に悩まれた経験があるのではないでしょうか?初めの内はパウロのように、「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」と悩んでいたが、やがてどうにもならないと気づいて諦めたり、「自分の思った通り生きて何が悪い?法律に触れていないのだから何も言われる筋合いがない」と開き直ってしまったかも知れません。 

 ですから、人は、先ず、”自分の望む善は行わず、望まない悪を行って生きて行く虚しさと愚かさに気づかなければならない”のです…戦後「ヒューマニズム」という言葉が流行りました…”人間というのは、本当は美しいもの。善いもの、善を欲する”という事を前提にした考え方でした。

戦争という地獄絵図を生み出した人々にとって、また、その地獄を通った人々にとって、「人は善いもの。人は善い世界を造る事が出来る」というのは、希望の言葉だったと思うのです。”平和や民主主義”も同様に希望の言葉でした。

 しかし、これらは全て、”キリスト教精神から生まれたものであって、信仰により、神と1つ思いで築き上げる事なしには実を結ぶ事が出来ない”ものなのです…戦後を振り返りますと、確かに日本は復興し豊かな国となりました。しかし、愛や人情を失い、心がすさみ、欲の奴隷を生み出す社会を築いてしまったのです。

外国からはエコノミックアニマルと蔑まれ、唯一成功したと見えた経済も、バブルが崩壊し、経済大国が崩壊していく様は、傲慢になった人間がバベルの塔を造り神と肩を並べようとした時、神の審きにあって崩壊した様を思わずにおられません。ここに”人が自分の思い通りに生きる虚しさと愚かさが見える”のです。

 それだけではありません…”自分の思い通りに生きる事は、結果として自分自身を殺す事を招く”のです。
百年ほど前にロシアで書かれた、ドストエフスキー作の「罪と罰」という超大作がございます。

主人公はラスコーリニコフという青年です。彼は無神論者でした。ある時、ナポレオンが人殺しをして英雄になったのならば、自分も高利貸しで人々から忌み嫌われている老婆を殺そうと思い立ったのでした。彼の考えではそれが正義だったのです。

そして殺人を実行した後、ラスコーリニコフは、仕方なく娼婦にならなければならなかったソーニャと出会います。ソーニャは神を信じる女性で、自己犠牲に徹した生き方によって、ラスコーリニコフの魂を、神に向け救いへと導いたのでした。やがてラスコーリニコフは、”キリストの光によって自分の罪に気づき”はじめ、彼が殺人の罪を犯した事をソーニャに告白したシーンは、読者を震えさせずにおれない程、人間描写が素晴らしいものです。

 このラスコーリニコフは斧で老婆を殺しました。しかし、刃のある方で頭を割ったのではなく、峰打ちをしたのでした…そうすると刃は自分を向いている事になります。それは、

”他人を殺しながら、それが自分を殺す行為である事を暗示している”のです。後に、自分の罪を告白したラスコーリニコフは、「あの時、僕が殺したのは、あのお婆さんではなくて自分自身だったのだ」と言ったのでした。これは、今の社会や人間の罪に重ねているのです。

この様に、私共が、”神と1つ思いで生きていかない時、自分の思いは、自分の良心が望んでいない方向へと墜ちていく”のです…そして、”多かれ少なかれその結果を自分の身に招く”のです。惨めな実を人生で刈り取るという事です。その事を、この「罪と罰」という文学作品は、「自分の頭を割って行く」という言葉で表現しているのです。

 そして使徒パウロは、「神と1つ思いで歩む…その事こそが、その自分の内の2つの自分が1つになる道でもある」と述べたのです。ガラテヤの信徒への手紙5章16〜17節「私が言いたいのは、こういう事です。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるような事はありません。肉の望む所は、霊に反し、霊の望む所は、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思う事ができないのです」

 ここで使徒パウロは、「神の霊(聖霊)の導きに従って歩きなさい」と言ったのです。これは「聖霊に支配されなさい」と言い換える事が出来ます…人は聖霊に支配されるなら、「自分と神の欲する事とが、ピタッと1つになる」のです。 

”神と1つ思いで生きる”という事を聴きますと、”「神の心を押しつけられるのでは?」と窮屈に感ずる”かも知れません…しかし、”聖霊に心が満たされますと、それは決して窮屈なものではなくなる”のです…窮屈どころか、”良いと思う事が出来る自分に変えられていく…それが喜びとなる”のです。

例えば、イエス・キリストを知り救われますと教会生活が始まります。毎週、礼拝に来るようになります。それは家族も友達もしていない事かも知れません。私も聞かれた事がありますが、「どうして、せっかくの日曜日に礼拝に行くの?」と尋ねられた時に、皆さんは何と答えられるでしょうか?

 聖霊に満たされた者の歩みが、肉の欲望を満足させる歩みでなくなり、神が願う事と同じ思いが生まれて来るならば、「私は行きたいから行くのです」という事になるのです。神を求めて礼拝に行く事が、イエス様にお会いする事が、自分の1番の願いになるからです。この姿は「本当は行きたくないのだけれど、洗礼を受けた者の義務だから」とか「牧師に怒られるから」と嫌々義務を果たしている姿とは全く違うのです。

 では聖霊に満たされる為には、一体どうしたら良いのでしょうか?…パウロは25節で、「私達の主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と”神に与えられた答え”を語っています。

 聖霊のバプテスマは、イエス様を通して与えられるのです…ガラテヤ2章19〜20節に”聖霊のバプテスマを受ける信仰”が示されているのです…「私は神に対して生きる為に、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」とあります。

”人は「キリストの十字架は、自分の罪を赦す為のものだった」と信じて、水のバプテスマ(洗礼)”に預かります。そして、キリストと共に歩む歩みが始まり”ます…しかし神は、”キリストと共に歩むだけでなく、更に、キリストと1つ思いで生きて欲しいと求めておられる”のです。

キリストと1つ思い。キリストと1つの平安、キリストと1つの喜び、キリストと1つの満たし、キリストと1つの愛、キリストと1つの聖さで生きて欲しいと願っているのです。

 その為には、”聖霊のバプテスマを受ける必要がある”のです…それが、”「私はキリストと共に十字架で死んだ。今生きているのは私ではない。キリストが私の内で生きているのです」という信仰に立つ”事なのです…その信仰に立つ時、人はキリストと1つ思いとなって生きて行く事が出来る”のです。

祈祷>イエス・キリストの父なる神さま
 この朝も、私共の礼拝を喜んで受け入れて下さる神さまの御前に出る事が出来た事を感謝します。先週、ロシアで悲しい事件が起きました。テロリストが小学校で小学生を人質にして、330人を越す子供達や父兄が亡くなりました。

正に地獄でした。どうしてこんな事が起きるのでしょう?彼等の受けた心と身体の傷は癒されるのでしょうか?神さま…あの中には福音を聞いたことが無い内に殺された子供達もいた筈です。私共はどう受けとめ、どう祈ったら良いのでしょうか?テロリストは良いと思ってこの惨事を起こしたのだと思います。人間の考えの愚かさを思います。

どうぞ、私共をお用い下さい。キリストと共に十字架で死に、キリストと共に甦り、もはや自分が生きているのでなく、キリストが自分の内に生きている恵みに預からせて下さい。そしてキリストと1つ思いで生きて、神と1つ思いで生きる恵みの世界を証しする者として下さい。

 また先週は台風が来ました。多くの人々が被害に遭いました。どうぞお1人〜を支えて下さい。こうした時、あなたが自分にお求めになっている事に敏感に気づく者として下さい。

 今朝、あなたが語られたように、あなたの十字架の救いを信じて、あなたと共に歩むだけでなく、あなたと共に十字架で死んで、「今生きているのは私ではない。キリストが私の内で生きているのです」と、キリストと1つ思いで生きて行く者として下さいますように…。

残暑の中、御高齢の方々の健康をお守り下さい。また、今から聖餐の恵みに預かります。信仰によって、キリストの血潮と裂かれた肉に預かる事によって、私共の身体は自分の躰であって、キリストの躰となる幸いに預かります…どうぞ、心もキリストと1つにして下さいますように…。 
イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン