「主の食卓に相応しい者

ロ−マの信徒への手紙8章1節
8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。

Tコリント11章23〜29節
「私は主から受けた事を、また、あなた方に伝えたのである。即ち、主イエスは渡される夜、パンをとり、感謝してこれを裂き、そして言われた、「これはあなた方の為の、私の躰である。私を記念する為このように行いなさい…(27節)ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである…(29節)主の躰をわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
  
  「主の食卓に相応しい者
 
          ロ−マの信徒への手紙8:1〜11(2)、中心聖句8:1、04.9/26
 今朝は、先週に続いて、ロ−マの信徒への手紙8章の1〜11節までの所から、2度目の説教となります。今朝は特に8:1「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められる事はありません」に集中して、共に神の言である聖書に耳を傾けて参りたいと思います。

 ここに「罪に定められる事はありません」とありますが、それは、”罪が審かれない”という事でもあります。この”罪が審かれる”という言葉は、聖餐の場で読まれるTコリント11章23〜29節にも出てきます。
「私は主から受けた事を、また、あなた方に伝えたのである。即ち、主イエスは渡される夜、パンをとり、感謝してこれを裂き、そして言われた、「これはあなた方の為の、私の躰である。私を記念する為このように行いなさい…(27節)ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである…(29節)主の躰をわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」。

ここの”自分に審きを招く”という言葉は、”ロ−マ8:1の「罪に審かれ…」と同じ言葉が使われている”のです。「主のからだと血とを犯す」ような聖餐(主の食卓)の預かり方をする者は、「自分に審きを招く」と言うのです…聖書らしからぬ厳しい言葉です。「それでは一体誰が聖餐に相応しいのか?どんな預かり方が聖餐に相応しいのか?」と不安になってしまいます。

 元々イスラエルに於いては、”食事の席”というのは、”相手に対して、自分の全存在をかけて守り抜くという<誓いの場>”でした。更に、”聖餐という主の食卓”は、”主イエスが約束された言葉”によって、”主イエスが全存在をかけた十字架によって救いに預かる場となった”のです。

 当時の教会の聖餐式は、今のように礼拝の中でおこなわれる儀式ばっているものとは違っていたようです。キリスト者が誰かの家に集まって、夕食を共にする前に、主の言葉が読まれ、パンを割き杯を分かち合う形でもたれたようです。当時の教会の中には、権力をもった裕福な人も、貧しい奴隷達もいたのです。

奴隷は主人の命令通り働かなければなりませんから、「今日は聖餐式があるから」と、仕事場から早く帰る訳にいかなかったのです。しかし、早くから聖餐の場に着いて、待っていた裕福な人々の中には、お腹が空いて待ちきれずに、聖餐をして食事をとってしまった人々がいたのです。そこに疲れ空腹になった奴隷達が帰って来た時には、満腹して、ほろ酔いになった人々と、殆ど食べ物が残っていない食卓があったのでした。

 パウロは、”その状況を見過ごしません”でした。早く聖餐をして食事を済ませた人々の中に、”貧しい奴隷達を見下げて軽んじる思いがある事を見抜いた”のです。そこでパウロは言ったのです…27〜29節「ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである…主の躰をわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって、自分にさばきを招くからである」と…。

パウロは、裕福な人達の行為を「主の躰をわきまえない行為だ」と言ったのです…”聖餐”という”主の食卓に預かる事は、共同体がキリストの躰という1つ躰になる場”なのです。”主の食卓は、聖餐であり礼拝”です…”教会というキリストの躰の交わりにおいて愛は生命線”なのです。

ですから、”教会というキリストの躰(共同体)の交わりに愛がなければ、それは、主イエスの躰と血とを犯し、主の審きを招く事”だと言ったのです…”教会というキリストの躰(共同体)の生命線は、神の愛の交わり”なのです。

 おそらく、このパウロの厳しい言葉を聞いた当事者は、息を飲み、相当の気まずさが残ったと思います。しかし、それでも言わなければならない程、”キリストの躰という共同体において、愛は生命線”だったのです。ですからパウロは、Tコリント11:21−22でこうも言いました。「何故なら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなた方には、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」と言ったのです。

これは、「あなた方は、自分さえよければいいのか?…どうしてもお腹が空いて待てないのなら、自分の家で食べて来て、仲間を待って、共に聖餐に預かる事ぐらい出来るではないか?…それはキリストの躰への愛が無いという事なのだ。そして、それは神の教会である、キリストの躰を見くびる事なのだ」と言ったのです。

 ”聖餐に相応しくない行為”というのは、”人が弱さのゆえに犯してしまう罪を指しているのではなくて、自分の躰でありキリストの躰でもある教会への愛が無い事”だったのです。

 しかし、”キリストの躰に対して愛に生きない事”が、どうして、そんな大罪となるのでしょうか?…ある人は、こう言いました。「それはキリスト者が十字架につけられている所の下を他人事として通り過ぎる者の罪だから」と…。

”キリストの躰への愛が無い事は、十字架に架けられているキリストへの愛が無い事…即ち、自分をキリストと無関係な者とする事、再びキリストを十字架に架ける罪だ”と言う事なのです…ですから、この「これはあなた方の為の、私の躰である。私を記念する為このように行いなさい…ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである…その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」という御言葉は、”聖餐の度に繰り返される”のです。

 聖餐について11章で述べたパウロは、続くTコリント12章で、聖餐に預かるキリストの躰について述べました。”教会が、キリストを頭とするキリストの躰で、キリスト者の1人〜は、キリストの手足である”事を語っています…”キリストの躰として、頭なるキリストの愛と御心を行う”のです。中には目立つ賜物がある人、そうでない人もおります。しかし、”みんなで1つの躰”であり、その”1人〜がいなければ、キリストの躰が成り立たない”のですから、”誰も誇ったり、ひがんだりせずに、共に痛み喜ぶ共同体”だというのです。

 そして、「そのキリストの躰となる為に大切な事は愛しあう事」であると、続くTコリント13章1〜13節の愛の章で愛について語るのです。ここは結婚式で読まれる箇所でもあります。「…愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える…それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」という真理が語られます。

 先日、教区会で各教会が、台風18号で被災した土居教会と西森恵子師の為に、封筒をつくって献金して下さる事になりました。愛を感じて胸が熱くなりました。「愛を求めて生きなさい」…”キリスト者が聖餐に預かる時、「私は、そしてこの共同体は、神の愛を求めているか?」と問い続けなければならない”のです。

 この”愛を受ける道は1つ”です…”十字架の意味を耐えず問い続ける”事なのです。私共は、ともすれば、「十字架によって救われる」と呪文みたいに唱えてしまっている事がないでしょうか?呪文とかおまじないは、私共の生活を決定的に変えるものではありません。”都合良く引っぱり出し、要らない時にはしまってしまうだけのもの”です。”キリスト者は、「今、自分にとって十字架が呪文になってはいないか?」と耐えず問い続け、「十字架の意味を教えて下さい」と祈り続ける…これが神の愛を受ける唯1つの道”なのです。

 キリストは、十字架の御前で、愛の無さを嘆く者を「あなたは、私の躰に相応しくない」と叱り審かれるお方ではありません…旧約聖書のイザヤ42章の2〜3節に、救い主キリストが預言されているのです。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」…キリストは、弱さに挫折し、罪に破れ、愛の無さに嘆き、折れかかっている私共を、審いて折る事なく、傷を包み、その傷を癒しながら、そこから救い出して愛を与えて下さるお方なのです。

 パウロが、このTコリント11章で「自分にさばきを招く」と書いたのも、ロ−マの信徒への手紙8章の1節で「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められる事はありません」と書いているのも、キリストが「私共の罪を審く」のではなくて、「十字架で負って身代わりに神に審きを受けた事によって、愛の無さを嘆く者の罪を赦し、癒して、愛を与えられる」事を告げているのです。