「救いに捕らえられているから」
ロ−マの信徒への手紙8章1〜11節
8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
8:2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
8:3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
8:4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
8:5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
8:6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
8:7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
8:8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
8:9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
8:10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
8:11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「あなたは罪には定められない」
ロ−マの信徒への手紙8章1〜11節.中心聖句1〜2節、04.9/19
今朝からロ−マの信徒への手紙の8章に入って参ります…この8章は、実は3章21節から始まっていた第2部のまとめの所です。この第2部は、一貫して「信仰によってのみ義とされる(救われる)」という事を語ってきました。使徒パウロは、1節からが、ここ迄のまとめである事を表す為、「従って、今や」と語りはじめ、2節で「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」と言ったのです…「キリストの十字架を信ずる信仰によって聖霊が注がれ、聖霊が神の命を与える法則によって、罪と死から解放されるという事です。
お気づきかも知れませんが、此処まで、使徒パウロが罪について「私」と言って語ってきました。自分の罪を聖霊に示されながら、罪というものが、どんなものなのかを発見しながら書いていたからです。そして、ここに来て”救いについて”書き始めた時、一転「私」から「あなた」と変えて「あなたは罪から解放されているのですよ」、「この救いはあなたの事ですよ」と書き始めたのです。
”救いの福音”を一言でいうと、この1節になるのです…「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められる事はありません」。ここで宣言されている「もう、あなたは罪に定められない」…この神の宣言は2つの祝福を約束します。
どんな時も、”神さまが共におられる事(神の臨在)”と、”天国を約束する”からです。見えない神の臨在と見える神の臨在が約束されているのです。
この恵みは、”日本的に言うなら「ありがたい」約束”です。こんな”一方的でありがたい恵みは、世の何処にも無い”のです。もし、この”ありがたみが分からなくなる”としたら、それは”罪に対して心が鈍感になっている時”なのです。”悪魔に心の眼差しを曇らされている時”とも言えるのです。またそれは、虚しい人生の前ぶれという事もできるのです。「ありがとう」の豊かな心を忘れた人生は虚しくなって行くからです。
ロ−マの信徒への手紙を読んで参りますと、”自分が如何に罪人かが分かって参ります”。3節に「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです…。」とあります。これは「人は罪に支配されていて、神に喜ばれる生き方が出来ないので、神は御子を十字架に架けられた」という事です。
この所を、宗教改革者のルターは次のように言いました。「人は善い事をしている時ですら、心の中に肉の思いがある限り、それがどんなに善い事であっても罪に変わってしまう」と…。
この”肉の思いというのは、神の栄光を求める思いでなくて、自分の栄光を求める思いの事”です。「肉の思いに生きる人は、この自分の名誉の為、自分の損得に生きる事から自由になれず、一切を罪に変えてしまう」と言うのです。ですから、”人の善行には偽善の臭いや、裏に損得勘定が見え隠れする”のです…”肉の人は決してそこから自由になれないからです。本来人は皆、罪人であり、最後の審判の座で裁かれ、永遠に滅ぼされてしまう筈だった”のでした。
3節にもう1度目を留めますと、「肉の弱さの為に律法がなしえなかった事を、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除く為に御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」とあります。
私共が”自分の力では、自分の弱さや罪から解放されない”から、”神は御子を人として、この世に送り、人の罪の一切を、御子に背負わせて十字架で罪を処断した…即ち、罪から断ち切って下さった”と言うのです。”神は主イエスの十字架にかけて、私共をではなく、私共の内にある罪を断ち切られた”のでした。
この”一方的なありがたい恵みは、キリストによって与えられる恵み”なのです。2節に「キリスト・イエスによって…罪と死との法則からあなたを解放した」…というのは「キリストの十字架によって」という意味なのです。
「十字架を、自分の罪を赦す為と信ずる者は、”御霊によって新しい命が与えられ”罪から解放されていく」のです。犬は人の言葉をある程度分かっていても話す事は出来ません。しかし、人の命をもって生まれてきた赤ちゃんは、何時か話せるようになるのと同じように、”キリストを信じて、新しい神の命を受けるなら、人は必ず罪から解放されていく”のです。
ですからパウロは、この救いの恵みに預かる者を、2節で「キリスト・イエスに結ばれている者」と言ったのでした。「結ばれている者」を厳密にいえば、「中にいる者」と言います。即ち、「キリスト・イエスの中にある者」という事です。
この「キリストの中にいる」というのは、「キリストの躰である教会の中にいる(教会というキリストの躰とされている)者」の事でもあります。ただ居るだけではなく、”信仰によって聖餐にあずかっている者。信仰によって十字架の血潮と肉にあずかって、「自分の躰が、教会というキリストの躰とされている」と信ずる者こそが、罪から解放され、新しい命である、キリストの命と、キリストとの平和に生き、永遠の命に至るという聖い実を結ぶ”のです。
言い換えると、神の新しい命が与えられる者は「自分が自分の中にいない者」という事が出来ます。自分の中に自分自身はいない?
では何処に自分がいるのか?…”キリストの中にいる”のです…その者だけが、”キリストの命とキリストの平和に生かされ、天国が約束される”のです。
では”キリストの内にいる”とはどういう事なのでしょうか?…御霊を注がれるという事です。2節「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」…ここに、”キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則”とあります。キリストを信じる時働かれる御霊が、私共を罪から解放するのです。十字架の救いを私共1人〜にもたらし、キリストの中にいるものとして下さるのです。
”聖霊=御霊”の事です。ある聖書学者は、「8章の1節から30節までに、御霊もしくは、御霊を指す言葉が、19回出てくると」言いました。それに対して、1章から7章までには、たった4回、9章以下では7回しかないのです。それ程に、ここでは、”キリストの御霊である聖霊を強調している”のです。”聖霊は私共をしっかり捉えてキリストと結びつけ、新しい命を与え、私共の生活を、キリストの命とキリストの平和に生かされる生活へと作りかえてしまう”のです。
”聖霊の働き”と申しますと、雲を掴むように感じる方がおられるかもしれません。それはキリスト者の誰もが預かっている、ありがたい恵みの世界なのです。
6節にあるように、「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」とあるように、キリスト者が人生を振り返る時、「ああ、あそこで聖霊は私を罪から解き放って下さった」「あそこでも変えられた」という”神の命の力によって、罪から解放された事”に気づきます。また「あの苦しみの中で人生が神に導かれた」とか、「ああ、あの時、私の愛ではない、神の愛が与えられて赦す事ができた」、「神さまに会いたいと礼拝に向かう心が与えられた」という、”神(キリスト)との平和による、神(キリスト)の愛に生きる力も、聖霊によらなければ決して与えられない経験”なのです。
では”御霊を受ける時、人は何故、キリストの中に生きる事が出来る”のでしょうか?…その答えが9節なのです…「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」とあるのです。反対を言えば、「御霊を受けた者は、キリストに属する者、キリストのもの」と言う事です。
御霊は、毎日毎日「あなたはキリストのものだよ」「あなたは私の目には高価で尊いのだよ」「私はあなたを愛している。あなたは私に従って来なさい」と語りかけて下さるからです。「あなたは私のもの」というキリストの言葉を聴くというのは、なんと幸いな事でしょうか。なんと安心し、癒される事でしょうか。
戦後、モーレツ社員とか会社人間と呼ばれた方々が日本の経済復興を成し遂げて下さいました。”会社から「お前は私のものだ」と言われた人達”です。しかし、そうした人々が定年になった時、定年離婚が流行りだしたのです。定年退職した日に、奥様が三つ指ついて、「あなた、今迄お疲れ様でした。つきましては、私も今日をもって、あなたから退職させて頂きます」といわれるというヒヤッとする話です。それが妻や家庭を顧みず、会社に人生をつぎ込んだ結果です。
しかし、”キリストに「あなたは私のもの」と言われた人の人生は、死ぬ筈の身体が生かされ、神の命と神の平和に生きるのです。
私共の罪は、キリストの十字架によって、既に罰せられた”のです…”もう罪に捉えられてない”のです。
でも現実を見ると、「どうして、またこんな事をしてしまったのか?」という事を繰り返すかも知れません。しかし、その中で「あなたが私の中にいるのなら、あなたは、もう罪に定められる事はない。あなたは私のものだ。安心して悔い改めて、私の下に帰ってきなさい」という”キリストの御声を聴き続ける事が出来るのです。そしてこのキリストの御声を聴く者だけが、安心して、真の悔い改めをもってキリストに立ち返り、キリストの命と、キリストとの平和に預かって行ける”のです。