「救いに捕らえられているから」

ロ−マの信徒への手紙7章24節〜8章1節
7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
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  「救いに捕らえられているから」
    ロ−マの信徒への手紙7章7〜25節(W).7:24〜8:1.04.9/12
今朝は、この箇所から4度目の説教です。今朝でこの箇所を終えたいと思っておりますが、今朝も、先週に続いて24節の「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」という御言葉を中心に、「救いに捕らえられているからこそ出来る悔い改め」という事を、共に神の言である聖書に聴いて参りたいと思います。

 使徒パウロが、このロ−マの信徒への手紙を書いた時、今のように紙やペンがあった訳ではありません。パウロが聖霊に導かれて語った言葉を、秘書が一語一語、紙とは言えない繊維に書き留めていったのでした。

秘書が、いつもの様にパウロの言葉を書いていた時、パウロが、しばしの沈黙の後、突然「私はなんと惨めな人間なのでしょう」と叫んだのでした。 この筆記者は16章に出てくるテルテオと言われています。”彼は元奴隷でしたので自由人であるパウロの口から、奴隷の叫びのような言葉が出て来た事に驚いた”と思います。

 先々週、コメントのしようのない凄惨な事件がロシアで起きました。小学校に立てこもったテロリスト達が、500名を超える死者を出した事件です。インターネットで、頬と額を釘が貫通したて亡くなった綺麗な顔をした小さな男の子の写真を見ました。テロの悪魔性を見ました時、憤りが湧いてきました。

悪意を持った人に故意に子供を殺された傷というのは癒ないと思います。勿論、彼等がテロリストになるには、それだけの事情もあったと思います。また、ロシアの強圧政治に対して民族紛争を混乱させて抵抗する政治的狙いもあったのかも知れません。

だからと言って、「人間にこんな悪魔的な事が出来るのか?幼子達の怯え涙する姿を見て躊躇はなかったのか?」と呻く思いで、「イエス様に死者を受けとめて下さい」と祈りました。この犯人達が「私はなんと惨めな人間なのか」と嘆き叫ぶのならば分かりますが、この嘆きはパウロの叫びだったのです。

 何故、”たんたんと罪の本質を語り続けていたパウロが、ここで急に叫びだしたのでしょうか?”…それは、パウロが此処まで、”自分の罪を見つめながら、聖霊に示された罪というものについて語ってきたから”でした。

 そして、”いよいよ罪が、どんなものなのかが腹の底から分かって来た時、パウロは絶句した後に叫ばずにおれなかった”のでした。ですから、”同じ聖霊を心に受けているキリスト者は、このパウロの叫びは、「ああ、これは自分の叫びだ」と分かる”のです。

 ”聖霊は十字架のイエス様と共におられた唯一人の御方”です…ですから、”私共が犯した罪に対する神の審きの恐ろしさは、十字架に架かられたキリストと共におられた、聖霊様だけが御存知”なのです…それは”体中の全細胞が凍り付き砕け散るような恐れと絶望だった”と思うのです。そして、”その痛みは聖霊なる神だけが、私共に示す事が出来る”のです。

 私共が、礼拝で説教を聴きます時にも、語られている聖書の言を、聖霊によって語られる事があります。「ああ、神が今、私に対して語っておられる。自分の罪に対して語っておられる。ああ、神が今、私を赦して下さっている。神が私を導いて下さっている」と示されるのです…その時、人は、眠気も忘れ、感動して聴く”のです。感動という字は「感じて動く」と書きます…その時人は、神に対して動き出す”のです。

 ここで、神の言に感動して動いたサムエル記下12章のダビデのお話しを思い起こしたいと思います。”ダビデ王は自分の部下の妻、バテシバの美しさに夢中になりました。バテシバの夫ウリヤは忠実な部下だった”のですが、その”ウリヤを戦場の最前線に送り戦死させてバテシバを手に入れた”のでした…しかし、誰も権力者であったダビデ王を批判出来なかったのでした。そして、”ダビデ自身も、自分の罪に気づかなかった”のです。

 そんなある時、そんな”ダビデ王に対して預言者ナタンがこのような話をしたのです。「ある時、2人の人があって、一人は富み、一人は貧しかった。富んでいる人は多くの羊と牛を持っていたが、貧しい人は自分が買った1頭の小さい雌の小羊以外は何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、小羊は貧しい家族と共に成長し、家族と同じ食べ物を食べ、彼等と共に寝て、彼等にとっては娘のような存在でした。そして、その羊がやがて子供を産む事に期待していたのです。

 時に、1人の旅人が富んでいる人の元に来たが、自分の羊、または牛の内から1頭を取って、旅人をもてなす為に調理する事を惜しみ、その貧しい人の小羊を取って旅人の為に調理した」というのです。その話を聞いたダビデ王は怒り、「そんな奴は殺してしまえ」と言ったのでした。その時”ナタンは、「それと同じ事をしたのが、あなたなのだ」と言って罪を責めた”のです。”正に命がけの進言”でした。私共はこの事を”他人事として聞いてはいけない”のです…”自分の罪は自分では気づかない”という事を注意深く聴くのです。

 ここで”ダビデ王は初めて自分の罪が死に値するとんでもないものであった事に気づくのです…そこでダビデ王は、神に対して動き出しました。悔い改めを始めた”のでした。

 ここが”ダビデ王の信仰を聖書が評価する所”なのです…”罪が分かるという事は、その中で嘆き続ける事ではない”という事なのです。そうではなく、”自分がどんな絶望的な危機の中にいるかが分かり、と同時に、神の元に救いがある事を知り、神の救いの中に帰って行く事”なのです。それが、”悔い改め”なのです。事実、”パウロという人は、イエス・キリストを知る前には、自分の惨めさを嘆いて叫んだ事は1度も無かった”のです。

 使徒パウロが「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」と語った時に、その中でもパウロが、イエス・キリストの内に救いがある事を信じ抜いていた証拠が、25節なのです。

25節「私達の主イエス・キリスト」と語っているのです…”主というのは救い主”という事です。パウロはどんな時でも、迫害の中でも、また弱さの中でも、罪深さに打ちのめされた時にも、”キリストを救い主として見失った事は1度も無かった”のでした。

 ”キリストを本当に殺し続けて、その審きを身に負った”のは、”悔い改めを忘れた律法学者達だった”のです。”悔い改めを忘れ、自分を正しいと思い続けた信仰者達がキリストを殺し抜いた”のです。”悔い改めを忘れ、自分を正しい者として、人を裁き、神さえ裁く者は、キリストを殺し抜く”のです…他人事ではありません。”しかし、使徒パウロのように、罪を見つめて心の底から「ああ、私は惨めな人間だ」”と叫ぶ者は、救いに預かる事が出来る、”のです。

 この嘆きの叫びは形だけ真似ても意味がありません。パウロが心から叫んだ事は24節と25節の間にに現れているのです…「ああ、私は惨めな人間だ」と25節の「私達の主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」の間には、言葉の飛躍がありすぎます。言葉が足らないのです…実は、此処には「間」があるのです。パウロが心で語っていたという事は、間が物語っているのです。

 おそらく、この時パウロは、”感極まって黙ったのだ”と思われます…その”間=沈黙の中で、パウロは神の言を聴いた”のでした…そして、パウロの心には、聖めの感謝が生まれて来たのでした。”私共も神の御前に立ち、キリストの十字架の救いと聖めを信じ、黙って神の言を聴く事が大切”なのです。此処には誰も入れません…”その人と神との信仰による交わりだから”です。”祈りの中で神の言を聴く、そこで御言葉にじっと聴く者だけが、神様が注いで下さる、救いと聖めを受け取る事が出来る”のです。

 ”悔い改め”は、”十字架の下に、神の赦しと救いがあるから出来る”のです…罪が分かってそれで終わりなら、その恐怖に一体誰が耐えられるでしょうか?…”キリスト者は、あそこに行けば赦される事を知っているから悔い改める事が出来る”のです。

 この罪との戦いの緊張は生涯続きます。その事を25節は語っているのです。「私達の主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」の後半に、「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」と…。

 罪赦されたキリスト者は、成長していきますと、更に深い所の肉的な所が見えて来るのです。自分の肉の中に、”罪の法則”が残っているからです。礼拝を終えて家に帰りますと、「また、やってしまった」とキリストを裏切る事を繰り返すかも知れません。「どうして自分はこうなんだ」と腹立つ事もしばしばです。そうした中で、”パウロが8章の1節で言った「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」と言う神の言を聴く”のです。

 自分がどんなに駄目な者でも、キリストは、それを十分ご存知で十字架に架かって下さった…だから、”私は駄目な者であっても、十字架によって、既にキリストに結ばれた。キリストに捕らえられているんだという安心の中で、人は悔い改めに立ち帰る事が出来る”のです。