「聖霊の細き御声を聴く祈り」
ロ−マの信徒への手紙7章6節
7:6 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放 されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕え るようになっているのです。
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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「聖霊の細き御声を聴く祈り」
ロ−マの信徒への手紙7章6節.2004.8/8
今朝は先週に続いて、ロ−マの信徒への手紙7章1〜16節を通して、共に神の言に耳を傾けて参ります。今朝は、”聖霊の細き御声を聴く祈り”について考えてみます。私共が受ける”洗礼”というのは、”キリストを救い主と信じる信仰をもって、水に浸かる中で、罪を洗い流してくださる主イエスの死と復活に預かるものです。そして、神さまの子供とされ、神の家族の一員として教会に迎え入れられる(キリストの躰とされる)事”なのです。
では”洗礼を受けたら、私共はどう変わるのでしょうか?”…それは人さまざまです。喜びが溢れてくる人もおりますし、情緒的には何の変化も感じない人もおられます。或る方は、「洗礼式の後で教会員の方々から、『おめでとう』〜と言われましても、何がめでたいのか良く分からなかった。自分はちっとも変わっていないと思った」と言われました。
しかし、その方は、「いつの間にか、自分が変わり始めている事に気がついた。鏡を見ていて、自分が前と違った顔つきになってきている事に気がついた」と言われたのでした。そこで,洗礼を受けるとはどういう事なのかを6節に集中して聴いて参りたいと思います。
6節「しかし今は、私達は、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」…ここに「しかし今や」とあります。「今は昔とは違う」という事なのです。
”洗礼を受ける”という事は、”自分の人生を前と後に全く分けてしまうから”です。昔、伊豆大島のバイブル・キャンプで、イエス様を救い主と信じて救われた青年が、布団の上げ下ろし迄変わったのを覚えています…それは、”洗礼という儀式に力があるのではなく、主イエスを信じて生じた心の深い所の変化の表れ”なのです。
先週予定されていましたファミリーキャンプは、台風の影響で、山間のキャンプ地の為に中止となりました。しかし、今年は特別な事がありました。韓国、中国、台湾から伝道チームが参加して下さる予定だったのです。
学生さんや、社会人の方々が仕事の合間に賛美や劇の練習をして、そして、何よりも祈りを積まれ、全て自費で、そして伝道の必要経費を献金して来て下さったのでした。しかし四国に入った途端、突然のキャンプ中止…宿泊所も無くなり、祈り、そして準備して来られたものが、皆、無駄になる事態になってしまったのでした。
そこで観光を兼ねて行く予定だった松山に行って、松山城で祈ったのだそうです…”その時、彼等の心に触れた聖霊は、「人の力は無力である事、天候の前にも、神の前にも…。その中で、「全てを神にお任せしよう神様は何とかしてくださる」との祈りに導かれた”のだそうです。
そして、その夜は兎之山キャンプ場に泊まる事にした言うのです。キャンプ場は昨年の崖崩れの修復が終わっておらず危険な為、急遽、土居教会に泊まって頂く事にしました。会堂に座布団を敷いて寝て頂きました。
1番驚いたのは、夜の11時半に到着された時、疲れ切ったおられるのに、その中の数人が会堂の隅の方でひれ伏して祈っておられるのです。愚痴1つこぼさず、それ所か聖霊に満たされて委ねきっておられるのです…私は感動し、また教えられ、直ぐに彼等と1つとなる事が出来たのです。
一通り自己紹介が終わった所で、「牧師先生御家族は真ん中に来て下さい」と言われ、そしたら周りを囲んで手を置いてお祈りをはじめられたのでした。ビックリしながらも聖霊で満たされたのです。翌朝も早くから賛美して祈っておられました。折角なので子供集会をして頂く事になりました。
急遽、数名程人を集めましたが、どうにもなりませんので、隣の教会にまで声を掛けて集会が始まりました。青年達の賛美と劇とメッセージ…全て素晴らしいものでした。”何よりも、ハプニングの中、愚痴一つ言わす、自分を献げ切って、委ねておられる姿に教えられ感動”しました。そして教会の掃除までして下さいました。その上Youth Jam2004の為に献金して下さったのです。
”青年達が土居教会に溢れている姿を見て、私は、この教会にも青年達が溢れるビジョンと、彼等のようにキリストに自分を喜んで献げて祈り委ねる姿を見て、この教会で救われる者達が、そんなキリスト者へと成熟していく…そんなビジョンも頂いた”のです。
昨日まで、サッカーのアジアカップが中国で開催されていましたが、日本に対する大ブーイングをみて、日本のアジア侵略によって、今なお残る反日感情を見せつけられました。そんな中国、台湾、韓国から来て下さったのです…”聖霊に生きるとはこういう事”なのです。
パウロは6節で「…律法から解放されています。その結果…“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」と言いました…”律法を守るだけの信仰には、今申し上げたような、力と喜びと自由、そして「主に従って生きたい」という思いは無い”のです。”聖霊が、新しい恵みの世界を与えて下さる”のです。
金曜日の夕方5時に鷲沢姉が天に召されました。お祈り下さった方々に感謝致します。本当に優しい鷲沢姉との出会いは、土居の地に参りまして、神様から頂いた宝物の1つです…毎週、週報で、鷲沢姉の証しを読んで参りましたが、その証しが完結する日の週報で、姉の召天をお知らせする事になりました。鷲沢姉の生涯は、正に涙の谷の連続でしたが、正に、聖霊に支えられ導かれた連続のご生涯でありました。
5節に「罪へ誘う欲情」という言葉があります…これは”性欲”の事です。性欲や食欲などの”欲望は、生きる為に必要なもので、元々は罪ではない”のです…”神が造り備えて下さった尊く聖いもの”だからです。それを”人間の罪が罪に変えてしまった”のです。
私共が、”キリストを信じて、新しい者(キリストの者)と変えられる時、欲望も、元々の聖なるものへと変えられて行く”のです。ですから、使徒パウロは、「そうした変化は新しい霊(聖霊)によって起こる」と言ったのでした。
”ロ−マの信徒への手紙は、「信仰によってのみ人は義とされる(救われる)」と語り続け”ます。その通りです。けれども「信仰によってのみ」と言う事は、「神の霊(聖霊)の力によって与えられる信仰によってのみ」という事なのです。ですから、このロ−マの信徒への手紙は「聖霊によってのみ、人は十字架が救いに預かって救われる」とも言えるのです。
正式な茶室では、茶室に入る前に、つくばいの水で手を洗います。ひしゃくで水を手にかけます。その水が下に落ちます。何の音も聞こえませんが、地面に耳をつけるようにして耳を澄ましますと、微かな響きが土の中から聞こえて来るのだそうです…もう1つ地中に壺があるからです…”聖霊を受ける”というのはそう言う事なのです。
”今迄と違って、聖書の言葉が神の言として聴こえて来るようになる”のです…”信仰によって洗礼を受けた者に、聖霊が注がれて、今まで見えなかった神の愛や、神の御心、神の御支配が見えて来る”のです。
”旧約聖書のエレミヤ、エゼキエル、イザヤという預言者達”にも、そうした姿を見る事が出来るのです。”十字架以後は、十字架を信ずる全ての者が、罪赦されて神とつながり、聖霊を受けて神の子とされるようになり”ました。しかし、”罪が赦され、神につながる道が無かった旧約聖書の時代は、預言者だけが聖霊を受け”て、”民を代表して神の言を受けて民に語った”のでした。
預言者達は皆、困難な時代に神に起てられました…そして、”民の嘆きを聴き、神に執り成し祈った”のです。”神は預言者達の祈りに応えて、民の祝福を回復させようとして、民の罪を指摘した”のでした。しかし,”民は悔い改めをせず、かえって反発した”のでした。板挟みになった預言者達は、みな「神よ。どうして、あなたは私にこんな目に遭わせるのですか?」と呻き祈ったのでした。
しかし預言者達は、そこで、”他の人々が決して聞き取れない聖霊の囁きを聴いた”のです…それは、「やがて救い主をこの世に遣わす」との約束でした。そして、それから数百年後、この地上に、”救い主イエス・キリストが誕生した”のです。
ですから、使徒パウロは、このロ−マ書の手紙5章5節で、「希望は私達を欺く事がありません。私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです」と言ったのです。”聖霊の約束通りに、神が神の独り子を、救い主として、地上に送って下さったから”でした…”。パウロはそこに注がれる神の愛を見た”のでした。
ここに”祈り手という存在の尊さ”を見る思いが致します…韓国チームの方が、同行してきた信仰の浅い方に、「あなたがさっきお話しされていた事だけど、私なら、人に相談する前に、お祈りして御言葉を聴くわ」と話されていました…”祈りながら御言葉に聴き、聖霊が語られる細き御声を聴く”のです。”聖霊の細き御声に聴く…そんな祈り手が教会には必要”なのです。
土居教会には、その様な祈り手が沢山おられるのです…”今、共に立ち上がって、祈りの伝統を受け継ぎたい”と思うのです。”聖霊の細き御声を御言葉を通して聴く、そして御言葉に委ね御言葉に生きて、神の御業を見る…その時、人は、「誰が何と言おうが、私は神に愛されている」と言えるようになる”からです。そして,それが、”神の霊に生かされる”という事なのです。