霊的な律法

ロ−マの信徒への手紙7章6〜14節

7:6 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
7:7 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
7:8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。
7:9 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、
7:10 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。
7:11 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。
7:12 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
7:13 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。
7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。

マタイ5章3節
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
  「霊的な律法」

   ロ−マの信徒への手紙7章6〜14節.マタイ5章3節、2004.8/29  

 今朝、私共に与えられている神の言は、ロ−マの信徒への手紙の7章です。初めに6節をお読みします。「しかし今は、私達は…律法から解放されています」と書かれています。2節、3節にも「律法から解放される」と書かれています…という事は、”律法は、それまで人を、がんじがらめに束縛していた”という事になります…しかし、律法が本来そういうものでない事は、7節や13節にもある、「決してそうではない」と言うパウロの言葉から分かります。

 7節「では、どういう事になるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない」。また13節では「それでは、善いもの(律法)が私にとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない」…更に14節で、使徒パウロは「私達は律法が霊的なものであると知っています」と言ったのでした。6節では、「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた…律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」と言うのです。
 
 「霊的」という事は「神様に与えられたもの」という事です。…”神の言は天地を創り、人を造った命の力を持つもの”でした…ですから、”霊的なものには、人を生かす命がある”のです。 

 ”律法は、「〜しなければならない」というように人を縛る掟”ではなく、”神と関係のズレを発見し、悔い改めへと導いて神との関係の回復を与える”…つまり”律法は、人が神との関係を回復して幸福になる為に、神がお与え下さったもの”なのです。

 たとえば律法の基本である十戒に、「人を殺してはいけない」という戒めがあります。そこには「あなた方は殺しあわないで生かしあって欲しい」という”神の深い求めがあった”のです。 所が今なお人は殺し合っているのです。

 先日もロシアの旅客機が2機、同時テロで墜落しました。イラクからも、連日のようにテロのニュースが届きます…ここにも、「人には神の御心を生きる力がない」事が現れていると思います。

しかも、この”殺人の罪”は他人事ではないのです。聖書が「殺してはいけない」という”殺人の罪”には、”心の中で「あんな人いなければいい」と、誰かの存在を否定する事も含まれているから”です。私共が憎む人も、神に造られた人、神が御子を十字架に架けた程に愛されている人だからです。

 確かに、憎んでいる人を好きになる事は出来ないかも知れません。しかし、「神は愛しなさい」と言われたのです…これは、”好きになるという感情の愛ではなく意志の愛”の事なのです。相手を許し受け入れるという”意志の愛”です…しかし”生まれたままの肉の人には出来ない事”なのです。

敵を愛する愛は、”神の敵であった自分が、十字架でキリストから、受け入れられて罪を赦され、新しく生まれかって霊の人になる”という”神に愛された経験を持つ者だけに可能な愛”だからです。ですから、”神は全ての人に、肉の人から霊の人に生まれ変わる事を求める”のです。

 ある本に「人は信じている相手に裏切られた時とか、愛され愛するという人間関係が築けない時には幸福を感ずる事は出来ない」と書いてありました。ですから多くの場合、”幸福を取り戻す道は、許すという道”になるのです。

 ポーランドで、一人の司祭が弾圧する体制側の手によって捕らえられて殺され、その司祭の遺体が捨てられるという事件があったそうです。その時、教会にミサをする為に集まった人々が「主の祈り」を唱えていた時に、「我らが許すごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」という所で祈れなくなってしまったのだそうです。

「赦せない」という気持ちが高ぶってきて祈れなくなったのです。どうして、この敵を赦す事が出来るのか?…しかし、「主イエスが敵を赦しなさいと言われたのです」という司祭の言葉によって、やっと会衆は重い口を開けて、「主の祈り」を祈り通す事が出来たと聞きました。その時、会衆の目には涙が溢れていたそうです。

このような事は霊の人でなければ決して出来ない事なのです。反省もしていない相手を許す事は、簡単に出来る事ではありません。しかし、”霊の人には、聖霊の助けと支えによって、審きを神に任せて、自分は許しに生きる事が可能”なのです。

「罪が律法によって明らかになる」という事は、決して”律法を守れない姿を明らかにする”という事だけではなく…むしろ、”貪りの罪を明らかにする為だった”のです。

 13節「それでは、善い(律法)ものが私にとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善い(律法)ものを通して私に死をもたらしたのです」…律法は、罪の正体を現す為に働いたのです。そして、その罪というのは、”むさぼりの罪の事なのです。

 ”自分の考え、自分の欲、自分の感情、自分の恨み等が心にのさばり、心の内の神の座を貪って神を追い出し、祈って神の御心を聴かない、神の御心を求めない事…この姿をエゴと言います。律法は心の内の、この「むさぼりの罪=エゴ」を明らかにする”のです…。

 そうした「貪り」という、”心の中の罪が正体を現す為に律法が必要”なのです…”霊の人は、そんな自分の内の罪に気が付く度に悔い改めて、主イエスを心の主として取り戻す”のです。ですから”恵みの時代に生きている私共にも、霊的な律法は必要”なのです。

主イエスが語られた山上の垂訓の中に、マタイ5:3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」という御言葉がありました…”天国というのは神がおられる所=神と交わる事の出来る所”の事です…ですから”キリスト者は、神との交わり(祈り、御言葉を頂く、礼拝、聖餐、交わり、賛美)において、この世にありながら天国を先取りする、神との交わりを経験をする事が出来る”のです。

 その”天国の先取りの経験は、貧しくなる事によって与えられる”のです…ですから「貧しくなりなさい」というのは、「むさぼりの罪を捨てて、貧しくなって(心のエゴを空にして)神の御前に立ちなさい…そして、両手を広げて神の慈しみと力に占領されなさい」という事なのです。

 ”十戒”の中にこのような戒めもあります…「私はあなたをエジプトの地、奴隷たる家より導き出した者である」…ここを新約聖書の光から見るなら、”あなた方は自力では脱出が出来ない、絶望や、死、永遠の滅びがある…そこから救い出したのは御子の十字架と復活ではないか”と言う事なのです…”そこから連れ出して下さるのは神だけ”なのです。

 だからこそ、”むさぼりの罪(エゴ)に気づいた時には、悔い改めて、十字架によって、そこから解放して頂く事を祈り求める”のです…そこで人は、”イエス・キリストの甦りの命が、どんなに自分を罪から解放し、神との豊かな交わりを回復して下さる事を知る”のです。

 ”律法は「〜しなければならない」という掟として捉えるものではなかったのです…自分の内のエゴという、むさぼりの罪に気づき、悔い改めてイエス様との交わりを回復する為にある”のです。

 海面は嵐で大荒れでも、深い海の底は穏やかなように、絶望や悩みのどん底でどうにもならない時に、心貧しくなって、主イエスを心に迎え入れ、全てを御存知である全知全能の神に飛び込んでいくなら、”人は魂の奥底には揺るがない平安が与えられる”のです。それは神の御許で安心を深呼吸して、「ああ私は安らかだ」と言えるような平安なのです。

 ”それは肉の人ではなく、救われて霊の人に生まれ変わった者だけが預かれる平安”です。そうした”主イエスの平安に預かる為に、私共が知らなければならない事が1つ”ありました…最後に復習して終わります。

 それは、”霊的な律法によって、自分がどんなに罪深いかを知る事”なのです…”心から神を追い出して生きていたかを深く知り、そこで、その貪りの罪から解き放って下さるキリストを求める事”なのです…”人はそこにおいてのみ、キリストとの交わりを回復し、主の平安に預かる事が出来る”のです。