「足腰の強い教会へ」
ロ−マの信徒への手紙6章15〜23節(V)
6:22 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「足腰の強い教会へ」
ロ−マの信徒への手紙6章15〜23節(V)、中心聖句22節、2004.7/25
今朝は6章15〜23節から3度目となりますが、22節「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です」から、”聖なる生活の実”という事を心において聴いて参りたいと願っています。
”聖なる生活の実”というのは、”礼拝生活に於いてつくられていく、キリスト者としての質”の事です…”神の僕としての質”という事もできます。
では、”神の僕としての質”とは何でしょうか?…”御言葉に生きる足腰が強いか?”という事です…”足腰の強い教会”という言葉を聴きますと、先ず思い浮かべる事は教勢(礼拝出席者)の多い教会ではないでしょうか?確かに、人が集まる教会というのは、伝道力があるとも言えますので、足腰の強い教会かも知れません。
しかし、売り上げという数字を追いかける会社の経営でも、数字ばかりを追いかけていますと、広い視野を失ってしまい、進むべき道を誤ってしまいます。まして教会は経営ではありません。教会が伝道意欲を失った結果としての教勢(礼拝人数)の減少なら悔い改めなければなりませんが、教会には波がつきものです。また、教会の更なる前進と成長の為に、時に神は喜ばしくない出来事が起きる事を許され、その事を通して、ふるいにかけておられる場合もあるのです。
”教会にとって大切なのは、数ではなくて質”なのです…その、”キリスト者が、そして教会が、神様から召された者として問われる質”こそが、”神の奴隷となっているか?”という事なのです。
言い換えれば、”信仰の強さ”です…”神の僕として御言葉に生きる”…御言葉に聴き、御言葉に委ね、御言葉に生きる。その信仰から生まれる足腰の強さが、神が教会に求めておられる事なのです。
ですから、私共が自分達の信仰の足腰を見つめる時に、祈らずにおれなくなるのです。先週の祈祷会より、1人の御高齢の婦人が、教会の足腰が強められる為にと、お身体の弱さを押して祈祷会に戻ってきて下さいました。2ヶ月前は、もう1度起きる事が出来るのかと誰もが思った所から復活されて祈りに献身して下さったのです。まだ十分ではないのにです。そのように、”祈りへと献身して行く所で教会の足腰は強められて行く”のです。
キリスト教会最初の伝道者パウロが、このロ−マの信徒への手紙で語り続けた事は、「信仰によってのみ人は義とされる事」でした…”自分の行いや力ではなく、キリストの十字架の恵みによってのみ人は救われる”と言う事でした。
”信仰の足腰が強められる事も同じ”なのです…それは先ず、”自分の弱さを認める”事から始まるのです。試練や重荷の中で、神を信じ抜く事が出来ず、祈る事さえ出来なくなる自分の弱さをを認めるという事です…そうした、”自分の弱さを認めて、弱さをじっと見つめる所に、そんな自分受けとめ、赦し、そこで立つ力を与えてくれる、神の恵みというものを知る事が出来る”からです。
22節の始めでパウロは、「あなたがたは、今は…」と言いました…「しかし、今や違う。ほら新しい出来事が起こっているではないか」と言う事です。考えて見ますと、”使徒パウロは、これからロ−マの教会を訪ねる”のです。それなのに、まだ見ていないロ−マの信徒達へ「あなたがたの所に、今既に、こういう事が起こっているではないか?」と言ったのでした。何故、そんな事が言えたのでしょうか?…それは、”自分に起こった事がそこでも起こっていると信じる事が出来たから”でした。そして、それは、”今、此処にいる私共にも起こっている事”なのです。
それが22節の最初にある「あなたがたは、今は罪から解放されて…」という事なのです。「罪から解放されるという事が私の上に起きた。そして、それは、あなた方の上にも起きている筈だ」と言ったのでした…”「私は罪から解放された。あなた方にも起きている」と言ったのです…罪から自由にされた者だけが、恵みによって、足腰の強い信仰に生きる事が出来る”という事なのです。ですから、”キリスト者は罪から自由とされたという所に留まる修練をする(悔い改めの祈りと、罪赦されたという信仰に立ち…喜びと自由に留まる)”のです。
先週、礼拝後に、教会学校の子供達と卓球をしました…その脇で、私は千代子姉のお孫さんとじゃれていました。驚いた事にその子は、まだ小さいのに強いのです。キックやパンチに腰が入っているのです。聞けば少し格闘を学んだ事があると言う事でした。
一流のスポーツ選手は基礎を徹底的に訓練します。スポーツで徹底的に学ぶ基礎は1つです。”足腰がきちっと入った型を学ぶ”のです。そうした”厳しい修練の中でも一流の選手は、萎縮せずに、自由に自分の力を発揮する術を知っている”のです。信仰も、”信仰の足腰が座っている人は、神の僕として、神様が「行け」と言われる所に、御言葉に従って飛んで行く自由を持っている”のです。
22節で使徒パウロは、「自分達は、今は罪から解放された神の奴隷である」事を、それだけを自分の肩書のように繰り返し〜述べたのでした。自己紹介を、学歴や地位など関係なく、ただ、「私は神の奴隷である」と言い続けたのでした。
”足腰の強い教会になるという事は、パウロのように、ひたすら神の僕に撤する事”なのです…”しかし、神の僕になる事は窮屈な事ではない”のです…”キリスト者は、罪赦され、罪から自由にされた所から沸き上がって来る喜びによって、自由の中で神の僕となる”のです。ですから、キリスト者は、罪が赦された所に留まる修練する”のです。
聖書の中には、あちこちに”足腰という言葉”が出て来ます。一箇所ご紹介します。ルカ12章35節「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」…これは、”主イエスが弟子達に語られた御言葉”です…”主イエスが「世の終わりに再臨される時に備えなさい」と言われた所”です。
腰に帯を締めていないと、たとえ目覚めていても、「イエス様ちょっと待って下さい。これから着替えますから」と出遅れてしまうからです。”腰に帯を締めるのは、「忠実に主を待ち望んで生きなさい=御言葉に聴き従って生きなさい」という事”なのです…そして、”忠実に主イエスを待ち望んで、御言葉に生きた者に対して、再臨される主イエスも、「腰に帯を締めて、僕達を食事の席に着かせて、傍に行って給仕をする」と言われた”のでした。
”天国に於いて、主イエスは、腰に帯を締めるようにして、私共に仕えて下さる”というのです…”かつて腰に帯を締めるように、十字架で命を投げ出して仕えて下さった主イエスが、世の終わりでも、腰の帯を締めて永遠に仕えて下さるという”のです。
”私共は、今や、主とのこんな素晴らしい関係に入れられている”のです。
最後に、”神の僕として生きるとはどう生きるのか?”について学びます…ブラームスの子守歌の中に、こんな歌詞があります。「あしたの朝早く、神の御心であれば、お前は目覚める…その時まで安らかにお眠り」という、はっとさせられる歌詞です。
考えてみれば、自分の子供を寝かしつける。その夜の子供の命を誰が保証するのでしょうか?親も保証出来ないのです…”1人の人を育てるのにも神様の御支配を受け入れなければならない”のです。”子供を神にお預かりした子供として認め、その子供を育てようとする時、母は、そこで神の僕となる”のです。
それは夫婦に於いても言える事であります。”夫や妻を愛し抜く、受け入れ合い、許し合い、真実を貫くのは、二人を夫婦として導かれた神を間に見て、神の僕になって仕える事なしに成り立たない”のです。夫婦の一体感を心から感じている人が、夫婦の僅か5%しかいないという現実が、その事を物語っているのです。
もう1つ、”神の僕として生きるという事”をお話し致します…フランス語や、イタリア語で「さようなら」という言葉は、「あなたを神さまにお委ねします」という意味の言葉を使うのだそうです。”信仰に根ざした別れの言葉”です。信仰の無い日本では、その言葉は輸入出来なかったようですが…。
しかし、”私共は、神の僕として生きる聖き実を結んでいる。いや結ぼうと修練している者達”です。だからこそ、”愛する者を神に委ねる事が出来る”のです…日毎に、そうした事々の中で、”神を見上げ、神の言に、神の僕の心で生きて行く事が、神の僕の生き様であり、教会の足腰の強さとなっていく”のです。
教会という場は、単なる自分の宗教心の満足とか、楽しい所とかいう場ではありません。”キリストの十字架によって、罪赦され、救われて神の子とされた=キリストの躰とされた者達が教会なのです。そんな教会に求められているのは、この地にあって、「神を神(主人)、キリストを頭とする教会になる事=キリストを頭とするキリストの躰となる」”なのです。
聖書は「しかし、今や」というのです。「あなたは、これからそうなるのではない。今、もう既に神に仕える僕となっている」のだと…”既にそうされている事を信じて受けとめる事によって、神の僕とされた、聖なる実を受け取って行く”です。そして、そこから、「神を神(主人)とする教会=キリストを頭とするキリストの躰が生まれていく」のです。