「礼拝の心」
ロ−マの信徒への手紙6章15〜23節(U)
6:15 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。
6:16 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。
6:17 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、
6:18 罪から解放され、義に仕えるようになりました。
6:19 あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。
6:20 あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
6:21 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。
6:22 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
6:23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「礼拝の心」
ロ−マの信徒への手紙6章15〜23節(U)、中心聖句22〜23節、2004.7/18
今朝も前回に続き、ロ−マの信徒への手紙の6章15〜23節から、共に心を開いて神の言に聴いて参りたいと願っています。
或る牧師が「キリスト者の人格、品性は礼拝によって形作られる」と言われました。それが22節の「聖なる生活の実を結ぶ」という事です。
聖子師が歯医者さんにかかった時、「あなたはクリスチャンですか?新居浜からもクリスチャンの人が通ってきてるけど、同じ雰囲気があるので…」と言われたそうです…”キリスト者には、聖なる生活(礼拝)の実として、キリストの香りが与えられている事”を思わされました。此処に「繰り返して礼拝を献げ続けて行く大切さ」があるのです。
私共は礼拝で、何時も恵みを喜ぶ感情に満たされているとは限りません。疲れている時、悩み、悲しみの中、喜びを感じずに礼拝を献げているだけの時もあるのです。それでも”礼拝の心を忘れずに礼拝を献げているならば、キリストの品性が形作られていく”のです。 それは食事と同じです。栄養バランスに気をつけていれば、3度3度の食事で自然と健康な身体が作られていくのと同じなのです。
では、”どんな心が礼拝の心なのでしょうか?”…その答えがロ−マの信徒への手紙6章22〜23節なのです。「…行き着く所は永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私達の主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」…私共が、”神を喜べない苦しみの時に、神に礼拝を献げる事が出来る為には、礼拝の心を知らなければならない”のです。
”礼拝の心、それは、「今、私には、キリストによる永遠の命…即ち、キリストの十字架によって永遠の命が与えられている」と信じ喜ぶ事”です…それが、私共が忘れてはならない”礼拝の心”なのです。
先週の礼拝後の愛餐会の時に、O姉がこんな事を言われました。「私が一番好きな御言葉は、今日杉野先生が開いて下さったダニエル3:18の『たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。私達はあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません』です。『たといそうでなくても』、恵まれている時も、恵まれていないと思う時も、主に感謝して従いたいのです」と言われました。その信仰(礼拝の心)に心から敬服しました。
誰でも、「神さま、どうして?」と言う時があるものです…日毎の生活の中で思い悩みや悲しみの中で、神の恵みが見えなくなる時です…”人には神を忘れる弱さがあるから”です。
詩篇103篇2節に「私の魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」とあります。ここの「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」という御言葉は、ドイツ語訳聖書では、「忘れるな。あなたに主が良き事をなさった事を…」と訳されているそうです…私共が良く忘れるから「忘れてはならない」と聖書はいうのです。
私共が忘れてはならない、”礼拝の心…それは、「キリストが十字架で与えて下さった永遠の命を喜ぶ心」なのです…この”礼拝の心を心に刻んでおく必要がある”のです。
「永遠の命」と言いますと、「富める青年」のお話しを思い出します…ある時、主イエスが歩いておられると1人の青年が駆け寄って来て、主イエスのもとにひざまづき、「主よ、永遠の命を継ぐ為に何をしたらよいか?」と尋ねました。主イエスは、この青年が品行方正なエリートである事だけでなく、沢山の財産を持つ人である事を見抜いて「あなたの全財産を貧しい人に施して、私について来なさい」と言われたのでした。しかし、青年は全財産を捨てる事が出来ずに、首をうなだれて主イエスの御前から立ち去って行ったのでした。
あの富める青年は必死になって、”永遠の命”を探し求めたのでした。しかし、”彼がそれを得る事なくうなだれて去って行ったのは、永遠の命は、自分の力や努力で得る事が出来ない事を現している”のです…全てを捨てて、神を愛して神に従うのでなければ、”永遠の命”を得る事は出来ないからです。ですから、”あの青年の後ろ姿は、私共、全ての者の後ろ姿”なのです。
おそらく”主イエスは、首うなだれて立ち去る青年を腸が千切れるような痛みで見つめていた”のだと思います…”それゆえにキリストは、十字架で私共の代わりに、全てを捨てて下さった”のです…十字架で命を捨てて下さったのでした。そうした”御子イエスの、全てを献げた献身に対する神の応答こそが、「永遠の命」というプレゼントだった”のです。
”神が御子を死の絶望の壁を打ち破って永遠の命へと甦らせた”のです。人は全てを献げる事など出来るでしょうか?…ですから、”眩しいばかりのキリスト復活の光の中には、人が鈍くて悟りにくい永遠の命の価値が輝いている”のです。
あの青年があらゆる物を手に入れているにも拘わらず、飢え乾いて必死に、”永遠の命を求めた姿勢”には頭が下がります。富める青年は永遠の命の価値を知っていたのでした。自分はそんなに真剣に、永遠の命の価値を考えた事があっただろうかと思います。私に限らず、日本人は総じて永遠の命の価値に対して鈍いのではないかと思います。
例えば受験や就職の時には必死に合格を求めて祈ります。しかし、それ程切なる思いで永遠の命を祈り求めたという証しは余り聞きません。
しかし聖書は、この「永遠の命こそ、人間にとって最も大切なものである」と、”永遠の命の価値を主張する”のです…その点、この”富める青年はちゃんと一番大切なものを悟っていた”のです。 ですから、主イエスは彼を心から慈しんで、”永遠の命を得る狭い道を、真実に正面から語られた”のでした。
それは「この道に入って欲しい」という”切なる言葉だった”のです。主イエスは私共に対しても、礼拝毎に「この道に入って欲しい」と語られているのです…「私は、あなたに永遠の命を与える為、十字架で全てを捨てた。だから、あなたは、この永遠の命の価値を知って、この永遠の命を求めて欲しい」と…。
ロ−マの信徒への手紙6章の22〜23節に、「…行き着く所は永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私達の主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」とありました…此処に「行き着く所」とあります。これは「ゴール」の事です。”死が人生のゴールなのではなく、永遠の命こそがゴール”なのです。そして、この「ゴール」は、”キリストの十字架に対する神のプレゼント”なのです。
ですから”私共は、良い時も悪い時も、恵みを感じる時も、たとえそうでない時も、互いに慰め励まし合いながら、既に約束されている永遠の命を見つめて礼拝を続ける”のです。そして、”礼拝の中で、キリストによる永遠の命に預かり続けて行く”のです。私共の中に、”礼拝生活の中で、キリストの品性が創られていくのは、私共が礼拝において、キリストの命に預かっている徴”でもあるのです。