「来るべき者」
ロ−マの信徒への手紙5章12〜6章4節
5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
5:13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
5:14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
U
5:17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
5:18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
5:19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
5:20 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
5:21 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。
6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「来るべき者」
ロ−マの信徒への手紙5章12−6章4節(W).2004.5/2
今朝は、ローマ人への手紙5章の12節以下から4度目の説教となります。
この朝、聖書の箇所を解き明かす鍵の言葉は、14節の「きたるべき者」という言葉です。皆さんお気づきの事と思いますが、この「きたるべき者」、というのはイエス・キリストの事です。
14節「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです」…”アダムは、後に来られるイエス・キリストを前もって現す者”であったと言うのです。キリスト教最初の伝道者パウロは此処で、このイエス・キリストこそ、自分達が待ち続けてきた”「来るべき人」と紹介した”のでした。
この「アダムは、来るべき方を前もって表す者」という言葉の「前もって表す者」と言うのは、口語訳では、「型」と訳されております。この「型」という言葉は、原語のギリシャ語では、くテュポス>という言葉です。元々、この〈テュポス〉という言葉は、金槌で何かを打ちつける時等の”「打つ」という動詞”として使われました…堅い物で打ちつけると、そこに跡が残ります…やがて、この言葉は、”打たれて付いた跡を指す言葉となっていき”ました。
たとえば、ヨハネ20:25で、主イエスの弟子の1人であったトマスが、「主イエスが復活された」という仲間の話を聞いた時に言った言葉の中にあります…「主イエスが甦られたと言う話を、私は信じられない。自分でその手に釘跡を見、その釘跡に手を差し入れなければ信じる事はできない」…この”釘跡”と言う言葉に、”<テュボス>という言葉が使われている”のです。
やがて、この言葉は<鋳型>という意味で使われる様に成っていきました…”打ち叩いた跡に、粘土を当てて型をとって、溶かした金属を入れて造る鋳型”です…そして、この<鋳型>という言葉が、14節の<型>や、〈模範〉、〈お手本〉という意味で使われる言葉となって行ったのです。
ここの「アダムは、来るべき者の型」と言う所の<型>は、<悪い手本の型>として使われております…「アダムを悪い手本として、イエス・キリストがこの世に来た」というのです。どういう事かと申しますと、”罪なき神の子は、この世で唯1人しかいない死なない御方”でした。なのに、この”死なない方が、アダムを手本として十字架で死んで下さった”という事なのです。
前にも申しましたが、アダムは人類最初の男性の名前です。アダムとイヴには、1つだけ、神に禁じられた事がありました。それは”神に創造された者として、神を主として聴き従うという秩序を教える為”だったのです。
その掟は「禁断の木の実を食べてはいけない」というものでした…神様は、「この木の実だけは食べてはいけない。食べると死んでしまうから」と言われたのです。しかし、”悪魔が蛇を用いてイヴを誘惑して、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか…あなたは決して死ぬ事はない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となる事を神はご存じなのだ」と言った”のでした。
この”「神のようになりたい」という事が罪の根源だと聖書はいう”のです…それは、”神を自分の支配下に置く事”だからです。時に、”神の御心よりも前に、自分の計画、自分の欲、自分の感情がある”事に気づき、アダムの子孫である自分を発見し悲しい思いをします。パウロは、「本来、死ぬ事のない救い主は、死に支配されたアダムを手本(鋳型)として、すっぽり自分を重ねるように十字架で死んで下さった」と言ったのです。
この世の人々は、”救い主は、アダムや自分より、もっと大きい、もっと強い、もっと確かなもの”と思うようです。スーパーマンであって欲しいと願うからでしょうか?
西洋の哲学者に、ニ−チェという人がおりました。ニーチェは「神は死んだ」という言葉で有名な虚無主義の哲学者です…徹底的にキリスト教批判をした人としても知られています。聖書の神学をも勉強した人ですので教会は大きなダメージを受けました。ニーチェは「殺されるような無力なイエス・キリストでは駄目だ。超人でなければ人を救う事は出来ない」と言ったのです。聖書を研究した人ですので鋭い所を突いてはおりますが、”知識からでは、人は救い主を理解する事はできない”という事も見えて参ります。
”信仰から復活のキリストを見なければ救い主を理解できない”のです…”私の為にアダムを型として、アダムと同じ死に身を沈めて、死に勝利して永遠の命を与えて下さったキリストは分からない”のです。”復活のキリストを見ずに十字架で死なれたキリストだけを見たなら、確かにキリストは無力な人に見える”のです。
しかし、”死に支配されない方が、アダムと同じ死に行く者となって下さった”のです…これは、”アダムが抱え込んでしまった死の支配という呪いを、復活により取り去る為だった”のでした。
アダムは、”キリストによって、本当の人間の姿を回復した”のでした。初めの”死なない者であった姿を回復した”のです…それは、”アダムの子孫である私共も、救われて永遠の命を与えられたという事でもある”のです。だからパウロは他の所で、キリストの事を「第二のアダム」と呼んだのでした。
”死の支配をもたらした「第一のアダム」”に対して、”新しい支配…永遠の命の支配をもたらした”からです。それゆえ「第二のアダム」と言ったのでした。
今、パッションというキリストの十字架を扱った映画が封切られております…マスコミも盛んに取り上げております。或るラジオで、次のようなコメントをしておりました。「当時のユダヤ人の社会は、律法を守る正しい者は救われると考えていました。そんな中で、信ずる者は罪人でも救われるというユニークな教えを説いた人がイエス・キリストであった。そして、その教えは、親鸞とも通ずる」と…。
確かに、”教えだけ見れば共通する所がある”かも知れません。しかし、”復活されたキリストという視点から見ると、救い主の更に深い姿が見えて来る”のです…”復活されたという事は、今も生きておられる事であり、死を打ち破り、死に勝利されて永遠の命を与えて下さった神の子である”という事が見えて来るのです。
6章1節に、「恵みが増すようにと、罪の中に留まるべきだろうか」という言葉があります。当時の人々の中には、「罪が増えれば、増えるほど恵みが増し加わると言う。それなら罪をさらに犯したら良いのでは?…そしたら、ますます恵みが豊かに注がれるだろう。自分の哀れな姿を救い主が見られたら、いても立ってもいられなくなり救いに来て下さるだろうから…」と。
こうした的はずれな声に対して、パウロは2節で、「決してそうではない」と言いつつ、議論で応戦したのでなく、3節でこう言って諭したのでした。「それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれる為に洗礼を受けた私達が皆、またその死に預かる為に洗礼を受けた事を」と…。
”洗礼=バプテスマに預かる”と言うのは、”キリスト・イエスに預かる事”です。そして、この「預かる」と言う言葉は、「向かって入って行く」という意味なのです…ですから、”キリストの死と復活の中に飛び込んで行く”という事を言っているのです…この”キリストの死に向かって飛び込んだ者は、キリストと共に死に、キリストの復活の命と共に甦る”のです。
それゆえパウロは言ったのです。「恵みをもっと深く自覚できるようにと、尚一層罪深くなろうと言うのか…あなたがたは、バプテスマを受け、キリストと共に死んで甦ったではないか…教会は、キリストの死の中に飛び込み、キリストと共に永遠の命に生かされている群れではないか?…何故それでもキリストが遠いと言うのか」と…。
”キリストは弱さや罪を抱いていた私共を、そのまま覆い包んで下さった”のです。”アダムと私共に、ピタッと型を合わせるようにして、死んで下さり、復活により死から解放して下さった”のでした。”キリストは、御自身の死と命に共に預かった者達を決して手放さない”のです。どんな中でも、新しい命をもって生かして下さるのです。
先週の祈祷会で、急な事でしたが、菊間教会に遣わされて来られた杉野順子師が、イザヤ26:4からお証をして下さいました。「とこしえに主に信頼せよ、主なる神はとこしえの岩だからである」…を通して救いの証でした。伝道者は必ず呻くような所を通過します。先生は確かに御自分の生涯において、「キリストがとこしえの岩であり続けて下さった」と言われました。土居教会に於いて、また牧師である自分に対しても、神様が杉野先生を通して語って下さった御言葉と思えています…正に”礼拝は、とこしえの岩として復活されたキリストと出会う…この喜びに招かれている所”なのです。
祈祷>イエス・キリストの父なる神様
この朝、私共は、待ち望まれていた救い主がこの世に来られた時、罪なきゆえ、死ぬ事のない救い主であったにも拘わらず、アダムと同じ死ぬ者となって十字架で命を献て下さった事を聴きました。世の人々は弱く無力なイエスをそこに見ます。されるがまま、なぶり殺しになっていくイエス様です。
しかし、あなたが死に身を投じて下さったのは、私共を死の支配から解放して下さる為でありました。そして、あなたと共に復活の命に生きる者とされた事に感謝致します。私共は先週の総会を経て、今年度も新しい歩みを始めました。この朝、私共は心を新たにして、キリストと共に死に、キリスト共に復活の命に生かされ、キリストの躰として歩む事が出来るようにして下さい。
今、弱さを覚える多くの兄弟姉妹を思います。どうぞ「とこしえの岩」であられるイエス様御自身が、私共の手を離さず、永遠の命に生かされ支えられている事を、お1人〜の心の中で清かにお示し下さり生かし続けて下さいますように…。
今から、役員就任式を行います。あなたが、一人々の信仰を御覧になり、土居教会を託された事を思います。どうぞお1人〜を聖霊で満たして、恵みによってその働きを得させて下さい。そして教会が、役員の方々の働きの為に祈る者として下さいますように。
イエス・キリストの御名によって祈ります アーメン