「新しい命に生きる」
ロ−マの信徒への手紙6章1〜14節
6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
6:7 死んだ者は、罪から解放されています。
6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
6:12 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
6:13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。
6:14 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
ガラテヤ2章19〜20節
私はキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私の為に身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」とあります。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「新しい命に生きる」
ロ−マの信徒への手紙6章1〜14節.(中心聖句4節、11〜13節).2004.5/16
この朝からロ−マの信徒への手紙の6章に入ります。この箇所に語られている事は、キリスト教会最初の伝道者パウロの問いが示しております。
1節「では、どういう事になるのか。恵みが増すようにと、罪の中に留まるべきだろうか?」…これは滑稽に思える問いです。おそらくパウロが、人々に問われ続けた問いと言われています。ですからパウロは、この的はずれな問いに心を尽くして答えたのでした。
ルカによる福音書の15章に有名な放蕩息子の物語があります…「或る所にふたりの兄弟がいました。兄は模範的な息子で、父親とコツコツ働いていました。しかし弟は、そういう生活に飽きてしまって、父親から財産を分けて貰い家を飛び出し、放蕩三昧してお金を使い果たしてしまったのです。心底後悔した弟は、奴隷の1人としてでも良いと父親の元に帰る決心をしたのです。出て行った時とは別人のような、ボロボロの格好をして帰ってきた息子を見た父親は、大喜びして、これまでにないような大宴会をひらいて息子を迎え入れた」という物語です。
この物語に、”先の滑稽な問いをもとにした続編を付け足す”とこうなります…「この放蕩息子は、はじめの内は心を入れ替えて働こうとしました。しかし、毎日、同じ仕事を繰り返しの中、あの帰って来た時の感激が恋しくなって来たのです。あんな御馳走をまた食べたい。あの時の父の愛にまた感動したい。そこで弟は、また放蕩に明け暮れる為に家出した」と…。
このように物語に置き換えてみますと、「あれ、この問いは、はじめ滑稽に思えたけれど、なんか身につまされる」という気がしてくるのです…”信仰に求めるものが、一時的な感情の陶酔だったり、目に見える奇跡である事が自分の内にもあると気づかせられる”からです。
”信仰の歩みというものは、御言葉に聴き、主イエスと共に歩む平安なのです。この平安は、主イエスの御心を知り主と共に生きる事からしか生まれない”のです…”それが御言葉に生きる”と言う事なのです。
信仰の喜びに感情的な満たしが無いという事ではありません…しかし、”信仰の歩みは食事と同じである”事を覚えていて頂きたいのです。4節に、「新しい命に生きる為なのです」とありました。この”「生きる」という言葉には「歩く」と言う意味もある”のです。”信仰に生きるという事はコツコツ歩く事”なのです。
急いで走るのではないのです。キリスト者として歩むスタートには興奮や感激もあります。疲れた時には、カンフル剤を飲むように感情的な恵みを求めても良いのです。しかし”基本は、あくまでも、三度の食事をしっかりとる事なのです…即ち、コツコツと御言葉を食べて歩む事”なのです…それは静かな歩みかも知れませんが、”御言葉から主の御心を聴いて歩む歩みをコツコツする者だけが、イエス様と共に歩む平安を知る事が出来る”のです。
”その平安に支えられて、はじめて、この世で神に与えられている自分の使命を果たす事が出来る”のです。
反対に、”御言葉に聴いていない人は、霊的な栄養失調に陥ります”。また、”感情的な高揚ばかりを信仰に求める人は、食事をとらずビタミン剤や、サプリメント等だけを飲んでいる人と同じで、信仰が、感情を満たす道具となったり、御利益信仰にずれて行きます。また、人格まで福音が浸透(聖化)していかない”のです。
続いてパウロは、”コツコツと御言葉に生きる歩み”を具体的に述べました…13節「また、あなた方の五体を不義の為の道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義の為の道具として神に献げなさい」と…。
誰もが自分の躰の持ち主は自分だと思います…しかし、パウロは「あなたの五体を、日々御言葉に示された通りに、義の為の道具(神の証しの為)として献げなさい」と言ったのです…これが御言葉に生きる歩みなのです。しかし、この御言葉が律法のように響いて参りますと、「そんな生活は自分には耐えられないのではないか?…それなら、このままでいたい」と思ってしまうのです。
パウロは13節で「あなたは方は、あなたの五体を罪の道具とするか、五体を神の義の為の道具として献げるかのどちらかだ」と言ったのです。黙示録にも、「私はあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい」とあります…”御言葉に生きる、新しい命の歩みに中間地点は無い”のです。
無教会派の指導者であった内村鑑三先生は、「ロマ書の研究」という講義でこう言いました…「ここでパウロが言っているのは、バプテスマを受けただけでは駄目だという事だ。それだけで満足してはいけないので、その後、神の子としての完全な生活に生きる様になる事を勧めている。所が、どうも私共はそれをしない。洗礼を受ける所までは望むけれども、それから後の、完全な生活に生きる事をしようとしない。そこにキリスト信者の無力、キリスト教会の腐敗の根がある」と…。キリスト者に「完全な生活」を求めた言葉です。
この「キリスト者の完全」というのは、日本ホーリネス教団のルーツである、19世紀の英国の神学者ジョン・ウエスレーの有名な本の題です。いわゆる「聖化」を世に紹介した名著です…内容は、「キリスト者の完全というのは、倫理的に間違いを犯さない事ではない。神の愛(アガペーの愛)に生きようとする完全であり、それが聖化である」という事です。
子供に大人の完全を期待しても無理です。しかし、”その年代、その年代の完全はあります。未熟や弱さやゆえの、欠点や失敗があっても良いのです。その人の信仰の成熟に応じて神の愛に生きる”のです。”それが新しい命に生きる事”なのです。
内村先生も言われました。「確かに神の子として神の愛に生きる事は難しい…けれど、これがないと、新しい命に生きる喜びも望みも得る事は出来ない」と…。
では、どうすれば神の愛に生きる等という途方もない生き方が出来るのでしょうか?パウロは、”神の愛に生きる道を阻むもの”について語りました…12節「従って、あなた方の死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うような事があってはなりません」。
この<体の欲望>は、口語訳では<情欲>と訳しています。原語のギリシャ語では、”自己中心という心”を指す言葉なのです。”自己中心な心、また、感情に支配された心”です。そして、”神を追い出した心に生まれる思いが情欲”だからです。
パウロは一貫して、「人は自分の行いによっては、自分を義とする(救われる)事は出来ない。だから信じるしかない」と言い続けました。”この”アガペーの愛に生きる歩みも信じるしかない”のです。
何を信じるのかと申しますと”ガラテヤ2:19−20を信じるのです…「私はキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私の為に身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」とあります」…”この信仰に立つ所で変えられて行く”のです。此処から神の愛に生きる一歩が始まるのです。
そして、この”信仰の転機を通過して、初めてキリスト者は、キリストと1つとなり、キリストの愛と平安に生きる事が出来る”のです。ですから、この”信仰の転機(聖め)を通過しませんと、神の愛や信仰を語っても建前になってしまい易いのです。
パウロは言いました…「信じなさい。あなたは神のものとされた事を信じなさい」と…。3節「それともあなたがたは知らないのですか?」11節「…キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と…。そして7節「(キリストと共に十字架で)死んだ者は、罪から解放されています(新しく生まれ変わっているから)」と…。
しかし、”人は、神ではなく、今迄のように自分を見、罪や、心の傷の中にうずくまろうとする”のです。”けれども、既にキリスト者は戦いに勝つ者とされている”のです。何故なら、”キリストのバプテスマを受けたキリスト者は、キリストと1つとされ、新しい命に生きているから”です。
でも、”情欲との戦いがまだまだ残っている自分がある”のです。これは、手術後まだ痛いのに、「明日退院されますか?」と言われる事に似ています。でもまだ痛いのです。しかし、お医者さんから「手術は成功しました。後は自宅で静養して下さい」と言われると信じて退院できるのです…”私共は情欲に勝利されたキリストと1つとされているのです。しかし、信じて立ち上がらなければ、その新しい命を受けとれない”のです。
では、”どうしたらキリストと1つにされた、新しい命に生きていけるのでしょうか?…その答えは、”礼拝に生きる”事なのです。
”聖餐がバプテスマを受けた者に限られるのは、聖餐はキリストと1つに結ばれた恵みを知る所”だからです…”礼拝は全体が聖餐式なのです。私共は聖餐の場である礼拝に於いて、主イエスと1つとされ、主イエスと共に死に共に甦り、主イエスに支配されて生きていると信じて立てる”のです。”そこでキリストと1つとされた自分を受け取り、どんなにたどたどしい歩みでも、神の愛に生き神を現す者と変えられて行く”のです。
祈祷>天の父なる神さま
この朝、私共は、今、新しい命に生かされている事を聴きました。そして、その新しい命に歩む為に、日々、コツコツと御言葉に生きる者として下さい。そして主イエスの臨在の下で、困難や重荷の中でも新しい命に歩む事が出来るようにして下さい。
私共は時として、御言葉に従って自分を献げ神の愛に生きる事を阻む情欲に支配されている事を思います。どうせ勝てないと、情欲や罪、心の傷の中に留まろうとしてしまいます。どうぞ、その中で、罪や情欲に勝利された主イエスと1つにされている事を信ずる事が出来るように助けて下さい。心の傷もキリストが十字架で、私の傷を受けて下さって癒されている事を信じさせて下さいますように…。どうぞ礼拝毎に、聖餐の毎に、十字架のキリストの死と、キリストの勝利の復活と1つにされている信仰を受け取り、新しい命に生きる者として下さい。
この朝も、躰の弱さ、心の弱さの中におられる愛する兄弟姉妹を覚えます…どうぞ、その場で、あなたの豊かな憐れみに預かる事が出来ますように。
この町の民を教会にお導き下さい。教会から離れている兄弟姉妹を再び教会にお導き下さいますように…。また、キリストの躰である教会とされた私共が、日々、五体をあなたに献げてキリストを世に証しする者として用いて下さいますように…。
尊い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン