トマスに顕れたキリスト

ヨハネによる福音書20章24−29節
20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

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 「トマスに顕れたキリスト」
  イースター礼拝.ヨハネによる福音書20:24−29、2004.4/11


 今朝は復活祭と呼ばれるイースター礼拝です。”キリストの復活を記念する礼拝”ゆえに、イースターは教会暦に於いて、もっとも重んじられている礼拝となったのです。

キリストは十字架の3日後に死という絶望の殻を打ち破り復活されたのです…そして、その復活によって、”十字架によって罪の贖いが完成した事と、十字架を信ずる者に、永遠の命が与えられた事を証明して下さった”のです。

しかし、主の弟子達が,復活の主に出会った時、共にいなかったトマスは、この”主イエスの復活を信じる事が出来なかった”のでした…それゆえ主イエスの復活を熱く話あっている仲間達から離れ、1人疑いの中に閉じこもっていたのでした。

しかし主イエスは、復活から8日後に、鍵をかけられていた部屋の中に入って来られ、そんなトマスの前に姿を顕されて言ったのです。20章27節「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と…。

それはトマスが、かつて「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と言っていたからでした。

 この様なトマスの行動から、”トマスは疑い深い人の象徴”のように見られております。しかし、果たしてそうなのでしょうか?…私は、トマスは、”死後の世界が分からなかった”のだと思うのです…主イエスが十字架に架かられる前夜に、主が「天の住まいのお話し」を話された時、トマスは「主よ、何処へ行かれるのか、私達には分かりません。どうして、その道を知る事ができるでしょうか?」と、ヨハネによる福音書14章5節で言っているからです…トマスは、死後の世界を信じる事が出来ないだけだったのです。

 トマスは、決して主イエスを愛していない人ではなかった様です…それは、主イエスが、死んだラザロを甦らせる為に、ラザロの所へ向かう時に言ったトマスの言葉に表れています…ヨハネ11:16「私達も行って、一緒に死のうではないか」というトマスの言葉です。

 そして、そんなトマスに対して主イエスは、あの有名な御言葉を語られたのです。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事ができない」と…。トマスは、この重要な御言葉を主イエスから引き出した人物なのです。一見、目立たない弟子なのですが、”何時も重要な言葉を主イエスから引き出す役割を主イエスに託されていた”のでした。

 このトマスが此処でも「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と言ったのでした。それは、「主イエスの復活を確かめたい」という願いが込められた言葉でした。そして、それは、”キリスト教信仰の核心”に触れる事となって行ったのです。

 トマスが、”主イエスの復活を信ずる事が出来なかった”のは、”弟子達が復活の主に出会った時に一緒にいなかったから”と言われます。礼拝を守る大切さが語られる時に引き合いに出される所です。しかし復活の8日目に、主イエスは、そんなトマスの前に御自身を顕され、十字架の釘跡を差し出され、27節「あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたのでした。

息を飲んでその光景を見つめていた弟子達、また、そこに響き渡った主イエスの御声が目に浮かびます。
 この手の釘跡を差し出しての「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という主の御言葉は、圧倒的な響きをもっておりました…その御言葉は、「墓を封印していた石が転がされ、墓から遺体が無くなった事を信じなさい」という目に見える次元の言葉ではないからです…”「永遠の命という生まれ変わりの世界が開かれた事を信じなさい」という霊的な世界を信ずる信仰への呼びかけだった”からでした。

 Tコリント1:18に「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私達救われる者には神の力です」とあります…正に”キリスト者は、「滅びに向かっていた自分が、十字架で罪赦され、義人と変えられて救い出された「神の力」を信じた者達”なのです。主イエスは神の子としての「神の力」を持っていた人でした。

 十字架に架けられた主イエスの姿を、作家の遠藤周作氏は、「無力なイエス」と言いました。一見、十字架のイエス様は無力に見えますが、決して無力ではないのです。マタイ26:53で主イエス御自身も「私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」と言われたのです…主イエスは天の軍勢を指揮し、敵を滅ぼして十字架を避ける事もお出来になったのでした。しかし、”もし主イエスが、その様に神の力を行使されていたら、永久に地上に十字架は無かった”のです…”主イエスは十字架で神の力を行使された”のでした。

 ”主イエスは、十字架の上で、罪人が、キリスト者に生まれ変わると信じ抜く事に神の力を用いられた”のでした…たとえ”人の不信仰が、キリストの手を釘で打ち、槍で脇腹を刺し抜く程に激烈であっても、ルカ23:34で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と信じ祈り抜いて下さった”のでした。

”自分が死に行く時、裏切る者を信じ抜く事は、人間の力では決して出来ない事”なのです…ですから、”キリストの十字架の姿を見つめていた百人隊長は「真に、この人は神の子であった」と言葉を漏らした”のでした。それ程、”十字架の姿は神の力に圧倒されていた”のでした。

 ”キリストはトマスに、その手の釘跡を示し”ました。それは、トマスがこれから信仰者トマスに変えられる事を、十字架上での祈りから生まれた行為でした。そして、「十字架の傷跡に手を差し入れよ」と言われたのでした。

普通、”古傷に触れられるという事は、心も躰のどちらも、最初に傷を受けた時よりも、もっと痛みの激しいもの”なのです。この主イエスの御言葉は、「トマスよ、あなたが、私の十字架と復活の意味を知り、生まれ変わる為ならば、私は、もう1度、十字架の苦しみを繰り返しても良い」という鬼気迫るものだった”のです。

かつて”トマスは主イエスと一緒に死のう”としました。しかし、それは、”自分も一緒に主の痛みと苦しみ受け、主と一体になろうとしていた”のです。日本的に言えば修行をする信仰でした。

 しかし、”此処でトマスが知らなければならなかった事”がありました。それは、”「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい」と言う言葉にあるように、主イエスの死というのは、トマスが考えたような、自分も主イエスと共に被害者になれる死でなく…自分が加害者として主イエスを死に追いやった死であった”という事です。

 主イエスは、「あなたの為に私の十字架があったのだ」と言われました…そして、”トマスが、その主イエスの手の釘跡に指を差し入れようとした時、トマスの目から鱗が落ちた”のでした…そして,”自分の罪が主イエスを十字架につけた、自分が主イエスに対する加害者だと分かった”のでした。”今、目の前の主イエスが、自分の為に、十字架の痛みをもう1度受ようとされている…その愛も分かった”のです…ですから、「私の主、私の神よ」と言う叫びが生まれたのです。

 この”「私の主、私の神よ」という言葉は十字架の主イエスに対する教会の信仰告白”でもあるのです…私共も、復活の主をこの目で見た訳ではありません。ですからトマスと同じように、”見ないで信ずる者”にならなければならないのです。

”Tペトロ1:8にある「あなたがたは、キリストを見た事がないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています」となる迄成長する事を神に期待されている”のです。その様な意味で、”イースター礼拝は、教会がトマスの信仰告白の上に立つ時”なのです…”教会は、トマスのように、主イエスに十字架の釘跡を差し出して頂いていると信じる者の群れ”なのです。

”聖餐で預かる、キリストの裂かれた肉を象徴するパンと流された血潮を象徴するブドウ酒は、十字架のイエス・キリストが御自身を顕して下さっている所”なのです。”私共は、主イエスがトマスに手の釘跡を差し出された光景を思い起こしながら聖餐に預かる”のです。

”罪人である自分の為にキリストが十字架にお架かり下さった事を信じて聖餐に預かる”のです…そう信じて、この”イースター礼拝の朝、私共は教会と共に、トマスのように、「私の主、私の神よ」と復活の主イエスに信仰を告白して礼拝を献げる”のです。

祈祷>イエス・キリストの父なる神様
 このイースター礼拝の朝に感謝致します。主イエスの復活を疑い「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」 と言ったトマスに対して、主イエスは、そんなトマスをも十字架の恵みで覆おうと顕れて下さり「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われた、圧倒的な神の言を聴きました。この幸いに感謝致します。

 このイエス様のトマスへの語りかけを、この朝、共に聴いた私共も、十字架の赦しと、永遠の命の中に、自分の罪と死が覆い尽くされ、叩き潰されている事を、深い確信を持って信じる事が出来ますように…。
 私共は、このイエス様の十字架と復活の大いなる御業を聴きましても、また罪を犯してしまいます。罪に満ちた思いも抱いてしまう者です。しかし、そんな者達の為に与えられた十字架の赦しの恵みを、今から預かろうとしている聖餐に於いて、繰り返し思い起こし立ち帰る事が出来ますように。

 十字架で流された血潮と、釘打たれて裂かれた主イエスのお躰に、信仰によって聖餐に預かり、罪の赦しと、永遠の命に預かっている信仰に繰り返し立つ事が出来ますように…。そして、復活の主イエスと共に歩み、死の絶望の殻をも打ち破って下さった主イエスによって、私共がぶつかっております絶望をも打ち破って頂きながら歩み続ける事が出来ますように…。
 尊い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。   アーメン