共におられる主

マルコによる福音書4章35節〜41節

4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
   「共におられる主」

       マルコ4章35〜41節 2004 3/7  千葉聖子牧師 
 この箇所は、他の福音書にも書かれてある出来事で皆さんもよく御存知の箇所かと思います。教会学校で紙芝居で何度か話した事がありますが、弟子達が嵐の中一生懸命舟を漕いでいる形相と、かけ声で「うんとしょ、どっこいしょ。まだまだ舟は進みません。うんとこしょ、どっこいしょ。どんどん水は入ってきます」というリズミカルなセリフがとても面白くて、子供達がついつい笑ってしまう姿が忘れられません。数週間前の祈祷会でも共に学んだ箇所でもあります。
 
 主イエスは弟子達に舟に乗って「向こう岸へ行こう」と言われました。

 舟というのは、聖書では教会に譬えられます。今年の新年礼拝でも「教会はノアの箱船です。その中に乗ってさえいれば、そこで躓こうが転ぼうが必ず天国まで導かれる」と聞きました。舟に乗っているからには、必ず目的地があります。ここでも主イエスは「向こう岸へ行く」という目的を持って弟子達と舟に乗り込まれました。そして弟子達に舵取りを任されたのです。

 しかし、37節「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」といきなり突風が吹いてきたのです。土居では山路風がありますから、その凄まじさを想像しやすいかと思います。この「突風」と訳した言葉は、原語では「地震」となっているそうです。地震は地面が揺れ動き、まさしく足下から揺さぶられる恐怖を感じます。この時も海が風によって激しく動き、舟が底から揺さぶられ弟子達が立っていられない程の嵐であったのです。

弟子達の中には、何人も漁師がいました。かつてガリラヤ湖で漁をしていたのです。ですからガリラヤ湖の突風を経験した事があったに違いありません。そんな弟子達でさえ、おじけづいてしまう嵐だったのです。その様な中で主イエスは舟の艫の方で眠っておられたのです。

同じ出来事が記されている、マタイ福音書8章25節とルカ福音書8章24節には「主よお助け下さい。おぼれそうです」と主イエスに素直に助けを求めている弟子達の姿が書かれています。

しかし、このマルコ4章38節では「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」となっています。「私達がこんなに必死で水をかき出し舟を漕いでいるのに、あなたは何もしてくださらない!」と主イエスを非難して怒っている弟子達の姿がここに見え隠れします。

そればかりか「私達がおぼれてもかまわないのか」と主イエスをなじっている様にも聞こえます。私達が本当に危機的な状況に陥った時、私達はこのマルコ福音書に書かれている弟子達の姿の方に似ているように思えます。「どうして私がこんな目に合わなければいけないのか。神様は一体何をしているのか」と神様をなじり怒ってしまう弱さが人の中にはあるからです。

 しかし、弟子達がその様になるのも仕方がありませんでした。舟の中は壮絶な状態だったのです。激しい風は襲ってくるは、舟は揺れるは、波はかぶるは、水浸しになるはで、本当に生きるか死ぬかの戦いを弟子達はしていたのです。
 
 私達がここで注目したいのは、主イエスはこの中で「眠っておられた」という事です。
確かに、いつも群衆に囲まれて主イエスは休む暇もありませんでした。舟に乗った時位しか休む時間がなかったのも事実です。疲れが出て熟睡されていた、とも考えられます。

しかし、ひっくり返りそうな舟の中で、しかも水をかぶりながら、そこで熟睡されていたとは考えにくいのです。弟子達と同じ様に、舟の中で揺れを感じ水をかぶっておられたのです。その中で「どうして主イエスは、眠っておられたのだろうか…」と祈祷会の時に此処を学びながら考えていました。

主イエスの内には恐れがなかったんだろうか…弟子達の心は不安と恐れで一杯だったはずです。また主イエスは、弟子達がこの試練の中どの様に乗り切るか、眠ったふりをして観察されていたのだろうか…主イエスはそんなに意地悪なお方ではないと思います。

 主イエスは、この後「黙れ、静まれ」と言って、嵐を静められました。この出来事の後、3つの奇跡が続きます。悪霊に憑かれたゲラサ人に「汚れた霊、この人から出て行け」と言って悪霊を追い出し、出血が止まらない女の人に「あなたの信仰があなたを救った」と言って病を癒され、死んだヤイロの娘に「タリタクミ、少女よ起きなさい」と言って死から甦らせた奇跡が続くのです。

 主イエスの内には、自然界も霊の世界も病も死をも支配する力があるのです。だから、主イエスの内には恐れは全くなかった、むしろこんなに力のある方がこの舟に一緒に乗っている、と言う事を弟子達に気が付いて欲しかったのではないか…と思うのです。

この時弟子達は、目の前の事しか見ていませんでした。荒れ狂う波や、突風に目が奪われていたのです。そこから怖れが湧いてきて、不信仰になり主イエスをなじる言葉になっていったのです。弟子達がここで見なければいけなかったのは、この嵐の中で眠っておられる主イエスだったのです。「向こう岸へ行こう」と約束してくださったお方、この嵐を静める力をもったお方がここにいる、しかも眠っておられるという事を弟子達は見なければいけなかったのです。

 「眠っている」という主イエスのお姿は、「私がいる。大丈夫、安心しなさい」というメッセージが込められていると有る注解書に記してありました…39節に慌てふためく弟子達に起こされてイエスは起き上がって、威厳を持って風と湖に「黙れ。静まれ」と叱られたのでした。すると、風はやみ、すっかり凪になったのです。この時、主イエスは慌てふためいている弟子達に向かっても「黙れ。静まれ」とおっしゃったに違いありません。

よく2〜3歳児が、訳が分からないままギャーギャー泣く事があります。その時しっかりその子の目を見ながら「コラ!」って怒ると、我に返って泣きやむ事があります。弟子達も、この時初めて主イエスの方を見て我に返ったのです。
 
 詩篇46編に「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り山は海の真中に移るともわれらは恐れない。 たといその水は鳴りとどろきあわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くともわれらは恐れない。…来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓を折りやりを断ち、戦車を火で焼かれる。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である」とあります。

 この詩篇の筆者の周りは、水が鳴りとどろき山が震え動く様に思える程、激しい戦いの真っ直中でした。弓が行き交い戦車が横行し命の危険にさらされていたのです。しかし、この筆者は「静まって、この中に神がおられる」という事を信じたのです。そして「このお方こそ私の避け所、助け主だ。このお方がこの戦いを止めさせてくださる」と激しい戦いの中、告白したのでした。

 主イエスも、ここで弟子達に「黙れ。静まれ」と言って「私がここにいるではないか」と弟子達の目を主イエスに向けさせられたのです。そして、嵐を静まらせる事の出来る主イエスの力を見せたのでした。その主イエスを見た弟子達は、今度は「一体このお方はどなたなんだろう」と主イエスに対して非常な怖れを抱いたのです。

 しかし、この怖れはやがて主イエスの十字架を見て、復活の主イエスにお会いした時「このお方こそ、本当の神様だ。このお方が私達と共にいて下さる」という確信と平安になっていったのです。
 
 弟子達の様に、私達も風や波が来ると大きく揺れてしまいます。同じ様に教会も風や波が来ると大きく揺れてしまうのです。初めは些細な事でも、その事だけに捕らわれていくと動揺し揺れてしまうのです。そして、とたんに不安になり不信仰になってしまうのです。しかし「その中に主イエスがおられる」と言う事に共に目を向けて行きたいと思います。そして、共に「このお方こそこの嵐を静めて下さる」と信じて行く者とさせて頂きたいと思います。