「正しい誇りに生きる」
ロ−マの信徒への手紙5章8〜11節C
5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
5:9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
5:11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
コリント人への第2の手紙7章4節
「私はあなた方に厚い信頼を寄せており、あなた方について大いに誇っています。私は慰めに満たされており、どんな苦難の内にあっても喜びに満ち溢れています」
エフェソの信徒への手紙2章19〜22節
「…あなた方はもはや…聖なる民に属する者、神の家族であり…。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります…キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「正しい誇りに生きる」
ロ−マの信徒への手紙5章8〜11節C.2004.3/21
この朝は、ロ−マの信徒への手紙5章1〜11節から4度目となりますが、特に8〜11節から共に神の言に聴いて参ります。この朝、心に刻みたいのは、11節の「神を誇りとしています」という言葉です。
この「誇る」という事は、直ぐに”傲慢”につながりますので、新約聖書が書かれたギリシャ語の文化圏では、「誇る」という言葉は好んで使われなかったようです。日本語でも「誇る」という言葉は、”おごり高ぶる”という言葉と、”同じ語源でないか”と言われているそうです…どちらにしましても、余り良い意味で使われない言葉のようです。
では何故、人は誇るのでしょうか?…それは”ありのままの自分を受け入れる事が怖いから”です。それゆえ、”自分の弱い所から目を背け良い所を誇ろうとする”のです。ありのままの自分を受け入れていれば自分を誇ろうとはしない筈だからです。
自分の事は自分が一番良く知っていると思いがちですが、自分について一番客観的に判断できないのは自分自身なのです…心の傷に触れるような出来事に対して、判断がずれたり感情的になりすぎる事に気づかないのは自分だけかも知れません。また人より優れた所を見て傲慢になっている自分に気づかないのも、反対に人より劣ると思える所を見つめて卑屈になっているのに気づかないのも自分だけかも知れないのです…”それ程,人は自分をありのままの自分を受け入れる事が難しい”のです。
キリスト教会最初の伝道者パウロは、此処で、そのイメージの悪い「誇る」という言葉を敢えて用い、”正しい誇り”を語ろうとしたのです。11節で「私達の主イエス・キリストによって、私達は神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させて頂いたからです」と言ったのでした。
”聖なる神は、人の罪を怒り審くお方”です…私共は、神に裁かれるべき存在でした。そこで”神は、罪無き神の独り子イエスを十字架に架け、私共の身代わりに、十字架上のイエスに、罪への怒りと審きを下し、私共の罪を赦して下さったのです。それゆえ私共は、神と和解し、神の御前に立てる者とされた”のです。
パウロは、8〜11節で「私達がまだ罪人であった時、キリストが私達の為に死んでくださった事により、神は私達に対する愛を示されました…敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させて頂いた…私達の主イエス・キリストによって、私達は神を誇りとしています」と言いました。パウロは、”自分が神に敵対していた時に、神は御子を十字架に架けて下さった。そんな神の愛を誇る”と言ったのでした。
パウロは、人生半ばにして、キリスト者となった人です。”救いに預かる迄の経緯は、使徒言行録の9章”に書かれております…キリスト教迫害の為に奔走していた時、復活された主イエスが現れてパウロの心を捕らえるという劇的な事件が起きたのでした。
その後の思いを、パウロは、コリント人への第2の手紙11章17〜23節に記したのです。「私がこれから話す事は、主の御心に従ってではなく…愚か者になったつもりで言いますが、私もあえて誇ろう。彼らはヘブライ人なのか。私もそうです。イスラエル人なのか。私もそうです。アブラハムの子孫なのか。私もそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです…」と。
此処で”パウロは、自分がへブル人である事、イスラエル人である事、アブラハムの子孫である事を訴えた”のでした。それはパウロが、ユダヤ社会のエリートの中のエリートであった事を意味しています。パウロが、愚かな事と知りつつも、敢えて、この世的な誇りを誇ったのは、”キリスト者となるという事は、ユダヤの社会に於いて地位をもたらす全てを失った事を言い表す為だった”からです。
しかし、”パウロは、この世的な誇りを全てを失っても卑屈にならなかった”のです…”23節「キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです」。
パウロは、”キリストの十字架の愛によって、キリストに仕える者になった事を心から喜び誇る者に変えられていたから”です。
もし、パウロがキリスト教会の指導者になった後も、”この世の誇りや、強さに支配されたままであったなら”、キリスト教会はとっくに、この世から無くなっていたかも知れません。何故なら、”強さや誇りに生きる人は、人の弱さを受け入れられないから”です。
昔のままのパウロなら、おそらく、”罪に負けてうずくまるキリスト者を見た時、その人の弱さを受けとめる事が出来ず、「そんな事だから、こんな不幸を招いたのだ」と裁く指導者になった”と思うのです。もし、初代教会の指導者がそうであったならば、”誰も教会に留まり続ける事など出来なかった”のではないでしょうか?
しかし、”この世の誇りや強さを捨てたパウロは、神の恵みに生かされる事が心底分かる人に変えられていた”のでした。それゆえ、”弱さの中でうずくまっているキリスト者に向かって「あなたは今もイエス様に愛されている。あなたもキリストの御前に立てるのだ。さあ、一緒に立ち上がりましょう」と、弱き人と共に泣き、共に立つ人になっていた”のです。
その事がこのロ−マの信徒への手紙5章10節で言われているのです。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させて頂いたのであれば、和解させて頂いた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」と…。言い換えれば「神の敵で会った時の私の為に、キリストが十字架に架かって下さった事によって、神の御前に出る事が出来た。そして今も、キリストの十字架により、弱さを持ったままで、神の御前に立ち続ける事が出来る。だから、この愛の神を誇る」と言ったのです。
そして、”もう1つパウロが語った誇り”がありました…それは、”教会の中におられる主イエスを誇る者とされた”と言う事でした。
コリント人への第2の手紙7章4節の「私はあなた方に厚い信頼を寄せており、あなた方について大いに誇っています。私は慰めに満たされており、どんな苦難の内にあっても喜びに満ち溢れています」という言葉です。”コリントの教会は、多くの問題がある教会”でした…”パウロを悩ませ続けていた教会だった”のです。
しかし、”パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中”で、「私はあなたがたに厚い信頼を寄せており」と言ったのでした。聖書は社交辞令を書きません…これは”パウロの本音だった”のです。
パウロが、心から、コリントの教会を信頼し誇る事が出来たのは、”キリストが教会の頭であり、キリストが十字架で教会を贖っているから”でした。”パウロは、「教会は今は問題だらけかも知れないが、頭なるキリストと一体であるキリストの躰なのだから、必ず変えられて行く」という事を見ていた”のでした。
エフェソの信徒への手紙2章19〜21節にはこうあります。「…あなた方はもはや…聖なる民に属する者、神の家族であり…。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」と…。
自分がキリストの敵であった時でさえ十字架に架かって下さった、この主イエスを要石(土台)として、キリスト者は生きるのです…日々御言葉に生きて行くのです。その時、頑張りではなく、ありのままの自分がキリストの愛に満たされて、自分の心がキリストがお住まい下さる神殿とされている事が見えて来る"と言う事です。
その時、”「自分の心は勿論の事、教会の交わりと礼拝の中にも、復活されたキリストが充ち満ちている事が見えて来る”のです…私共は、今、主イエスを誇りとして生きているでしょうか?…この"主イエスが共におられる事こそ、何にも勝る誇りとなって行く"のです。
祈祷>イエス・キリストの父なる神様
今朝、私共は、この世の歪んだ誇りについて聴きました。自分も誤った誇りに生きてきた事を思わせられました。しかし、私共が神に敵対していた時、パウロを愛し十字架に御子をお架け下さった神の愛ゆえに、パウロは神に立ち返り神を誇る者となりました。私共も、この神の愛に立ち返り、心から神を喜び神を誇る者として下さい。何時どんな時でも、私を愛し命を捨てて下さった御子イエスと、十字架に御子をおかけ下さった神の愛を喜び誇る思いだけは、天国に帰るその日まで持ち続けていけますように…主よお守り下さい」。
今も病床にあるF兄、W姉、そして、病や重荷の中にある兄弟姉妹を思います。主よ、私共も、自分自身を、自分が置かれている現実を正しく見据えて受けとめる事が出来ますように、そして、全ての者達の全ての重荷と痛みを御存知である主に、信頼して委ねる事が出来ますように、兄弟姉妹と共に祈り委ねる事が出来ますように、御手を置いて下さい。願わくば、癒しとお導きを与えて下さいますように…。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。 アーメン