神との平和から生まれる練達

ロ−マの信徒への手紙5章1〜11節A
5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
5:9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
5:11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
   「神との平和から生まれる練達」
ロ−マの信徒への手紙5章1〜11節A.04.2/29

 今朝は、先週に続いてロ−マの信徒への手紙5章1〜11節から2回目の説教を致します。今朝は3〜5節の「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私達は知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むという事を。希望は私達を欺くことがありません」という御言葉から、「神との平和から生まれる練達」という事を学んで参ります。

 日本の伝道の困難さは世界でも屈指と言われます。その為あらゆる伝道の試みがなされて参りました。その結果、”伝道の困難という石垣を崩す”のは、アイデアや方法ではなくて、”教会が足腰を強くする”という事だと分かって参りました。

迫害を受ける中、命がけで中国伝道をされている”命の水計画”という宣教団体の方々のお証を聴くと頭が下がります…しかし、その様な足腰の強い伝道をされている方々も、私共と同じ迫害を恐れる人々なのです。”足腰の強いキリスト者になるというのは、特別に強いキリスト者に向かって言われているのではなく、全てのキリスト者に向けて言われている事”なのです。

 そこで、今朝は、”教会の信仰の足腰を強くする”という事を考えて参ります。私事ですが、私は子供の頃、運動神経が鈍い方でした。しかし、家の仕事が燃料店でしたので、小さい頃から仕事を手伝っておりましたので腕力がありました。中学生の時、体育の授業で座り相撲をした時に、私は体育の教師と相撲を取り組む事となりました。

先生の「どうせ弱いだろう」という表情を見た時、闘志が湧いて参りまして、ひたすら重心を下げて揺さぶりに耐えておりました。しびれを切らした先生が、重心をあげて業をかけようとされた時、下から突き上げたら先生が転がったのです。その時から、先生や級友の見る目が変わった事を覚えています…”信仰の足腰を鍛える事は、信仰の証になる”と、その時の事を思い返す度に思うのです。

 では、”信仰に置いて足腰を強くする”事とはどのような事なのでしょうか?…それは、先週、この箇所からお話した事です…”苦難の中でも、「それでも私には神との平和が与えられている」と、信仰の目を上げて神により頼み続ける”事なのです。

 3〜4節に「私達は知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むという事を」とあります…この様に、”苦難の中で、神との平和を見上げ、神に拠り頼む事を練達して行く者に、イエス様は伝道を託されている”のです。

 プロテスタント教会は、しばしば「弱いままでいい。ありのまま主イエスを信じなさい」と言います…「あなたは罪人であり弱い人間である、そのままで良い、十字架への信仰によって、神の愛と憐れみによって救われるのだから、十字架の罪の赦しを信じて洗礼を受けなさい」と語るのです。ある人はキリスト教は浄土真宗に似ていると言われますが、この点を強調するからだと思います。

しかし洗礼を受けて教会員になりますと、「信仰を強くしなさい。キリスト者らしく歩みなさい」と言われているような気がして来るのです。そうした中、「教会生活は、強く立派な人でないと全うできないのではないか」と考えたりするのです…私自身、長い事そうした葛藤をした記憶があります。

 ロ−マの信徒への手紙は、「ただ信仰によってのみ義とされる」という事を語り続けています。この、「信仰によってのみ」と言うのは、”私共に強さを要求しない”という事でもあるのです…”弱いままでいいのです。ただ神の強さに委ねるのが信仰”なのです。それが”御言葉に生きる事”なのです。

 教会は、”人の弱さは何処までも受け入れ”ます。しかし、”甘えは退ける所”でもあります…”人の弱さというのは、甘えや我がままではない”のです。”甘えや、わがままは、キリストを見上げ、キリストの言葉に信頼して御言葉に生きる事を妨げるから”です。そして甘えは、人の道からも人を脱線させるのです。

 ルカによる福音書の16章に「不正な家令の物語」と呼ばれる譬え話が出て参ります。主イエスが語られたお話です…”主人の財産を任されていた男がおりました。この男が主人の不在中に、主人の財産の使い込みをしていたのです。その事がばれて、怒って帰って来た主人に解雇されそうになった時、追い詰められた男は、一つの名案を思いつきました。

それは、主人から借金している人々の帳面を書き換えて、どんどん半分にしたのでした。それがばれた時、この男が受ける主人の怒りは想像できます…しかし、主人はこの家令のやり方を知った時、かえって、その利口なやり方を褒めた”というのです。

 なんとも不思議なお話です。主イエスが語られたお語とは思えません。しかし、主イエスは此処で、”不正を奨励しているのではない”のです。主イエスは、「光の子ら(キリスト者)よりも、利益を貪っている世の人々の方が賢い」と言われました…これは、キリスト者に対して、「もっと賢く生きなさい」と言う為の譬えなのです。
”「この世の子らが、利得をむさぼる事に徹底して生きるように、キリスト者は、恵みに徹底して生きなさい」と言われたのでした。”主イエスは、「あなたは弱くて良い。罪を犯す弱さがあっても良い。しかし、愚かであって欲しくない。賢く、恵みに立ち続けなさい」”と言われたのでした。

 3〜4節に「私達は知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むという事を」とあります…”それが出来るのは、私共が一人で立っているのではないから”です。

 ”神との平和が与えられた心は、主イエスを見上げる事が出来る心”なのです。”主イエスを見上げる時、人は、苦しみや重荷を、キリストに委ねる事が出来る”のです。言い換えれば、”御言葉生きる事”です…こうして、”キリストと共にある者にとって、苦難は練達を生み出す場となる”のです。

 この練達という言葉の元々の意味は、「テストに合格している」という意味です。名刀が何度も火に焼かれて打ち叩かれて磨かれるように、”キリスト者も、火のような試練の中で、そこに、神との平和が残されている事に気付き、その心でキリストを見上げ、御言葉に生きる足腰の強いキリスト者となる”からです。

そのような意味では、”苦難はキリストのテスト”とも言えるのです…こうして、”苦難という精錬の火に、主イエスの御言葉に生きる信仰を鍛えられた、キリスト者は、自分の人生を立て直し、隣人を生かし、キリストの躰なる教会を建て上げていく”のです。

 5節に参りますと、「希望は私達を欺くことがありません」という御言葉が出て参ります。文語訳では「希望は恥を来たらせず」と訳されている言葉です…此処の、「欺く」とか「恥」と言う言葉は、聖書が書かれた地域を見ると鮮やかに迫って参ります。

荒野というのは砂漠の事です。砂漠には、しばしば蜃気楼が現れます。砂漠の中でオアシスが見えた時、らくだに乗って貿易をしていた隊商のリーダーは、”隊商の命の為、水を求めてオアシスを目指し”ます。しかし、その”オアシスが蜃気楼だった時、オアシスは消えてしまうのです。その時、隊商の希望は、絶望の溜息に変わってしまいます。その時、仲間を導いたリーダーがかく恥を指した言葉”なのです。

 此処で聖書が言うのは、”神との平和の中で、全てを御存知であるキリストが語られる御言葉に生きる者は、決して、神の言に欺かれる事はない”という事なのです。勿論、人間的願いとは違う結果になる事もあります。けれども、”神の言に拠り頼んだ者は欺かれない、恥をかかない事を知る”のです…”神が責任を持って、心に臨んで下さるから”です。

 実は、礼拝こそが、その、”神との平和の中、神の言への信頼に立ち続ける、この信仰の訓練の場”なのです…私共は礼拝に、様々な苦しみや不安を抱えながら集まります。決して信仰の状態が良い時ばかりではない筈です…”そうした中から、神の御前に、キリストに招かれて出て来て神の言を聴く”のです…神の言を見失いそうな時も、”心の耳を開いて、神の言に聴き続ける場を通して、キリスト者は”「決して自分を欺かない」、神の言に拠り頼んで生きる事を学び、信仰の足腰を強められて行く”のです。

祈祷>イエス・キリストの父なる神様
この朝、私共は、神との平和から生まれる練達について学びました。火の様な試練の中、心も躰も衰えて、自分の力で立ち続ける事が出来ない中を通る時もございます。

 しかし、この朝主イエスは、そんな所でこそ、心の中に神との平和が残されている事に気付く事を教えて下さいました。どうぞ、神との間に平和が与えられた心で、主イエスを見る事が出来ますように。主イエスが語って下さる神の言を聴く事が出来ますように。私共の全てを御存知である主イエスが、私達にお語り下さった言葉と信じて、御言葉に生きる事が出来ますように。

 今週、手術を受けられるF兄の上に、特別に主イエスが臨んで下さり、患部に御手を置き癒して下さいますように。御家族の方々の心をも御言葉による平安でお守り下さい。山内病院に入院されたW姉の健康も回復して下さいますように。S兄のお父様もお癒し下さい。他にも身体や心に弱さを覚えておられる方々もおられます。お1人〜が、その弱さの中であなたに拠り頼む事を得させて下さい。

 受験も迫ってきております。O兄の心に平安を与えて下さり、ベストを尽くせるように助けて下さい。
 主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。  アーメン