「神との平和」

ロ−マの信徒への手紙5章1〜11節
5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
5:9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
5:11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

ヘブライ10章19〜22節
10:19 それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。
10:20 イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。
10:21 更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、
10:22 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
   「神との平和」
        ロ−マの信徒への手紙5章1〜11節.2004.2/22

 今朝よりロ−マの信徒への手紙の5章に入って参ります。この5章の1〜11節は、ロ−マの信徒への手紙の中でも最も大切な部分です…”主イエス・キリストの父なる神が、どんな救いを私共の為に与えて下さったかを知る事の出来る箇所”だからです。

 4章でキリスト教最初の伝道者パウロは、”神の義が与えられる信仰”について、筋道を立てて解き明かしました。議論によって、福音を解き明かそうとしたのでした。しかしパウロは、此処で議論をやめて喜びの叫びを上げたのでした。

W杯サッカーが日本で行われた時、日本代表のチームがゴールを入れた瞬間、街ではあちらこちらから歓声があがったと聞きました。叫びというのは、内側から突き上げてくるものです。そんな”突き上げてくる喜びの叫びが此処に記されている”のです。今朝は、それが、どんな喜びなのかを神の言から聴いて参りたいと思います。

 先日の祈祷会で、今礼拝でロ−マの信徒への手紙を講解説教をしていますので、ローマ書を読まれた方々の中に、この5章が心に響いたと言われた方がおりました。この5章は多くの人々に愛読されて参りました…読む人に共感を与えるからだと思います。

 2節でパウロは、「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ…」と記しています。原語のギリシャ語では、ちょっと変わった文章になります。「今立っているこの恵みに入る、その入口(キリスト)を今自分は手に入れている」という文です。何か分かりづらい文ですが、少し乱暴な言い換えをすれば、「私は

、神との平和という宝のありかが書いてある地図を持っている。今、その宝が埋められている土地を買って(十字架の贖い)自分の物にする事が出来た。後は足の下を掘るだけ(信ずる)だ」とでもなるのでしょうか?

 1節の「…私達の主イエス・キリストによって、神との間に平和を得ており」と言うのがその事なのです…これは「宝物である、”神との平和”をキリストが十字架に架かって贖いを成し遂げて与えて下さった」というパウロの歓喜の叫びなのでした。パウロは、「十字架を信ずる者は、神から義が与えられる」と語り続けてきました…それが、”神との平和が生まれる”事なのです。

 先週の通読箇所の、ヘブライ人への手紙10章19〜22節に「それで、兄弟達、私達は、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私達の為に開いてくださったのです。更に、私達には神の家を支配する偉大な祭司(キリスト)がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」とありました。

 ”祭司は、贖いの羊の血(身代わりの命)を神に差し出し、民の罪の赦しを執り成しを祈る人”でした。 ”キリストは、神の大祭司として自ら神の小羊となり、十字架で血潮を流して、私共の罪の赦しを祈って下さった”のです。”神殿の奥に、聖所があります…聖なる所です。

 その聖所の最も奥に、神が臨在しておられた至聖所がありまして、2つの部屋は、高さ27mもある分厚い垂れ幕に仕切られていた”のです。それは、”罪ある人間と、聖なる神の断絶を意味していた”のでした。そして”十字架でキリストが息を引き取られた時、27mの高さの分厚い垂れ幕が、上から下へと真っ二つに裂けた”のでした。

それは、”十字架の贖いが完成した事により、人が神に、直接接近する道が開かれた事を意味している”のです。それゆえパウロは、2節で「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と言ったのでした…そして、この”神との平和という栄光に預かった者は、誇りと希望を持つようになる”と言ったのです。

 ”誇りと希望”は、自分が置かれている状況に満足している人が持つ事の出来る姿です…”「神との平和が与えられる」という事は、自分を受け入れる自分との和解につながる”のです。

”自分を受け入れる事が出来ない人の姿は、自分の環境を受け入れる事が出来ず、自分のコンプレックスばかりが目に付いたり、また、自分には能力があるのに周りが認めてくれないと境遇に対して不満と怒りが沸いて来るなどの姿”となります…そうした思いが、”やがて自分を粗末にして行き、また自分を小さな殻に閉じ込めてしまう”のです。子供なら、家庭内暴力や、登校拒否や、非行。大人なら、夫婦げんか、部下への八つ当たり等、”人間関係がこじれて行き”、その結果、”更に自分が痛んでいく”のです。そして、やがて”神に対しても不満を抱き、不信仰になって、神から離れて行く”のです。

 パウロは10節で、「敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させて頂いたのであれば」と言いました…”神に逆らっていた自分を、神は一方的にキリストの十字架によって受け入れてくださった”と言うのです。パウロは、「神と敵対している、その所で、”そんな自分が十字架によって神に受け入れられている”そのアガペーの愛を知る時、そこに正しい誇りと希望が湧いてくる」と言ったのでした。

”自分をありのままで受け入れて下さる…その所で、神のアガペーの愛を経験するのです…そして、神との平和を味わいながら生きる者は、自分とも和解が出来るようになる”のです…”心底自分を受け入れ、自分を大切にする様になる”のです。

 2節に、「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」とあります。この、「導き入れられ」という御言葉は、「通路を持つ」とか、「接近する」とか、「面接する」とも訳す事の出来る言葉です。”キリストという神への通路を持つ、キリストによって神に接近する、キリストによって神に面接するという事”なのです。

エペソ人への手紙2章の18節には、「このキリストによって、私達両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づく事ができるのです」とあります。これはロ−マ5章2節と同じ言葉です…先のヘブライ人への手紙にもありました様に、”キリストという垂れ幕が裂かれて、人が神に近づく事が出来るようになったから”です。神に出会う道に導き入れられた。それは、”キリストによって神に面会できるようになった”と言う事なのです。

 16世紀の宗教改革者ルターが、食事の席での会話した言葉を集めた「卓上語録」という本があります…人は満腹になりくつろぎますと、心にある本音が素直に出るようになります。 その食事の席で多くの人々が「私はキリスト者なのだけれども、心に平和が無い。どうしたら良いのだろうか?」とルターに尋ねたのです。ルターは宗教改革の嵐の中の中心人物でした。

 当時、世界で最高の権力を持ち、神の教会の権威をもったカトリック教会を相手に、ルターは、戦っていた最中だったのです。ルター自身が誰よりも平和が欲しかった筈です。しかし、手に入れる事が出来ない、その平和に対して1人悩みに悩んでいたに違いありません。そんな”ルターはロ−マの信徒への手紙5章1節の「私達の主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」というパウロの言葉を引用して答えた”のでした。

 ルターは「私自身、平和が無い事に悩んでいる。不安の中にどっぷり浸かっている。でも、あのパウロは3節で、『私は苦難も喜んでいる』と答えているではないか?パウロも悩みの中にあったのだ。そんなパウロが、悩みさえも喜ぶような平安が与えられると語っているではないか」と言ったのです。ですから、この”喜びや平和というのは、感情の事ではない”事が分かります。

「平和なんか無いと思うような所で、波立つ心の中でも、神と平和が与えられていると信じ抜く事ができる…この”神との平和”が分かる者とされている所に誇りがうまれ、喜びが湧いてくるのだ」とパウロが、そしてルターが言ったのでした。

 ”誇りは、傲慢と紙一重ですが正しい誇りは、傲慢とは違う”のです…”苦難の中でも、神との平和を与えられている事に気づく時、人は正しい誇りを知る”のです…そして、”正しい誇りは、人が神の御心の道を歩める様に守る”のです。 

 今朝の聖書の箇所で、もう1つ目に付く言葉は、「わたしたち」という言葉です。ここで、”パウロは、〈わたしたち〉に対して語ったから”です…パウロはアブラハムについて語って参りました。アブラハムは、”神の友”と呼ばれた人でした。”神との平和に生きた人”でした。”パウロは、私共、みんながアブラハムになる事が出来ると告げた”のです。

 人生には次から次と厳しい戦いが襲って参ります…平和な心をかき乱す様々な戦いが襲ってきます。しかし、そこで私共は、”自分の心の内に、その中でも信じ抜く事ができる…神との平和が与えられている事を知り、心のそこから誇る事ができる”のです。この恵みを共に誇る群れとして下さいと求めて祈りましょう。


祈祷>イエス・キリストの父なる神様
 今朝、私共は、神の独り子キリストの十字架いよって、神との間に、平和という愛の絆も与えられた事を知りました。そして、その神との平和という愛の絆が、自分自身を受け入れる道を開くことのできる確かな道である事を知りました。この心病める時代に、多くの人々が神との平和という宝を知る事が出来ますように…。
 肉体が痛む時、まして心が傷つき痛む時、心が神との平和を見失ってしまいやすい者達です。どうぞ、その様な波風のたちます日々の生活、その心におきまして、立ち帰る事ができる恵みの平和を、知り続ける事ができますように、一人一人をしっかりと支えてください。
 すべてを越えて、この平和の神との平和が与えられている事実を信じ抜く事が出来、この与えられた神との平和を心底誇る事ができますように…。
 今、看護士の国家試験を受けられているO姉を助け導いて下さい。また受験中のO兄の上に、健康と平安が守られベストを尽くし、神の導きに預かる事が出来ますように…。
 今週、病院で治療を受けられる教会員と教会関係者のお二人の方々の上にも、全てを御存知である主イエスが共にいて下さり、主イエスとの平和と平安をお与え下さり、支え、全き癒しを与えて下さいますように…。  主イエス・キリストのみ名によって祈ります。 アーメン