「幸いを受け取る信仰」
ロ−マの信徒への手紙4章9〜12節
4:9 では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。
4:10 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。
4:11 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。
4:12 更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「幸いを受け取る信仰]」
ロ−マの信徒への手紙4章9〜12節、04.2/4
今朝は、ロ−マの信徒への手紙4章9〜12節の神の言に共に耳を傾け、アブラハムが信仰によって神の義を受けた事から、”幸福を受け取る特権としての信仰”について学んで参ります。
「世の中には、どうしてこんな不幸が起こるのだろう?」という永遠のテーマがあります。キリスト教会最初の伝道者パウロが、当時の世界の中心地であったローマに伝道していた頃、人々は、現代のカウンセリングのように、この永遠の問いに対する答えをギリシャ哲学に求めておりました。街の広場には哲学を議論しあう人々がいたのです。
この4章のパウロの書き方も、当時の哲学的な議論の仕方に合わせたものでした…たとえば9節の「では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか?」と言う文がそれです…先ず疑問を問いかけ、自ら答える形で議論を進めるのが哲学的な論法だからです。ここでパウロは、「この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか?」と問いました。
おそらく、今日、幸せという言葉を一番聞くのは、結婚式の披露宴ではないでしょうか?…結婚さえすれば幸せになれる程、結婚は単純なものではないのですが、願いを込めてでしょうか?「お幸せに」という言葉が乱舞します。
聖書は、”アダムが自分のあばら骨から創られたイヴ”を初めて見た時に、創世記2:23で「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから」と言ったと記します。
”アダムの骨を切って創られたイヴですから、アダムの骨の切り口とイヴの切り口はピタッと合う”のです…ですから次の24節で「こういう訳で…二人は一体となる」と記しているのです。 ”人は自分の伴侶を、自分の骨とピタッと合う相手と信じる信仰によって、初めて一体となるという結婚の奥義を体験できる”のです。
”主イエスも、キリストと教会の関係に、結婚を喩えられた程、結婚は信仰の神髄が問われる場”なのです。ですから、”信じて生きる事こそ幸せにの道”なのです…「神を信じて生きているけれど不幸だ」という事はあり得ないのです。
主イエスもまた、”山上の説教”において「幸いである」という言葉を9回も繰り返しました。「神を信じて生きる者の生涯は幸いだ」と語られたのです。
それは人生すべてに言えるのです…病いや障害の中で祈る時、主イエスの御心により健康の癒しに預かる人もおります。しかし、”信じて祈る者全てが必ず預かる癒しがある”のです…”人生の癒し”です。仮に”病や障害が残ったままでも、キリストと共に歩むという、健康が戻る以上の人生を送る事が出来る”のです…それが”信じて生きる者の特権”なのです。
今、私は”特権”という言葉を使いましたが、”信じる事には幸福に預かる特権が伴う”のです。パウロは、ここでユダヤ人が信じていた、”「割礼が幸せに預かる特権を与える」と言う間違いを厳しくついた”のでした。
前の日曜日に、ダビデが歌った詩篇32篇1節を学びました。「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆って頂いた者は」という歌でした。ここで、”ダビデが述べた幸い”というのは、お金による幸い、結婚による幸いでもありません…”罪赦される幸い”です。私共の”不幸の根本原因は罪だから”です…ですから、ダビデは”罪が赦しで覆われた時、不幸が幸いに変えられる”と歌ったのでした…”心が生まれ変わると全てが変わって行く”のです。
所で、”割礼というのは何か?”という事を、此処でおさらいしておく必要があると思います…”割礼は、ユダヤ人が、生まれた男の子の性器の皮を八日目に切って傷をつける事”を言います。これは、今日のユダヤ人がなお行っている事です…”神に選ばれた民の徴である割礼という儀式を受ける事で、神の祝福を受ける特権に預かる”と思っているからです。
しかしパウロは、この時、そんなユダヤ人に対して、「人が神の祝福に預かって幸福になる為に本当に割礼が必要なのか?」と切り込んだのです。そして、パウロは10節で「(アブラハムは)どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前の事です」と言いました。
此処で、”アブラハムが神に義と認められたのは、割礼を受ける前だった事に注目したい”と思います。そして、”アブラハムが割礼を受けたのは、それから14年後の事だった”のです。
11節に「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです」とあります。”割礼は、信仰によって受けた、神の義という恵みを、その見えない恵みを、見える形で証するものとアブラハムは捉えていた”のでした…”アブラハムが割礼を受けたのは、割礼の無い者に対しても、割礼がある者に対しても、全ての者の信仰の父となる為だった”のでした。
時代は移り、パウロも、”洗礼式を割礼と同じように見た”のでした…”信仰によって十字架による罪の赦しと、神の義という神との交わりの回復を受けた「見えない恵みを、見える形で証するもの」としてパウロは洗礼を捉えた”のでした…それゆえ、”ユダヤ人が幸福の道と考えていた割礼を退け洗礼を残す事が出来た”のでした。
それは、今から私共が預かる”聖餐式も同じ”です。”十字架で裂かれたキリストの肉体と、流された血潮の徴であるパンとぶどう酒を通して、信仰によって十字架を見上げて、罪の赦しと永遠の命に預かる”のです…ですから、この「割礼は、幸福になる特権なのか?アブラハムでさえ信仰によって義とされたのだ」というパウロの宣言は、”ユダヤ人達の足下を崩し去る恐るべき宣言だった”のです。
11節には、「しるし」という言葉と並んで、「アブラハムは、割礼のないままに信じる全ての人の父となり…義と認められました」という言葉が出てまいります。この”「認められた」という言葉は、口語訳では「証印」と訳され”ています…つまり、”「はんこを押された」という事”なのです。
この度の会堂の修繕と塗装の契約で判を押した時、「もう後退出来ないのだなあ」と思いました。御言葉が与えられていて良かった思わせられた時でした…実は、”神が私共に判を押す事を求められたのが洗礼とも言える”のです。
”洗礼は神の家族に入る事を意味しているから”です。それは新年礼拝でもお話しましたように、”洗礼は、天国に辿り着く唯1つの道である、ノアの箱船に入った神の家族になる”という事だからです…そして、この”神の家族となる調印”も、”信仰によって救いに預かった者にしか出来ない”のです。
しかし、「自分の心の中にある信仰が、神に認められる、はんこになるのだろうか?」と不安になるのは私だけでしょうか?…しかし5節に、「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」とあるのです。私共は、ここで「あなたの信仰が、有るか無いかのようであっても、私の十字架であなたの罪を覆うから、あなたは顔を上げて神の御顔を見て良いのだ」という”神の御声を聴く事が出来る”のです。
例えば、”モーセの召命”もそうでした…かつて自分の力で、エジプトで奴隷とされている同族を救い出そうとして、挫折して荒野に逃げ出し、そこで老いてしまい、指導者となり同族を救い出す事など諦めていたのです。”そんなモーセに向かって神は、燃える柴の中から「アブラハム、イサク、ヤコブの神である私があなたの名を呼ぶ」と言われた”のでした。
「信仰の偉人達の罪を覆い、彼等を真実に導いた神である私が、今、あなたに語っているのだ。あなたがその事をするのではなく、私が救い出すのだ」と言われて”モーセを召し出した”のでした。
”キリストは、今も生きておられる”のです…かつて、”十字架で私共の罪を覆って下さったキリストは、今も、私共を神との交わりに生かして下さっている”のです…それは、”主イエスが共に歩んで下さり、私共の弱さを覆い、喜び無き所にさえ幸福を与え、やがて天国では、更なる祝福、永遠の祝福で覆って下さる”ものなのです。この朝、共に、この”信仰という幸福に預かる特権に生かされている事に感謝したい”と思います。
祈祷>イエス・キリストの父なる天の神様
かつてユダヤ人は、あなたから与えられた割礼という儀式に固執し、儀式自体に人を幸福にする力があると思い込み、信仰によって神を見上げる事に心を閉ざし、救いに預かれなかった事を聴きました。苦しみや不幸の中にある人々が、心のうちで、あなたの招きの言葉を聴き、十字架の愛を知り、信仰に立って神が共にいて下さる祝福に預かれ来ますように…。
パウロは、主の恵みの力に打ち砕かれた時、ユダヤ人の社会の常識を打ち破り、アブラハムの信仰の原点に帰り、神の言葉を信じる信仰によって、主の恵みに生かされる経験をしました。そして、その信仰から、私共の教会の歩みが始まりました。神の祝福を受ける歴史が始まりました。ノアの家族のように救いに預かる神の家族という教会の歴史です。
この土居教会で、皆が十字架への信仰、神の言の約束への信仰に立つ事が出来ますように…。そして手を取り合って、信仰という幸福にあずかる特権に生かされている喜びを分かち合う事が出来る様にしてください。
受験生のS兄、O兄を助け導いて下さい。今、この受験の時を、神の言の約束を見上げる時、見えない神が共にいて下さる事を知り、神からの平安を頂き、ベストを尽くす事が出来ますように…。
身体や心の弱さを覚えておられる方々を憐れみ、また御高齢の方々の健康をもお守り下さいますように…。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。 アーメン