「不信心な者さえも義とする恵み」
ロ−マの信徒への手紙4章1〜8節
4:1 では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。
4:2 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。
4:3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
4:4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。
4:5 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。
4:6 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。
4:7 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。
4:8 主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「不信心な者さえも義とする恵み」
4章1―8節、2004年1/25
今日からロ−マの信徒への手紙の4章に入ります。今朝は4章の1−8節から、共に神の言に聴いて参ります。私共は3章21節〜31節迄から5度にわたって学んで参りました。そこには、「人は律法を守る事によってではなく、信仰によって神の救いと神の義(神との交わりの回復)に預かるという恵み」が宣言されておりました。そして、それに続くこの4章は、今述べた3章21節〜31節を論証する為に書かれているのです。光を際立たたせる為、陰の役目を果していると言える箇所です。
キリスト教会最初の伝道者パウロは、”筋道の通った教理を土台に、信仰によって与えられる神の義という恵みを整理した”のです。
信仰が理屈ばかりですと息が詰まります。人は信仰心を満たす為、感情の満足や体験を求めます。私はそうした求めを否定しません…確かに、”信仰的な体験は信仰に命と力を与える”からです。先日、朝起きた時、家内が笑いながら「お父さん、寝言で、『もろびとこぞりて』を幸せそうな顔で歌っていたよ」と言いました。これを信仰体験とは言えませんが、信仰心から出た幸せな一コマと言える?でしょう。
しかし、”正しい教理や、御言葉の解き明かしを土台としない感情的な高揚ばかりを求めるようになりますと、途端に信仰はズレていく”のです。パウロも此処で、”「信仰によって義とされる」という神の恵みを、聖書を土台にきちんと論証した”のです。
パウロは自分の考えではなく、”神の救いの歴史(救済史)を持ち出して論証した”のでした…
それは、”人間の生活に入り込んで来られた、神による救いの歴史”です。そして、”イエス・キリストの十字架は、この神の救いの歴史の頂点”だったのです。
パウロは、その”神の救いの歴史”に登場した、特筆すべき2人の信仰の偉人の名をあげました…”アブラハムとダビデ”です。
創世記17章迄は、”アブラハムは、アブラムと言われていた”のです。その名には、”旅する民”という意味がありました…”ヘブライ人の手紙11:18にも、「信仰によってアブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」と紹介されていますように、これは”信仰者の模範となる姿”です。
正にアブラハムは、”神と共に生きる事を求めて、偶像の街であった故郷から旅立った”のでした…やがて、”アブラムが、すべての国民(全ての信仰者)の父という名であるアブラハムに変わったのは、この信仰の姿勢によった”のでした。
パウロは、ロ−マの信徒への手紙4章の1節で「肉による私達の先祖アブラハム」と紹介したのです…この<先祖>と訳されている言葉は、系図の一番先頭にいる者を指す、<先祖の先祖>という言葉であります。”アブラハムが、全ての信仰者の信仰の父となったのは、アブラハムの信仰を通して、神がユダヤ人を選び、神が人間の歴史に入り込んで来たから”でした。
アブラハムは、BC2100年頃の人ですが、”波瀾万丈な、その生涯を、イエス・キリストの恵みに生かされる様な、恵みの中に歩んだ人”だったのです。
パウロは1節で「それでは、肉による私達の先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか」と言いました…この「場合については」という言葉は、ある写本には、「見い出した」と記されており、「発見した」とも訳す事が出来るのだそうです。正に”アブラハムの人生という旅は、神の恵みを見出し、発見する旅だった”のでした。
この様な、キリスト者の模範であるアブラハムでしたが、”パウロは、2節で「もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇る事ができよう。しかし、神の御前では出来ない」と言った”のでした。しかも、原文では非常に強い調子で書かれているのです…”神様の御前では、アブラハムと言えども、自分の行いによっては義と認められなかった事を強調している”のです。
続く3節では、「聖書はなんと言っているか、『アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた』とある」と述べたのです。これは創世記15:6に出てくる御言葉です…この時迄は、彼はまだ「アブラム」という名でした。アブラムは,子供が与えられる事を待つ間に高齢になっていたのでした。そんな”アブラムを、神は外に連れ出し、空の星を見せ、「この数え切れない星のように、あなたに子孫を与える」と言われた”のでした…その”神の言を信じた事によってアブラハムは、神に義と認められた”のです。
パウロは此処で不思議な言葉を語ります。4〜5節の「働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」と言う言葉です。話が少しややこしくなって参りましたが、此処が大切な所なのです。
”神の為に人生を献げて生きた人に対して、神は、働く者に対する当然の報酬の様に、義という報いを与えて下さる…しかし、真の神は、不信心な者さえも義とする御方だ”と言う事なのです。
では、この「不信心」という言葉には、どんな意味があるのでしょうか?…宗教改革者ルターは、この、”不信心”という言葉を「神を失っている存在」と訳しました…”まるで神様などいないかのように、考えたり行ったりする人の事”です。でもそれは、おそらく全てのキリスト者が経験ある事だと思います。
アブラハムもそうでした。”アブラハムでさえ,不安の余りに信仰を捨てたかと思うような歩みをした”のです。創世記の15章で、”信仰ゆえに義と認められたアブラハム”でしたが、16章に至ると、”自分の妻サラが老いていく現実の前に、神の約束の言葉を忘れたか”のように、”女奴隷ハガルを第二の妻として迎えて子供(イシマエル)を産ませた”のでした。
この”イシマエルの子孫が今のアラブ民族”で、やがて生まれる”正妻サラの子供(イサク)の子孫がユダヤ民族”です。こうした、”まるで神の約束など忘れたかのような、アブラハムの行為の結果として、四千年後の今も続く、2つの民族の対立の火種が生れだ”のでした。
”信仰の大失態”でした…しかし、”アブラハムは、そこで信仰を捨てなかった”のです…”その挫折の中で、不信心な者さえも義として下さる神を信じた”のでした…”この信仰が、やがてアブラハムを全ての神の民の父とした”のです。”人の行為や働きに応じた、義務の報酬を与えるだけの神なら、それは真の神ではない”のです…何故なら、”罪を赦す事の出来る神だけが真の神だから”です。
”パウロは続けてダビデについても語りました。6〜7節「同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のように讃えています。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は幸いである』」と…。ダビデも、神の救いにあずかった信仰の偉人の一人です。けれども”聖書は、このダビデが、どんなに大きな罪を犯した人であったかを語る”のです。
水浴びをしている美しい女性を見たダビデは、その女性が、忠実な部下の妻である事を知り、”その部下を戦場の前線に送って戦死させて、その女性を妻に迎えた”のでした。今日なら、信仰の偉人の座からの失脚をもたらす大スキャンダルです…しかし、”ダビデは、やがて、そうした自分の罪が、神の御前に覚えられている事を知らされて、詩篇32篇を歌った”のでした。
詩篇32篇1〜5節「いかに幸いな事でしょう。背きを赦され、罪を覆って頂いた者は…私は黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。 御手は昼も夜も、私の上に重く、私の力は夏の日照りにあって衰え果てました。私は罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。私は言いました。「主に私の背きを告白しよう」と。その時、あなたは私の罪と過ちを赦して下さいました」。
此処にある「背きを赦され」という言葉は、「運んで行く」という言葉です…”ユダヤの人は、年1回、民の罪を神に赦して頂く為の儀式を行い”ました…”祈って自分達の罪を生け贄の羊に負わせ、罪を運び去って貰い、神の審きを羊に代わって貰って羊を殺した”のでした…”キリストが神の小羊として、十字架で私共の罪を贖われたのは、実に此処から来ている”のです。
”神が私共の罪を覆う為に、神自ら、罪無き御自身の独り子を十字架に架ける以外に、人が神の御前に人が立つ事は出来なかったから”でした。私共は、自分の不信心を知っています。ですから、今、”この神の家族と共に、罪が十字架で覆われて、何度でも、挫折の中から立ち上がれる事を見上げたい”と思います…そして、共に、罪覆われて生きる幸いを味わい続けて”参りましょう。
祈祷> 主イエス・キリストの父なる神さま
今朝私共は、御言葉を通して、一人々の心の内にあります。恥ずかしい不信心を、あなたが見ておられる事を知りました。不信心という罪が、天国の門が閉ざされてしまうような、大きな危機である事を聴きました。
そして、父なる神は、そうした私共の不信心を深く憐れんで、独り子なるイエス様を神の小羊として献げて下さいました。御子イエスに私共の罪を負わせて十字架に架け、私共の罪を持ち去り、赦しで覆って下さった事を、今、大きな喜びをもって味っています。
自分自身の不信心に対する悲しみと共に、あなたの憐れみを思う時、慰められます。神の恵みを思い感謝致します。神が、このように私共を顧みていて下さる事を、厳しい試練の中でも信じ抜く事ができますように…。いえ、不信心ゆえに、信じる事ができなくなっている私共の罪を覆い、支えてくださる神のみ手に委ねる事ができますように助けて下さい。
寒さ厳しい日々が続きます。こうした中で、今、あなたの御前にあるお1人〜をお支え下さい。試練の中にある方を支え、病の中にある方々をお癒し下さいますように。また、そこで、私共に神の御旨を示して下さい。また私共を、あなたの御旨を御言葉を通して悟る事の出来る者として下さい。
受験生のS兄、O兄を風邪から守り、平安の内にベストを尽くし、あなたの導きに預かる事が出来ますように。 主イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。
アーメン