「預言者として召された者として」

ロ−マの信徒への手紙3章21−22節D
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

エレミヤ哀歌3章22−32節
3:22 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
3:23 それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。
3:24 主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。
3:25 主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。
3:26 主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
3:27 若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
3:28 軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。
3:29 塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。
3:30 打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。
3:31 主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
3:32 主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
   「預言者として召された者として」

       ロ−マの信徒への手紙3章21〜31節D 2004年1月18日
     ロ−マの信徒への手紙3章21〜22節 、哀歌3章22〜32節

 今,私共は、礼拝におきまして、ローマ人信徒ヘの手紙の1つの中心である、3章の21〜31節の所から5度目の学びに入ろうとしております。今朝はロ−マの信徒への手紙3:21−22と哀歌の3:22−32の2箇所の神の言から共に聴いて参ります。

 先ず、ロ−マの信徒への手紙3章21節の「所が今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」に注目します。

この中に、「律法とは関係なく」と「律法と預言者によって立証されて」という御言葉があります。この「律法とは関係なく」というのは、「律法の外に」とも訳す事が出来るのです…「律法の外に、神の救いと、神の義が現れた」と言うのです。しかも、それは「律法と預言者によって立証されて現れた」と言うのです。これは一体どういう事なのでしょうか?

 今朝の説教の鍵の言葉は、”預言者”であります… ”預言者”は、旧約聖書時代、罪の中、滅びに向かって突き進む世に対し、”神から言葉を預かり語る人”でした。

そして、”十字架の後は、「十字架によって、神に背いて歩んできた自分の罪が赦された」と信じる人に与えられた、救いと、神と人との交わりの回復(神の義が与えられた事)によって、心が聖霊なる神の住まわれる宮となり、聖霊が、心に御言葉を通して語られる”ようになったのです…それは、”救われた者全てが預言者として生きる時代となった”という事でした。

 近年、第二次世界大戦中、教会が預言者としての責任を果たしたかが問われています。”日本ホーリネス教団も、戦争責任を悔い改めて告白しました。戦争に至る迄、教会が預言者として、神の御心を世に対して発言しなかったという反省から”です。

私は戦争中は、まだ生まれていませんでしたから、こうした教会の戦いの経験はありません。自分の弱さを知る者として、その時代の献身者でなかった事は幸いだったと思います。もし、自分がその様な時代に、”預言者の使命を全うできる”としたら、それは”自分の力ではなく、聖霊の特別な支えがある事以外に考えられないから”です。

 しかし、これは、”今の教会も問われている事”なのです。先ず、”牧師が語る説教が問われ”ています…”教会と世に対して、預言者として神の御心を語っているかどうか”です。

しかし、それは牧師だけでなく、”教会である、私共一人々の問題でもある”のです。”信仰者は、未信者の家族へも預言者として遣わされている”のです…そこで、”御言葉に生き、証する使命が託されている”のです。それは”職場や学校においても同じ”です。

ですから、”キリスト者は、日々、御言葉に生きていないと、預言者として召された使命を果たせない”のです。

 賀川豊彦牧師を御存知の方もおられるかも知れません。賀川牧師は、鷲沢姉に洗礼を授けられた牧師であり、また生協の創立者でもあります。

賀川牧師は、昭和15年、太平洋戦争が始まる一年前に、松沢教会の説教が原因で憲兵隊に連行されました。その時の説教の題は、「エレミヤ哀歌に学ぶ」というもので、哀歌3章29節の「塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない」という御言葉からの説教でした。

その説教で賀川牧師は「我々は罪を犯した」と言われたのです。当時はまだアメリカと開戦していませんでしたが、中国に侵略して何年か経っていた時でした。そこで「我々は、残念ながら軍隊の暴虐を止める事はできない。しかし我々の軍隊が、中国の人達に対して犯している罪を、謝らざるを得ない。私達は罪人だ、どうしたらいいのか望みはない。ただ口をちりにつけるより他はない」と説教して国家への反逆を問われたのでした。

 明治時代に、内村鑑三先生という、無教会の運動を起こされた先生がおられました。内村先生は、近代日本の形成期において、預言者的働きをされた事でも国際的に評価されている先生です。

 この内村先生も、「国に自分が捨てられた時に、エレミヤ哀歌を注解書なしに理解する事ができるようになった」と言われたのです。”哀歌は、捨てられた悲しみを歌った詩です…国や同胞に捨てられた悲しみの中で、「ここに書かれている事は自分の事だ」と共感できた”のでした。

 ”哀歌はエレミヤという預言者”が書きました。しかし、いつ頃書かれたかはよくわかりません。しかし,既にエルサレムの神殿は崩壊し、ある学者は、”ユダヤの人が自分の国を失い、エルサレムの神殿の廃墟で献げられた悲しみの礼拝で歌われたもの”と言います。この”哀歌は、原語のヘブル語”で読むとすぐに分かるのですが、”いろは歌”なのです。庶民の悲しみを綴った、”悲しみのいろは歌”です…それが、今も人の心を捉えるのです。

 実は、この”哀歌の深い悲しみ”は、”神に捨てられた悲しみ”なのです…”預言者を通して、度重なる神の警告を受けてきたにも拘わらず、神に背け続けた結果として、神に捨てられた”からでした。いわば”自業自得の悲しみ”でしたので、イスラエルの民は、神を責める訳にはいかず…”その苦しみ,悲しみを、何処に訴えたら良いのか?一体どうしたら良いのか?”と途方にくれたのでした。

 新年聖会で、講師の岡田信常師が、「若い頃、開拓に挫折して、ノイローゼになり、畳をかきむしって祈った」とお証されました。正に、その様な極限の苦悩の表現が29節なのです…「塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない」…これは、”ユダヤ人独特の悲しみの表現”です。悲しみの中で、”預言者エレミヤは、「ロを塵につけよ…」”と言ったのです。

そして,この”極限の苦しみの中、イスラエルの民は、「神だけが真の拠り所だ」と目が開かれた”のでした…そして、”微かに残っていた信仰に火が付いた”のです。望み無き状況の中で、その”絶望の向こうから、差し伸べて下さる神の御手を見た”のでした。

 その、”神による希望の光が哀歌3章22〜24節”です。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝毎に新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそ私の受ける分』と私の魂は言い。私は主を待ち望む」と言ったのです。

 この「分」という言葉は、たとえば遺産相続の時などの”持ち分”です。当時の人々にとって、「持ち分」は、”土地の事”でした。”生きる地盤だったから”です。しかし、”この哀歌を歌った時、イスラエルの民は故郷を失い、生きる地盤も奪われていた”のです…その人々が、「主こそ私の持ち分、主こそ私の財産、主こそ私の土地、主こそ私を望みなき所で支える大地」と歌ったのです…”極限の中で、見えない神を見上げた”のでした。

 ”この哀歌を歌えるかという事を、神は、私共にも問われる”のです…”哀歌を歌った人々が、見えない神を見上げた”様に、”望み得ない所で、神に望みを置いているか?と言う問い”です。神がそう問われるのは、”今の私共には、預言者エレミヤの時代とは比較にならない、ハッキリとした神が示されているから”です…”十字架のキリスト”です。

 哀歌3章26節には、「主の救いを黙して待てば幸いを得る」とあります。この「黙して待つ」という哀歌の言葉は、どんなに多くの人々を励ましてきたかわかりません…”絶望の中、希望に預かる秘訣”だからです。

 ローマ3章21節の「律法とは関係なく…神の義が示されました」と言うのは、”律法を守る行いではなく、十字架への信仰によって、罪が赦され、神の義(神との交わり)が与えられる…どんな絶望の中でも、聖霊が御言葉を通して語られる、神との交わりが開かれた”事なのです。

 ですから、「黙して待つ」のは,”神の声を聴く為”なのです…”聖霊なる神が御言葉に働いて、私共の心に語って下さるのを静かに待ち望む”のです…”人は神に向かって自分の思いを語り続け、神の御声を聞かないから”です…それゆえ、”神は、「黙して待つ事を学びなさい」”と言われるのです。 

この”黙る”という事が、”預言者の仕事”です。人は試練の中で誰かに相談します…確かに、誰かに聴いて貰うと楽になります。しかし、”本当の行き詰まり、極限の試練の中にある人”は、”キリストに来て頂く以外に救いが無い事を知る”のです。ですから、”預言者は、黙る事を学ばなければならない”のです。

”自分の無力を知り、神の言だけにある命と力を信じ、黙して御言葉を待ち望む”のです…そして、”そこで預言者は生かされ、また、神の言を隣人や世に語る事が出来る”のです…それが「預言者によって立証されて、神の義が示される」という事なのです。

 ”御言葉に生かされている預言者の姿が、神との交わりの回復(神の義が与えられた事)を立証する”からです。ですから、”預言者は、聖霊が御言葉を通して語られる主の御声を聴く”のです。

 そして、”キリスト者は、既に、その預言者として召されている”のです…私共の”家庭、職場、友達の中”において、”御言葉に聴いて、御言葉に望みを置いて、御言葉に生かされる、その預言者の姿が、神を指し示す”のであります。そして、”その為に、私共は預言者として、罪赦されて召されている”のです。

祈祷>
主イエス・キリストの父なる御様
 過ぎし1週間、私共が、十字架への信仰によって、生かされた事を思い返し感謝致します。あなたが、罪赦された私共の心に、御言葉をもって臨んで下さっている幸いを思います。 預言者とされて、この御言葉に生かされる幸いに置かれている事に感謝致します。この幸いが、今、御前にある全ての者に行き渡り、涙を払って下さいますように…。
 そして、このあなたの慰めを必要としている兄弟姉妹達のある事を思い、私共が預言者として、御言葉を伝える事が出来ますように…。
 聖霊なる神様、私共が聖書を読む時、御言葉にお臨み下さい。聖霊なる神様が、御言葉をもってお語り下さって、慰めを与えてくださいますように…。
寒さの中、お身体の弱さを覚えておられる方々を覚えます。また、心の弱さを覚えておられる方々が、御言葉から与えられる信仰で強められ、癒しに預かる事が出来ますように…。
 今朝は、15年ぶりにリフレッシュされた会堂で礼拝を献げる事が出来ました。愛する兄弟姉妹と共に喜びの礼拝を献げる事が出来ました事に感謝致します。献げて下さいましたお1人〜を祝福して下さいますように。
 私共の信仰をも大きく祝福して下さい。そして私共、教会の地境を広げて下さいますように…。神の大使館である、このリフレッシュされた教会堂と共に、私共の信仰も祝福されて、あなたの救いを大きく宣べ伝えて行く事が出来ますように…。
   主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。 アーメン