「まぶねの中に…乳飲み子イエスが語るもの…」
ルカによる福音書2章1〜7節
2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
詩篇29篇1〜2節
29:1 【賛歌。ダビデの詩。】神の子らよ、主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ
29:2 御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「まぶねの中に…乳飲み子イエスが語るもの…」
クリスマス礼拝 ルカによる福音書2章1〜12節、詩篇詩篇29篇1〜2節.、2004.12/19
「きよしこの夜」という余りにも有名なクリスマスの賛美歌があります。歌詞をお読みします。「きよしこの夜 星はひかり、救いの御子は まぶねの中に ねむりたもう いとやすく」…世界的に有名なクリスマスの賛美歌です。クリスマスというのは、まさに、まぶねの中に、いとやすく眠りたもう乳飲み子を巡る出来事です。ここにある「まぶね」というのは、家畜の餌を入れる石を彫った「飼い葉桶」の事です…そして、そこに生まれたばかりのイエス様が寝かされたと聖書は記しているのです。
2千年前に生まれた1人の乳飲み子を記念して、毎年キリスト教会はクリスマスを祝って参りました。特に、クリスマス礼拝のこの朝、共に、「まぶねの中にねむりたもうイエス・キリスト」のお姿を心に浮かべながら、乳飲み子イエス様が語る事について学んで参りたいと思います。
乳飲み子イエス様には不思議な「力」がありました。その「力」というのは、お釈迦様のように生まれて直ぐ悟りを説いたとか、超能力があったという事ではありません。また乳飲み子イエス様が特別に人を惹き付けるような顔立ちをしていたというような事も聖書には記されておりません。
ですから、この”乳飲み子イエス様が持っていた力”というのは、特別なものではなく、”普通の赤ちゃんが持っている力”なのです。
その”乳飲み子が持つ第一の力”と言うのは、「人を変える力」です。何の力も持たない筈の乳飲み子ですが、”大人の気持ちや行動を変える力がある”のです。
私共は、赤ちゃんの前に出る時、穏やかで柔和な人間に変わります。時には、自分の仕事や都合を後回しにして、赤ちゃんの都合を先にしてあげるという逆転現象も起きるのです。
私共は、”自己中心の原則が支配する世”に住んでいます。誰もが自分の事で精一杯な世界であります。しかし、「自分が〜」ばかり強調されすぎますと、他人の事など構っていられない、「弱肉強食」の世界につながっていくのです。
所が”赤ちゃんだけは、こうした社会のルールに堂々と反して生きている”のです。”赤ちゃんの周りは別のルールが支配している”からです。
詩篇29篇1〜2節に「神の子らよ、主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ」とあります。この預言は、2千年前のクリスマスに実現しました。羊飼いや3人の博士達が、神の御子の御前にひれ伏し礼拝したのです。乳飲み子がもたらすルールは、「大きい者、強い者が身を屈め、小さな者弱い者が大切にされる」というものでした…”乳飲み子には、そんなふうに大人を変える力がある”のです。
乳飲み子が持つ第二の力は「思い起こさせる力」です…大人になりますと、1人で大きくなった様な気がして参りまして、自分は誰かに世話をされなければ生きていけない存在だった事を忘れてしまうのです…しかし、神の御子にひれ伏す時、人は意識するしないに拘わらず一つの事を示されます。
それは、”自分もかつては赤ちゃんだった”という事です。「ああ、私もかつては何も知らず、何も出来ない、おしめの世話までして貰った赤ちゃんだった」という事を思い起こさせてくれるのです。
ルカによる福音書2章6〜7節に「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とあります…ここには宿もなく、家畜小屋で誕生され、暖房もベッドもなく、飼い葉桶に寝かされた乳飲み子イエス様の事が記されております…しかし、この神の御子には、”この御方こそ礼拝を献げるべき相手と思わせる、神を
指し示す平安があった”のでした。
今も乳飲み子イエス様はこう語りかけているのではないでしょうか?…「あなたは、今、自分の目に見えるものしか信じないというかも知れない。自分の力しか信じられないかも知れない。でも、それは本当に正しいのだろうか?思い煩って生きているあなたより、飼い葉桶に寝かされている私の方が楽しそうに見えないだろうか?安心しているようにみえないだろうか?」と…。”何も持たない乳飲み子イエス様には、神に信頼する平安が満ち溢れていた”のでした。
もし今度、赤ちゃんを見る機会がありましたら、”静かにその姿を見つめて頂きたい”と思います…きっと、”全ての赤ちゃんの瞳の中に、クリスマスのメッセージが映し出されている事に気づかれる”と思います…”まぶねに眠る乳飲み子イエス様のように、全ての赤ちゃんの瞳は、神に信頼する平安を物語っている”のです。
けれども、残念な事に、赤ちゃんは何時までも赤ちゃんでいる訳ではありません。成長して行く中で、”赤ちゃんの時に持っていた力を失い、神の恵みを忘れて行く”のです。そしていつの間にか、”自分の力で自分の事だけを考えて生きる世界の住民”となってしまうのです…神や他人を大切にしない、自分本位の生き方になっていくのです。
それは、”クリスマスのメッセージを映し出す者から、クリスマスのメッセージを忘れてしまう者となる事”なのです。クリスマスのメッセージを誰かに思い起こさせて貰う必要のある者となって行くのです。
”平安をもって神を指し示す”という点では、”イエス・キリストは、あのクリスマスの夜、まぶねに寝かされた乳飲み子のまま大人になった御方”という事が出来るかも知れません…”生涯に渉って、神を指し示す力を失う事なく、神を語り、神を示して生き続けた御方だから”です。福音書の中には、主イエスに出会った沢山の人々の事が記されています。それらの人々は、”主イエスの内に礼拝すべき神を見出し、そのキリストから神に信頼する平安を頂いた”のでした。
私自身がそうでした…キリストに出会う前は、生い立ちの心の傷から、心は真っ暗で、何時も、木枯らしが吹き抜けていくような、寂しさと虚しさで荒れすさんでいた事を思い出します。このままでは駄目になるという思いが急に心をせかしはじめ、バイブル・キャンプに参加してキリストを信じた時に、空虚な心の穴が埋まり、心に暖かな光が灯り、「ああ、自分は神の元に帰ってきたんだ。神に愛されているのだ」と気づく経験をしたのです。ただ、「神さま救って下さい」と祈る事しかできなかった時、正に乳飲み子の様な状態の時に、神が臨んで来て救って下さり、神に生かされて参りました。
クリスマス…それは、”まぶねの中にねむりたもう乳飲み子にひれ伏して、自分が忘れてしまった乳飲み子の心を思い出す時”なのです…この朝、共に”神に信頼する事を思い出し、ありのままの自分を明け渡して、キリストの救いと力に生かされ”て行けたら幸いです。