「私達の計画・神の御計画

ロ−マの信徒への手紙8章28−30節
8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
8:29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
8:30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

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    「私達の計画・神の御計画」
        ロ−マの信徒への手紙8章28−30節.2004.11/28
  今朝、私共が耳を傾けようとしております、神の言はロ−マの信徒への手紙8章28−30節です。此処には”私共に対する神の御計画”が記されております。そこで説教の題を「私達の計画と神の御計画」と題してお話しをして参ります。

 人は皆、願いや計画をもって生きています。「アリとキリギリス」という童話にもありますように、人生設計を持つ事は良い事です。

しかし、人は信仰を持ちますと、今まで自分の思い通りに生きて来た事が果たして良かったのか?と思うようになります。”自分の思いにこだわる所や、自分の思いに支配された所に、罪の原因があった事に気づく”からです。言い換えますと、”信仰を持つという事は、神様に一筋に向かう心を学ぶ(たえず神の御心を問う)事”なのです…”神を大きく〜重んじて行き、自分の固執している思いを小さく〜して行く事”なのです。

 しかし、ここで間違いやすい事があります…それは、”自分の固執している思いや自分の計画を小さくして行く事は、自分の願いや計画を持たない事ではない”という事です。”自分について大きなビジョン(幻)を持つ事こそ信仰だから”です。あのクラーク博士の「少年よ大志を抱け」という有名な言葉には、「キリストにあって」という言葉が続いている事は余り知られていません。

人は信仰が与えられ、「自分は神に覚えられている。自分に対して神は御計画を持っておられる」事が分かって参りますと、今まで、”自分が自分を如何に小さく見積もっていたか、自分の計画が如何にちっぽけなものだったかに気づく”のです。

 私達の計画は、進学や結婚、良い収入や健康です。私も今、五十肩で夜は痛みに悩まされ健康の有り難さを実感しています。人には様々な願いがあります…そうした願いが叶わないと不安になったり、不信仰に脅かされるのです…しかし、”神の御計画は人間の願いや計画よりも大きい”のです。

 旧約聖書に哀歌と呼ばれる書があります。エレミヤという預言者が記した悲しみを書き記した書です。イスラエルがバビロンという国に滅ぼされ、民がバビロンに捕囚として連れ去れた時に、酷い飢饉に見舞われて、自分の赤ちゃんを煮て食べたという悲劇がありました。

 しかし、同じ時期に預言者イザヤは、イザヤ書61章4節以下にこのような希望の歌を記したのです。イザヤ61:10「私は主によって喜び楽しみ、私の魂は私の神にあって喜び躍る。主は救いの衣を私に着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる」…これは神に見せられた幻を記したものです。

 一切の希望が持てなくなった時に、絶望のどん底にあって、これ程大きな希望を語る事が出来たのは、自分の勝手な願望でありませんでした。神の言を聴いて語る預言者は預言が1つでも外れたら、資格を失ったからです。イザヤは神の御計画を聴いたのでした。このような幻を、今、”神は御言葉の確信をもって与えて下さる”のです…これこそが”聖霊が示して下さる神の御計画(幻)”なのです。

 では私達の計画よりも大きい”神の御計画”とは何なのでしょうか?…パウロがここで繰り返し〜語っている事は、「神は前もって知っておられた者たち」「あらかじめ定められた者たち」という言葉です。

 私達が教会で聴くのは福音(喜びの知らせ)です…”十字架で、私共の罪が赦され永遠の命が与えられたというニュース”です。しかも、ここで私共に聖書が語るのは、”神が前から知っていた私を救う為に十字架に御子をお架けになったという福音”なのです。

 人が自分を深く理解していてくれるのは喜びです。まして、”神が自分の全てを理解して下さっている事が分かる以上の喜びと平安は無い”と思います。

 この「神が私を知っていて下さる」という事には、更に深い意味がありまして、「神が私を御自分のものとする」という事なのです…”神は私を知っているだけでなく、私を神のものする”。それこそが、”私を知っておられる神の御計画”なのです。

 ですから29節前半の「神は前もって知っておられた者たち」と、後半の「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」という事は同じ事を2度言っているのです…”神は前から知っている私共を、神のものにしようとしておられる…御子イエスに似たものにしようとしておられる”のです。

 「似たものとする」という事は、「そっくり同じ」という意味の言葉です。神の子供とされた者達は、”キリストを長男に見える程、キリストとそっくりな者となる事が出来る”のです。

 コロサイ3章17節に「そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」とあるように、”真の神の子として生きるようになる事”が、”キリスト者の切なる願いとなって行く時、私共の生き方は変わります。眼差しも言葉も、キリストに似たもの変わって行く”のです。

 28節に「…御計画に従って召された者達は、万事が益となるように共に働くという事を、私達は知っています」とあります。万事が益となるというのは、”神は私共に起こる全ての出来事を通して、益と変えられる(キリストとそっくりな者に造り変えられる)”のです。そして、それこそが、”神の第一の御計画”なのです。

 神の御計画に私共が預かって、キリストとそっくりな者と変えられて行く為に、”私共がすべき事が1つだけ”あります…それは、”礼拝で自分に語りかける神の言を聴き続ける事”なのです。教会では土曜日を、”備えの日”と言います。それは、掃除や礼拝の準備をする日というだけではありません。”神の語りかけを聴く為に、霊と肉共に備える日”という事なのです。

週休2日が欧米から日本に入って来ましたが、元々、週休2日は土曜日は自分が休む為の日、”日曜日は神を礼拝する日”として生まれたものでした。”日曜日は神を礼拝し神の言を聴く日”なのです。

 スイスにトゥルナイゼンという牧師がおりました。トゥルナイゼン牧師が書かれた「この世に生きるキリスト者」という書物に次のような文があります。

「教会とは何かを、教会の建物が語っている。教会堂は、1週間空っぽで、日曜日の短い時間だけ開かれているという独特な建物である。それは、教会は日曜日の礼拝の時間の為にある事を物語っている…牧師という存在も、礼拝で説教する使命の為に存在する男である」と…。多くの”牧師”は日曜日以外も忙しく飛び回っています。けれども、何よりも”日曜日の朝の礼拝の為に存在している”のは確かな事です。

しかし、これは牧師の事だけではありません…全てのキリスト者は、<日曜日の男><日曜日の女>だからです…”日曜日にしか聴けない神の言を聴く存在だから”です。

 ”礼拝は、神様が臨在をもって、私共1人1人を、キリストと似た者(神のもの)とつくりかえる為に、神の言を語って下さる所”なのです…だから、牧師のお話しを聞きに行くというのは礼拝の姿勢ではありません…”礼拝の姿勢”は、”この朝、私をキリストに似た者と造りかえようと語って下さる神の言を聴、こうと神の御前に出る”というものなのです。

 欧米の教会は、礼拝の時間になりますと鐘を鳴らします…それは、”今から此処で語られる神の言を聴いて欲しい”という鐘の音なのです。牧師のお話には上手、下手があります。鐘を鳴らして聴いて欲しいというのは、牧師のお話ではありません…牧師が説教という手段を通して、一生懸命指し示している、”その朝、開かれている聖書の言”なのです。

 ”その言葉こそ、私共をキリストに似た者としようとして、神様が御計画の内に語って下さる神の言”だからです。この”神の言を通して、私共は、自分について、自分で考えてみた事もない大きな幻を見る事が出来るのです。キリスト者の人生は神の大きな御計画を知って行くもの”なのです。