「恵みの世界」
ルカによる福音書9章46〜48節
9:46 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
9:47 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、
9:48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「恵みの世界」
幼児祝福式、ルカ9章46〜48節、2004.11/21
今朝は幼児祝福式ですので、イエス様が幼子を祝福した事を記している、ルカ9章46〜48節「私の名の為にこの子供を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」…この神の言から聖書に聴いて参りたいと思います。
世間では、この時期に七五三を祝います。子供の健やかな成長を祈る儀式ですが、もともと七五三には次のような意味があるそうです…「子供は、もともと神の子であって、その神の子を人の子としてお迎えする儀式」という事です。元々持つ意味を知ると七五三は神事である事が分かります。しかし、そこに、”お迎えする。受け入れる”という意味がある事を思う時、ここで神の御子であるイエス様が言われた、「子供を受け入れなさい」と言う言葉こそ、”真の子供を祝福する言葉”だと思うのです。
ここを読む時、直ぐに気づく事があります…それはイエス様が「子供を受け入れなさい」と言われた時、”弟子達は誰が一番偉いか?という事を論争していた”と言う事です。この事は、”イエス様と弟子達の視点が如何に違っていたかを物語っている”のです。
弟子達は、キリストとは歯車が噛み合わない価値観の世界に生きていたのでした…どんな世界かと申しますと、46節の「弟子たちの間で、自分たちの内、誰が一番偉いかという議論が起きた」という記述から分かります…”比較の世界”に生きていたのです。
人には、「人と比較して自分の優れている所を確認したい」という思いがあります。安心して生きたいからです。ですから身分や差別が生まれるのです。
娘が学校の人権の授業で、この様な事を学んできました。明治政府は、日本から身分制度を亡くす為、「解放令」を布告しました。しかし民衆が反対の一揆を起こしたというのです。自分より低い身分の者と同じ身分となる事を民衆が反対したのでした。更に、ある庄屋さんが「5万日の日延べ」というデマを流したのです。「解放令」が執行されるのは5万日後なら2008年になってしまいます…如何に、”人というのは、自分より下の身分をつくって安心したいかを見る思い”が致します。
人は多かれ少なかれ、この「人と比較する価値観」に染まってしまっています。ですから、信仰も偏差値のようにとらえてしまうのです。自分の信仰を、何か自分の修行努力の成果のように思って、人と比較して優れていると思うと安心したり、人より劣っていると感じると「自分の信仰が足りない」と思って落ち込んだりするのです。
比較の世界は福音の世界ではありません。”福音は恵みの世界”なのです…”神に無条件に受け入れられ、神の一方的な救いを頂くのが福音の世界”なのです。ですから信仰も、私達の修行や努力でなく、神が一方的な憐れみでプレゼントして下さるものなのです。
プレゼントを大きい小さいと値踏みをするのは失礼な事です。ですから、信仰を比較の対象にするのも神様に対して失礼な事なのです。
”福音は恵みの世界”です…”神に小さな者を無条件で受け入れられて、神の大切な宝物として頂く世界”なのです。しかし、”弟子達の生きていたのは小さい者の価値を軽く見る世界だった”のでした。それは,幼子を数に入れない世界です…その秤が自分にも向けられますと、力がある時は傲慢、反対に自分の能力や力に自信が持てなくなった時には、”自分の価値さえも見えなくなってしまう”のです。
昔、スパルタ教育というものが流行りました。体罰で厳しく躾るというものでした。ルーツは、古代ギリシアの都市国家スパルタで行われていた厳格な教育です。少数市民だったスパルタの市民は強くなる事によって生き残ろうとしました。子供が生まれると長老による審査を受け、虚弱者と判断されると山に捨てられたと言います。男子は7歳になると親元を離れ、訓練所で読み書きや戦闘の訓練をさせられました。また与えられる食事は少なく、足りない分は人のものを盗んで生き抜く事を教えられたのでした。
強い者が生き残ると考えて、弱い者を切り捨てたスパルタは、一時は栄えましたが、やがて戦いに敗れ衰退したのでした。
”強さや力は、人と比較するもの”です…それは緊張しやすい生き方で、脆く崩れやすい生き方です。しかし、”人や社会は、弱い者、小さな者を通して、人をありのまま受けとめるという優しさを学ぶ”のです。また、”人が神の愛を知るのも、自分の弱さや小ささを知る時”なのです…救われた人は、”神が自分の様な小さな者を尊い宝物として、十字架で永遠の滅びから救い出して下さったと気づく”のです。ですから弱さや小ささは大切なものなのです。
この”ありのままで受け入れられる世界が恵みの世界”なのです…それは、比較をしない世界です。少し前の歌に、「No1にならなくても良い、もともと大切なOnly1」という歌詞の歌が流行りましたが、私は、あの歌詞は聖書からとったものではないか?と思っています…”イエス様は、私達を誰とも比較することなく、元々大切な唯一人の神の作品として愛して下さっている”のです。
イエス様は、「一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて…私の名の為にこの子供を受け入れなさい」と言われました。当時の社会では、女性や子供は人数に入れてもらえなかったのです。しかし、イエス様は「私の名の為に子供を受け入れなさい」と言われたのです。
更に、「イエス様の名の為に小さな者を受け入れる者は、神を受け入れる者でもある…その様な者こそ、神の目には最も偉い者である」と言われたのでした。
マザーテレサという人がいます。彼女は、インドのカルカッタの街で、貧富の差が激しく、誰にも顧みられる事なく道端で息をひきとって行く貧しい人々の為に奉仕しました。
カルカッタは、おそらく地上で最も悲惨な状況の街でした。マザーテレサは、そんな人々の為に、神にカルカッタへと遣わされて行きました。来る日も〜、自分の物など何も持たずに、死んで行く人々の為に奉仕したのです。道端に倒れている人を抱えて、「あなたはかけがえのない人なのよ」と語りかけ、施設に運んで息をひきとるのを見守り続けたのでした。マザーテレサは言っています。「私は彼等1人〜の後ろにイエス様を見ているのです。愛するイエス様に奉仕しているのです。イエス様を見ていなければ1日たりとも務まりません」と…。
”イエス様の恵みの世界”は、”一番小さい者を受け入れる世界”なのです…”その人の後ろに、イエス様を見て、愛し受け入れていく世界”なのです。「一番小さい者」と人に言われると、ちょっと反発したくなります。けれども、”自分の小ささが本当に分かった時に、私達は自分の本当の大きさを知る”のです…それは、”神が,この小さな自分を、どんなに大切に見て下さっているかを知る”所なのです。
イザヤ43章4節に「私の目にあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」とあります。神が私共を「大きな宝物」と言ってくださるのです。人が自分の小ささを知る時、人は「私の目にあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」という神の言を、”私への神の語りかけとして聴く事が出来る”のです。
”だから神様は、神の独り子を十字架に架けて、私達を永遠の滅びから取り戻して下さった”のでした。また”神の独り子イエス様も、私共を取り戻す為に十字架に架ろうと地上に来て下さった”のです。
人は自分の小ささを知る事を通して、「それでも、あなたは尊い」と言って、”神の御子が十字架に架かって自分を救って下さった”事を知るのです…そして、”自分が如何に神に愛され、神に尊い者とされているかを知った者は、自分を受け入れる事が出来る”のです…そして、”自分を受け入れる事が出来た者は、幼子を受け入れる、弱い者を受け入れる者と変えられる”のです。そして,それこそが、”恵みに生かされた者の姿”なのです。