「アッバ父よ

ロ−マの信徒への手紙8章12−17節
B
8:12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
8:13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
8:14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
8:16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
8:17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
  「アッバ父よ
ロ−マの信徒への手紙8章12−17節B,2004.10/31

 今朝は宗教改革記念日です。この朝、私共も神様から頂く御言葉を通して自分の信仰を改革する時、顧みる一時となれば感謝です。

 この朝、私共が神に与えられた言葉としてして読みました御言葉は先週に続いてロ−マの信徒への手紙8章12−17節です。今朝は中心聖句である15節「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私達は、「アッバ、父よ」と呼ぶのです」…その中の「アッバ父よ」の一言に集中して学んで参ります。

 何度か申しましたが「アッバ」というのは、親子の親しい関係で父を呼ぶ呼び方です。「お父ちゃん」という事です。このロマ書の8章をはじめとした、キリスト教会最初の伝道者パウロが書いた手紙(聖書)は、”この一言に全てが集中し、また,ここから全ての文章に光が射している”のです。

このロマ書と同じ”信仰による義”を主題に語っているガラテヤの手紙を読みましても、ガラテヤ4:6に「あなた方が子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、私達の心に送ってくださった事実から分かります」とありますように、ロマ書8:15と同じ事が”中心聖句”として記されているのです。

 或る学者の推測では、生まれたばかりの教会の礼拝では、会衆の口から自然と幾つかの言葉が溢れ出たと言われます。今でも「アーメン」と言う言葉が聞かれますが、「ハレルヤ(主を賛美します)」や「マラナタ(主よ来たりませ=再臨)」そして、この「アッバ」です。

 「アッバ父よ」と叫んだのは、”十字架によって罪赦されて救われ、神と親子の関係にして頂いた喜び”からでした。パウロは説教し続けました。毎日〜1日に何度も説教したのです。そして”パウロは何時も心の中で、この一語に心を集中して語り続けていた”のでした。自分は”父なる神に、神の子とされた恵みに思いを集中しながら語り続けた”のです…そして”聴く者達もそこに思いを集中して聴いた”のでした。

 今、”集中”という言葉を使いました。牧師は祈りながら説教を準備します。また聖書を調べ学んで原稿をつくります。私の場合は、それを家内の意見を聞いて何度か作り直します。そして出来た原稿を何度も読み暗唱します。しかし、それでも礼拝で語る説教は全然別物だと感じながら語っています。自分が準備したお話しでは無くなって、”神が与えて下さった御言葉として自ら聴く事に集中しながら取り次いでいるから”です。

家内に礼拝後に説教批評をして貰いますと、準備の時に聴いた意見とは違う事がしばしばあります。家内も聴き手として、”説教を、今朝、神が与えて下さった神の言として集中して聴いているから”だと思います。

”御言葉を神の言として”集中力をもって聴かずに、散漫な聞き方をしていますと、”聴くべき神からの言葉を聴かずに帰ると言う事が起きる”のです。”礼拝に於いて、語る者も聴く者も、神が与えて下さった御言葉という一点に集中する時、神もまた応えて下さる”のです。

 使徒パウロは、”「アッバ、父よ」と叫ぶ事が出来る…この鮮やかな神の恵みに思いを集中して語り、そこに集中して生きた”のです…”全てのキリスト者の立ち所も、此処以外に無い”のです。ロマ書8章16節に「この霊こそは、私達が神の子供である事を、私達の霊と一緒になって証ししてくださいます」とあります。

”キリストの霊である御霊が、十字架の救いを信じる者達を捉え、「アッバ父よ」と呼ぶ者とする”のです…それは、”人の霊を神の子の霊とする”事でもあるのです。この”神の子とされた私共の霊と、御霊とが呼応共鳴して「アッバ父よ」と呼ばせ、私共が神の子とされた事を証する”のです。

 ですから,”御霊は私共に対して、絶えず「アッバ父よ」神を呼び求めるように働いておられる”と聖書は言います。それが、”人が神と共に歩んで行く秘訣だから”です。しかし私共の目は、しばしば”2つのものを1度に欲しがる”のです。

その事を記しているのが、マタイ6:24です「誰も、二人の主人に兼ね仕える事はできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕える事はできない」…これは私が牧師として召された言葉ですが、”人は上にあるもの(神の義)だけでなく、この世の物も欲しいと言って父なる神から目を離してしまうのです…”この世の物に心奪われ、それが第一になる時、人は神を見つめる焦点が定まらなくなって、信仰の眼差しが濁ってしまう”のです。

 だから私共は。”心の中で「アッバ父よ。アッバ父よ」と神を呼び続ける”のです。私共の生活で、この”神を呼び求める集中力が一番問われるのは祈りの時”です。

主イエスが「戸を閉ざして、隠れた所におられる父なる神に祈る様に」と教えられた”密室の祈りの時”です。私共は、1人神の御前に出て密室の祈りをする時に、”どんなに気が散るか”という事を知るのです。しばしば祈りに集中できず、神と会話をした実感が持てないのです。

そんな時は、「アッバ父よ」と祈り始めたら良いのです。「アッバ父よ〜」と叫びながら、”神へ思いを集中して行く時、神から心を引き離そうとする一切のものから解放される”のです。”「アッバ父よ」と祈ながら、神の子とされた事に集中して行く”生活を忘れていますと、何かあった時、”神以外の物を見つめている心の本音が現れて来て、悪魔に足下をすくわれてしまう”のです。

 しかし、この「アッバ父よ」と祈りに集中しながら生きる事は、”御利益信仰に生きる事ではありません”…17節に「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」とあります。”「アッバ父よ」と祈る事が出来るのは、神の子とされた者の特権”です。”元々神の子は、イエス・キリストお1人”です。”他の神の子は、十字架の血潮で聖められて、神に養子とされた者達”なのです。

 そして,”神に養子とされた者達は、神の子イエス・キリストの苦しみと痛みが分かる者となる”のです…この事を良く現している言葉がコロサイ1章24節です。「今や私は、あなたがたの為に苦しむ事を喜びとし、キリストの体である教会の為に、キリストの苦しみの欠けた所を身をもって満たしています」というパウロの言葉です。この言葉は、「キリストの苦しみの足りない所を自分が補ってあげる」と言うような思い上がった言葉ではありません。パウロは、”キリストと同じ神の子となった時、キリストの使命が自分の使命となった”のでした。

 ”キリストの使命”とは何でしょうか?…それは、”人の救い”という使命です。そして”今も尚、キリストは、多くの人々が救われていない悲しみを味わい続けておられる”のです。”パウロは、このキリストのお苦しみと悲しみに目が開かれた”のでした。パウロだけではありません。”御霊”は、”神に養子(キリストの躰)とされた者達の目をも開く”のです。

 近頃学校の先生方が言われる事に、「今の若い人達には思いやりが無い」という事があります。「これはどうしようもない」と言う嘆きです…”傍らにいる人の痛みが分からない。傍にいる人の弱さや痛みを共に負って苦労すると言う事が出来ない”と言うのです。

今、新潟では地震で多くの人々が困難と恐怖と悲しみの中におります、土砂崩れで埋まった車から男の子が救出された報道を息を飲んで見守りました。お母さんと娘さんが亡くなられた事は大きなショックでした。度重なる台風で痛みを通過したばかりの私共には、”他人事として見る事は出来ません。その痛みを共に痛みながら、この礼拝でも祈りたい”と思うのです。

 「アッバ父よ」と呼ぶ者とされた人は、”滅びに向かっていた自分を神の養子とする為に苦しみ抜いて下さった主の苦しみが分かる”のです…”御霊がそうして下さる”のです。その時、同時に”滅びに向かっている者に対する主イエスの苦しみと悲しみにも目が開かれる”のです。

 ”救われて神の養子になる”という事は、「アッバ父よ」と”神を呼んで神と共に生きる人生に入る事”です。と同時に、それは、”キリストの愛のお苦しみを共に苦しむ事”なのです。それは世の生き方と違った生き方に入る事であり、時に迫害を受けたり、損をする事もあるのです。「神の御心は何処にあるのだろうか?」と呻く事もあります…ですから、「アッバ父よ」と祈る事は御利益信仰ではないのです。

でも、そこには”大きな益もある”のです。「アッバ父よ」と祈る時、”苦しみを絶望せずに苦しむ事が出来る様になる”事です…”見えない神に立つ事が出来るようになる”からです。”全てを御存知で共にいて下さる神に、「アッバ父よ」と祈り神に委ねて、そこに立ち、神の救いの時を待ち続ける事が出来る”のです。