「御霊が宿っているあなた方

ロ−マの信徒への手紙8章1〜11節(3)
8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
8:2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
8:3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
8:4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
8:5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
8:6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
8:7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
8:8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
8:9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
8:10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
8:11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。


Uコリント6:16−18
 
「私達は生ける神の神殿なのです。神がこう言われている通りです。「『私は彼らの間に住 み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らは私の民となる…』と主は仰せになる。『そ して、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、私はあなたがたを受け入れ、父とな り、あなたがたは私の息子、娘となる。』全能の主はこう仰せられる」
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
  
  「御霊が宿っているあなた方

  ロ−マの信徒への手紙8章1〜11節(3).Uコリント6:16−18.2004.10/3
今朝、私共に与えられている”神の言葉”として読みました、このロ−マの信徒への手紙8章の2節の所に、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」とありました。

 「霊」というのは、「御霊・聖霊」の事です。4節では、「肉ではなく霊に従って歩む私達の内に…」 と出て参ります。9節になりますと「神の霊があなた方の内に宿っている限り…」となります。ここから、「あなた、私達、あなた方は、キリストの御霊(宿る)によって歩んでいる」という事が書いてある事が分かります。
先週、学んだ1節に、「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められる事はありません」とありました。この「キリスト・イエスに結ばれている者」というのが、「御霊が宿っている者」の事なのです。

 またここに「あなた」や「私達」に続いて、「あなた方」には、「御霊が宿っている」と書いているのは、手紙を書き送っている相手でに対して語っているのです。「あなた方」というのは,それは、まだ会った事の無いロ−マの信徒達でした…”パウロは、まだ会った事もない人々を、自分の内に宿るキリストの御霊と、同じ御霊が宿るゆえ信頼していた”のでした。

 この”結びつけられる”という言葉は、”接着されている”という言葉が使われています…御心配頂きました屋根の破損は、前日に屋根の修理の主要部分が済んでいた為に、21号の被害からは守られました。瓦の下には、本来コンパネという厚く広いボードがあるのだそうですが、バラ材が使われており、下板に隙間がある為、釘も3箇所留める所が2箇所しか留めていなかったそうでした。しかし、今度はしっかり瓦が留められているので、安心して台風21号の中を過ごす事が出来ました…”しっかりつながっている者を安心して信頼できたパウロの気持ちが分かる”気が致しました。

 2節でパウロが「あなた」と呼びかけた相手は、9節になりますと、「神の霊があなた方の内に宿っているかぎり」と複数形に変化しています。これは「あなた」と呼びかけた相手が、「あなた方みんな」というように、”ロ−マの信徒だけでなく、キリスト者全員を指すものとなっていった事を表している”のです。

ある神学者はこう言いました。”「あなたが、あなたから解き放たれて、”キリストのもの”と呼ばれるのは、あなたが、”あなた方と呼ばれる時(キリストの躰に加えられた時)”なのだ」と…。今から、共に”聖餐”に預かりますが、この”聖餐こそがキリストの躰とされる場”なのです。私共が、”キリストの躰とされる時、私共は1人で生きる者ではなくなる”のです…”同じキリストの御霊に生かされる共同体”になるのです…”1つとされているから共に痛んで共に泣き、共に喜ぶ事が出来る”のです。

 パウロは、”まだ会った事もないロ−マ教会の信徒達を信頼した”のです。というよりも、”ローマの地で、人々を救い、バプテスマを与えて教会を建てたキリストの霊を信じた”のでした。

 ”お互いの内にキリストの霊が与えられている事が分かる所に、信頼が生まれ教会の交わりが生まれる”のです…”御霊を持つ者同士は、瞬時に信頼しあう事が出来る”のです。ある聖書学者は「人がキリストの霊を持つという事を、畏れ多いと考える人がいるかも知れないが、聖書はそう思っていない。キリストは低く〜謙って下さって、御自身の霊を、人が自分のものとして持つ事が出来るようにして下さったのである」と…。

 この言葉は”主イエスの恵みの深さを言い表している言葉”です。「キリストの霊を宿すなんて畏れ多い」というのは、”キリストの恵みの深さがまだ分からない人の言葉”なのかも知れません。”キリストが低く〜なって、汚れ多き私共の中に宿って下さった。そして、「あなたは私のものだ。これからあなたは私の霊によって生きるのだ」と言って下さる”…これが”恵み”なのです。

 その事をパウロは15節で角度を変えて言いました。「あなた方は、人を…神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私達は、「アッバ、父よ」と呼ぶのです」と…。私共は、”御霊によって、天の父なる神のもの…とされゆえ、神は父となった”のです。私も「ああ、天の神様は私のお父さんなのだなあ」と悟った経験がありました。「自分は神のものとされた。神の子供とされた」と分かる事こそが、”何にも勝る平安”なのです。

 この御霊は、ローマ11節には、「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら…」とあるように、”キリストを死者の中から復活させられた、復活の霊”です。 あるホスピスがありました。ホスピスというのは、皆さんご存知のように、末期癌患者の方が入られる施設です。そこはキリスト教系のホスピスで、何故か患者さんが明るいので評判の病院です。治る病気と戦っている人々よりも施設におられる人々の方が明るいのです。

 これは知り合いの牧師から伺った話ですが、ある病室に若い婦人がおられたそうです。遠い地で求道されておられた方で、その教会の牧師の勧めで、そのホスピスに来られました。 そして、牧師が訪問された時には、もう点滴以外に栄養をとる道がありませんでした。しかし、そんな状態とは思えない程に血色が良く、牧師は語り祈りながら、「どうして、この若々しい人がもうじき息をしなくなるのか?」という思いと戦ったという事でした。若々しい人を押し倒す程の猛烈な死の流れが、彼女に押し寄せていたのです…彼女は此処に至る迄、おそらく、悩み、泣き尽くした事と思います。しかし、そうした中で”御霊は彼女を救い、そして支えて明るい笑顔を与えた”のでした。

 ”キリストの御霊”は、”復活の霊”ゆえに、”私共が死の淵を彷徨うような時でも生かし支えて下さる”のです。これは”御霊に導かれる者の古今東西変わらぬ姿”なのです。

詩篇66篇に出エジプトの出来事を歌った詩があります。”出エジプトは、モーセに導かれてエジプトの奴隷生活から脱出した民が、神の御手によって海の水を2つに分けられた奇跡によって、紅海の底を渡って救われた出来事”でした。

詩篇66:5〜9に「来て、神の御業を仰げ。人の子らになされた恐るべき御業を。神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であった所を歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った。神はとこしえに力強く支配し、御目は国々を見渡す。背く者はおごる事を許されない。諸国の民よ、我らの神を祝し、賛美の歌声を響かせよ。神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない」…”神の民は、この神の御手の業を忘れる事が出来なかった”とあります。

イスラエルの民は此処で、”「神は魂に命を得させて下さるお方であり、これからも我らの足がよろめくのを赦されない」と信仰を告白した”のです。

 先の詩篇66篇に、彼等は、この救いの体験を”「我ら」と複数”で語っています…”神は神の民ごとに救い導かれるお方だと経験から知っていた”からです。この”神の民”は、”新約聖書の時代”の今は、”キリストを信じて、キリストの躰(教会)に結ばれている共同体を指している”のです。

Uコリント6:16−18「私達は生ける神の神殿なのです。神がこう言われている通りです。「『私は彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らは私の民となる…』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、私はあなたがたを受け入れ、父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』全能の主はこう仰せられる」と…。ここに書いてあるのは,「今、御霊は、教会(私達、彼等、あなたがた)という共同体につながる者の内に宿り、働かれる」という事なのです。

 私共は、”キリストを信じて、洗礼のバプテスマを受ける時、キリストと共に死ぬ”のです。そして、”御霊によりキリストと共に復活する”のです…そこから,”今生きているのは、私ではなく、キリストの御霊が、私共の内に生きる世界が始まる”のです。更に,”御霊は、私の内に生きて働く為、1つのキリストの躰(共同体)として下さる”のです。この朝、御霊に生かされる世界をに信じ、教会につながり、また、今から預かる聖餐によって、キリストの躰として頂き、共にこの恵みに預かって参りましょう。