「御霊が宿る者

ロ−マの信徒への手紙8章8−9節
8:8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
8:9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。


Tコリント6章18−20節
6:18 みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。
6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
  
  「御霊が宿る者

ロ−マの信徒への手紙8章8−9節.Tコリント6:18−20、2004.10/17

 今朝、私共に与えられた神の言として8章9節をお読みします。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます…」。原文のギリシャ語では、もう少し強く「あなたがたは、しかし肉の中にではなく霊の中にいる」と断言する口調です。

 この言葉は、8節の「肉の支配下にある者は、神に喜ばれる筈がありません(神を喜ばせる事は出来ない;口語訳)」を受けての言葉です。「肉の支配下にある人は、神を喜ばせる事が出来ないが、あなたがたは違う、もう肉の中にはいない。霊の中にいるのだ」と答えたのが、この9節なのです。

 「救われて霊の中に入れられた人は、神を喜ばせる事が出来る人とされた」というのです。主イエスが「悔い改めて、信仰を言い表す人が1人でもあれば、天に真の大いなる喜びがある」と言われたからです…ですから、”洗礼を受ける事自体が神様に喜ばれる事”なのです…”人は洗礼により、神に喜ばれ、そこから神に喜ばれる人生をスタートする”のです。

 そして,この”神に喜んで頂く事はキリスト者にとって何よりの力”となります。先日、三木兄と満君と聖子師と共に新居浜にボランティアに参りました。一見、新居浜の道路には土砂が無くなっていましたが、街全体が浸水した被害は大きいものでした。低い所に建っていた家の多くは人が住んでいません。公園や学校の校庭のヘドロはようやく撤去が始まった所です。そして、民家の床下のヘドロは、1人暮らしの人の手に負えないものだと分かりました。

 私達が行った家は、少し高い所にあった為、まだ住む事が出来ましたが、隣の6軒は、1人暮らしの老人ばかりで、あっと言う間に顔まで溢れてきて、糞尿が浮かぶ泥水の中、柱によじ登ってしがみついて助けを待っていたとの事でした。かける言葉が見つからず、ただ惨状を聴くしか出来ませんでしたが、”被災者の感謝の気持ちがボランティアの力になる事を実感”しました。

現実には、ボランティアと被災者の衝突も結構あるようです…被災者も気持ちに余裕がないのでしょう…感謝を忘れて、手伝って貰う事が当然のようになって、自分は自分のしたい事をしている人との衝突だと聞きました。これは、この聖書の言う”喜ばれる事が出来ない肉の人の姿”となるのでしょうか?

 9節をもう1度お読みします「神の霊があなたがたの内に宿っている限り…」とあります。「宿る」というのは綺麗な言葉です。同じ言葉が11節にも出て来ます「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら…」しかし、この言葉から勘違いしてはならないのは、「旅館に宿を取るというような一時的な滞在として捉えてはならない」という事です。

”旅館に宿を取るというのは、現実から逃れてリフレッシュする事”です。しかし、お金が続きません。ですから人は生計を立てる為には「住む」のです。住んで生活をしながら働くのです。11節の「内に宿っている」という言葉は、原語のギリシャ語では、「中に住む」という言葉が使われているのです。ですから、ここの「宿る」という言葉は、「住む」という意味で理解されている事が見えて参ります。

 この「霊が、あなたがたの内に宿っている」という御言葉を思う時に、必ず引用される御言葉はTコリント6章19節です。「知らないのですか。あなた方の体は、神から頂いた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなた方は、もはや自分自身のものではないのです」…ここに「あなた方の体は、聖霊が宿る神殿になった」とあります。

この御言葉も、”前の節のTコリント6:18を受けての言葉”でした…Tコリント6:18「みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪は全て体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」。

 世界的に、”霊的なものと肉的なものは分けて考えられがち”です…”霊的なものは高級で、神を求め神につながる部分で、肉的なものは、低俗で欲望や汚れとつながる部分として考え”るのです。

 それは”ギリシャ哲学の影響を受けた考え方”です。コリントの教会も、このギリシャ哲学の影響を受けて、「救いというのは霊の問題であって体は関係ない。霊が救われて神様のものとなっていれば、体は欲望の赴くままでいいのだ」と考え…その結果、”コリントの教会は歴史に残る、性的に乱れた教会となってしまった”のでした。そして、それは”神を喜ばせる教会の姿から遠く離れた、神を悲しませる姿”なのでした。

 それに対して使徒パウロは、「神は、あなたの肉体の中に、神の霊が住まわせておられる。神はあなたの心だけでなく、あなたの体も、神が住まわれる聖い神殿にして下さったのだ…だから、それを汚す事は許されない」と…。

 これは、決して他人事ではないのです…日曜日の朝、私共は礼拝に参ります。その時、昨日までの日常生活と少し違う気分で来られるのではないでしょうか?確かに会社や学校に行くのとは違う、”聖なる所に行くという心地よい緊張感と、神の聖さと愛に触れ、心の洗濯が出来る期待感があるから”かも知れません。

しかし、そこには”会社や学校は俗っぽい事”であって、”神様には関係ない事という意識があるのではないか?”と思います。もっと強く言いますと、「神様にじっと見られたら困る生活」が日常生活なのかも知れません…もし”聖なる礼拝を終えて家に帰ると、俗人に戻るという生活”を使い分けているなら、それはコリントの教会と同じ道が芽生え始めているのかも知れません。

”使徒パウロはここで、「そうではない」と言っている”のです…「会社に行っている、学校に行っているあなた。家庭に仕え、子供の親として生きているあなた。そういうあなたの中に、神様がおられ、神の霊が住んでいるのだ。だから、それに相応しい生活をしなさい」とコリントの教会に言ったのでした。そして、今の私共にも語っているのです。

 この”相応しい生活”というのは、御霊の神殿としての聖なる生活の事です。しかし、この生活は、「〜しなければならない」という律法の生活の事ではありません。この事については来週詳しくお話しするつもりです。

 10節を読みますと、”「御霊があなた方の内にいる」事を、「キリストがあなた方の内におられるならば…」となっている”のです。”御霊が心の内にいるという事は、キリストが心の内にいるという事”でもあるのです…”信仰者にとって大切な事は、「主イエスは、今、何処におられるのか知っている事」なのです。キリスト者は、キリストの後を付いていくのですから、イエス様が何処におられるのか見当も付かないのでは困る”からです。

 ”キリストが、今、何処におられるか?”… ”1つの答え”は、”使徒信条”が言っています。「天に昇り、父なる神の右に座しておられる」と。だから今、”キリストは目に見える姿では此処にはおられない”のです。しかし、もう1つの答え”があります…それは、此処にあるように「霊に於いては、キリストは私共の中におられる」という事なのです。

 19世紀の西ドイツにボーデル・シュヴィングという牧師がおりました。ある時ボーデル牧師は、疫病が原因で4人の子供をたった13日間の間に亡くしてしまわれたのです。その時、どんな思いで礼拝で説教を語ったのかと思います。やがてボーデル牧師は小さな手記を書かれました。その手記の最後に哀歌3章の御言葉を記したのです。

哀歌3:29「口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう」と…。手元を離れ天国に帰って行った子供達は、今、神の栄光の子供とされている事を信じ、このような祈りを書き記したのでした。「我が主イエス…私は今、そう呼ぶ事が出来ます。あなたの御霊が私の中で、素晴らしい御業をもう始めて下さっているからです。
この御霊の元にあるものは、永遠にあなたの子となったのです。あなたの霊、その創造力、その憐れみに感謝します」。

 やがて、ボーデル牧師は西ドイツの街の郊外で、”てんかんの病を持っている人々を集めて共同生活”を始めました。当時、”てんかんの病は差別されていた”からです。やがて、それは、”ベテル(神の家)という施設”になりました。今では愛のエネルギーに満ちた世界最大の社会福祉施設だそうです。

その内に患者も信仰に導かれるようになり、賛美歌をつくる人々も出て来る様になっていきました。しかし、残念ながら、病気ゆえ必ず召されて行くのです。”ボーデル牧師は、その葬儀の時に、白い棺に遺体を入れた”のです…”黒は悲しみと喪に服している徴であり、白は輝きと命の徴だから”でした。そして、担がれた棺の前をブラスバンドが歩いたというのです。…”キリストが宿る者が、地上で重い病を得て、苦しみ抜いて天国に行った時、天国で神の命に覆われると信じたから”です。

 ”教会は、この御霊が宿っている者達の共同体”なのです。それは、”主イエスが、このキリストの躰である教会と共におられ、また、私共1人〜の心の内にもおられる事”なのです…”私共は自分の身体を、御霊が宿る神殿として神に献げて、新しい聖なる歩み”を共に歩んで参りたいと願います。