「御霊が注ぐ神の愛」
ロ−マの信徒への手紙8章1〜17節
ロ−マの信徒への手紙5章5節
「希望は私達を欺くことがありません。私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです。」
ロ−マの信徒への手紙8章6節
「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」
ロ−マの信徒への手紙8章11節
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」
ロ−マの信徒への手紙8章15−16節
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」
今朝、私共に与えられている”神の言葉”として読みました、このロ−マの信徒への手紙8章の2節の所に、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」とありました。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「御霊が注ぐ神の愛」
ロ−マの信徒への手紙5章5節、8章6節、11節、15〜167.2004.10/10
今朝、私共に与えられている神の言である聖書の箇所を、中心聖句を5章5節として、8章6節、11節、15−16節から、共に「御霊が注ぐ神の愛」について共に耳を傾けて参ります。
ロ−マの信徒への手紙5章5節に「希望は私達を欺くことがありません。私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです」とあります…”キリストを信じる時に与えられると約束されている聖霊は、神の愛を人の心に注ぎ、欺かれる事の無い希望に導く”と言うのです。そこで、この朝は、”御霊は、どのように神の愛を注がれるのか?”という事を学んで参ります。
1つ目は「神は御霊によって、神の平安を与えて神の愛を注がれる」という事です…”人は、神が与えて下さる平安の中で、神の愛の支配の下にある事が分かる”からです。
8章6節「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和(平安)であります」…ここに記されている「思い」というのは、ぼんやりではなくて、”はっきりとした目標に向かって思い詰めて行く”という言葉です。 人がどんな危機的な中を通り、また思い悩む事があっても、”御霊は、人に神の平安を与え、神の愛の支配の下にある事を、一筋に教えようと思い詰めている”と言うのです。
礼拝は祝祷で終わります。祝祷は、これから始まる1週間の歩みの上に、神の祝福を祈る祈りです。それは、「良い事ばかりがあるように」という御利益を祈る祈りではありません…そうではなく、「良い時も悪い時も、愛の神の支配の中を歩めますように」という祈りなのです。
教会という所は不思議な所でして、結婚式もお葬式も同じ会堂で致します。そして、”同じ神の祝福「神の愛の支配」を祈り求める”のです。ある東京のホテルで、教会式の結婚式もする事になりまして、教会に結婚式を委託する事になったそうです。所が教会では、結婚式もお葬式もするという当たり前の事に気づいて、棺が出入りする所で結婚式をするのは縁起が悪いという事になり、ホテルの敷地内にロマンチックな会堂を建て、結婚式専用の牧師を探したと言うのです。
ホテルの結婚式が優先で、礼拝は二の次、そして縁起でもない葬儀をしない牧師です。東京はいろんな人がいる所ですが、そういう牧師の団体が現れたというのです…悲しいお話しです。しかし、その話を聞きながら、「ホテル側の考えに、この世の縁起を思う思いが表れているんだな」とも思いました。
しかし”教会はそうは考えません…神は結婚式の時も、葬儀に於いても、そこを愛の神が支配して下さると信じて神の祝福を祈る所”だからです。神は御霊によって、私共が神の愛の支配下である事を教えて愛を注がれるのです。
2つ目は、「神は御霊によって、キリストを信ずる者に、永遠の命が与えられた事を教えて神の愛を注がれる」と言う事です。
11節に「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなた方の内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなた方の内に宿っているその霊によって、あなた方の死ぬ筈の体をも生かしてくださるでしょう」とあります。
私共は生きている限り思い悩みや不安から解放される事は出来ないのです。しかし、”御霊によって、永遠の命が与えられている事を教えて頂く時、問題の直中で、確かな平安に抱えられて導かれて行く事が出来る”のです。
先々週、映画タイタニックの再放送がありました。私には何度見ても心に残るシーンがあります。それは沈み行くタイタニックの中の、貧しい母親と2人の子供の姿です。
上等室のお客の避難が済むまで、3等室の客は、下層の客室に閉じ込められておりました。たちまち海水が2段ベッドの下のベッドまで溢れてきました。母親は死を覚悟しながら、しかし子供を平安な心で包むように物語を語って寝かしつける場面です。そのお話はピーターパンかと思うのですが、「永遠に死ぬ事の無い世界に行ったのでした」という物語が終わると同時に子供が眠りに就くのです。
死を前にして子供を包む事が出来る平安…母性愛だけで果たして持てるものでしょうか?…きっと、この母親は、「御霊に自分と子供には永遠の命が与えられている」と教えられて、神の平安に抱えられたのだと思うのです。御霊が「あなたには永遠の命が与えられている」と教えられる事を通して神は愛を注がれるのです。
3つ目は、「神は御霊によって、神に愛されている子供である事を教えて神の愛を注がれる」のです。
”信仰というのは理屈ではありません”…”信仰”というのは、”神と復活のイエス・キリストを愛する事”なのです。しかし、”自分の神への愛を見ると心もとない”のです。ですから、”御霊は、先ず、キリストが私共に愛の手を差し伸べて下さっている事を教えて下さる”のです…”愛された者にしか、愛する事が分からないから”です。
では”キリストを愛する”のは、どうすれば良いのでしょうか?…それは、”祈る事”です。”祈る事無しに、主イエスを信じる事はありえない”のです…”話さなければ愛を育む事は出来ない”からです。
パウロは15節で述べました。「あなたがたは、人を…神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私達は、「アッバ、父よ」と呼ぶのです」と…。この「アッバ」という言葉は、アラム語です。アラム語というのは、主イエスが使っていた言葉でヘブル語の親戚です。
先週もお話ししましたが、「アッバ」というのは赤ちゃんが最初に口にする喃語で、それが「お父さん」という意味になったと言われます。親しい親子の間柄で「お父さん」と呼びかける時に使う言葉なのです。ですから、当時、神様に向かって「アッバ」と呼びかける人はいませんでした。主イエスが初めて使った、神への呼びかけの言葉だったのでした。
新約聖書の中に、この「アッバ」という言葉は3度しか出て来ません。こことガラテヤ4:6それとマルコ14:35のゲツセマネの祈りです…”主イエスはゲツセマネの園で、十字架の前に血を流しながら、「アッバ父よ」と祈られたのです。極限の中で普段の祈りが口をついて出て来た”のでした。
「このアッバ父よ。という祈りは、父親の腕の中に包まれている幼子が、自分を暖かく包み込む父への自然な呼びかけ」と言われます。”御霊は、「祈る者に対して、あなたは神に愛されている子供だと教えて下さる」のです…そして、この”「アッバ」と、神に祈る心を教えて下さる”のです。
以前もお話しした私事ですが、私も「ああ、天の神様は私のお父さんなのだなあ」と悟った経験がありました。修養生の時、ある教会の日曜学校の生徒が心臓の手術を受ける事になりまして、B型の修養生が東京女子医大に献血に行きました。しかし、後で病院から電話があり、「千葉さんはO型の可能性があるのでもう1度検査に来て下さい」と言われました。
その頃、修養生には元看護師さんが多くて、「千葉さんお母さん何型?」と聞かれ、「AB型です」と答えたら、「おかしいわね、AB型からO型は生まれないわよ」と言われたのでした…その時には聞き流していたのですが、寝入りばなに、先の「おかしいわね、AB型からO型は生まれないわよ」という言葉が頭の中を駆けめぐり始めました。私は血のつながった肉親は母しかいなかったので、母が違うとなれば天涯孤独になってしまいます。「でも、母はあんなに苦労して私を育ててくれたのだから、それでいいと思って寝りについたのでした」。
翌朝、珍しく母から電話がありましたので母の血液型を聞いた所、やはりAB型でした。何時もと違うと感じた母から、「どうしたの?」と問い詰められまして、嘘がつけない性格ですので正直に事情を話しました。母は動揺して「何言ってるの?私は苦しんであなたを生んだのよ。あなたが生まれた時、豚がブーブー鳴いてたのよ」というのです。病院の隣が養豚場だったのです。嘘とは思えず「分かったごめん」と言って電話を切った後、東京女子医大に向かいました。
電車の中で「けれどもしもO型だったら?…そうだ、神様がお父さんなのだ」と、その時心で分かったのです。結果はB型でした。何も知らない看護師さんが笑いながら「おめでとうございますB型でした」と言ったので、思わず立ち上がって「ありがとうございました」と答えていました。最後は笑い話になりましたが、”御霊に、「天の神こそ、あなたの父なのだよ」と教えて頂いた尊い経験”になりました。
”神は御霊によって、神の愛を注いで下さるのです。それは神の平安と永遠の命をもって、神が愛の支配して下さっていると教えて下さるという事です。そして、神は、神の愛を信じる私共を決して欺かれない”のです。