「神の怒り」
ロ−マの信徒への手紙1:18
「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」
わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「神の怒り」
ロ−マの信徒への手紙1章18節、2003.9/7
今朝,私共は共に、ロ−マの信徒への手紙1章18節から神の言に聴いて参ります。
この1章の18節から3章の20節までは、ある神学者が「夜」と名づけたことで知られる部分です。人間の闇の部分である罪を取り扱っている箇所だからです。しかも、3章の21節に至って、「神の救い」が語られるまで続くのです。
何故、始めの部分でこの様な重いテ−マについて長々と記すのでしょうか?。
”黒い雲間から太陽の光が、一筋地に向かって射し、光が当たっている所だけ浮かんで見える”…そんな情景を思い浮かべて頂きたいと思います…その”一筋の光がイエス・キリスト”であり、そして、その”一筋の光を浮き立たせている闇が、人の罪”であり、”照らされている地面が、十字架”なのです。人が”「罪」という闇について本当に知る時、光である主イエスと、光が照し出す十字架とが分かってくる”のです。
そして、それは、”既に十字架を信じ、光の内に立っている人も同じ”なのです…”罪という闇を知る”事は、学生が後輩の受験生を見て「ああ、私も去年の受験は大変だったなあ」と思うような”過去の事ではない”のです…何故なら、人は皆、”救われ続けている罪人だから”です。
18節に「神の怒りは…天から現される」とあります。聖書は、人の罪について記すにあたり始めに、”神の怒り”について述べるのです。何故なら、”神の怒り”は、宗教改革者ルターが、「およそ人は神の怒りを知り得るであろうか」と言った程に分からないものだからです。
”神の怒りは崇りとは違い”ます…先日、教会では合田文次兄の葬儀が行われました。日本の葬儀には塩がつきものなので、収骨式の時に塩を用いない理由を説明致しました。何故、塩を用いないかと申しますと、”仏教では、死者の霊はまだ彷徨ってると考えるから”です。そこで供養をしたり塩で清めたりするのです。しかし、キリスト教は、”十字架で救われた者は無条件で天国に凱旋すると信じ”ていますので、塩による清めは行いません。
17節には「福音には、神の義が啓示されています…」という言葉があります。そして続くこの18節には「神は天から怒りを現されます」とあります…ここにある「啓示」と「現される」という言葉は同じ言葉が使われております…”福音の蓋を取ると、その中に、神の義と神の怒りとが見えて来る”と言うのです。この”福音の中にあるものを、16節〜18節で語っているのです…16節では、福音の中に「神の力」があると言いました。17節では、それを言い換えて「神の義」と言い、更に18節では、もう1つ言い換えて「神の怒り」と言っているのです。
更に、2〜3節を見ると、「この福音は…御子に関するものです」とあります…正に,”キリストこそ、福音そのものであり、キリストの内にこそ人を救う神の力があるのです。それは、キリストが十字架で全ての人の身代わりに、神の怒りという、神の力ある審きを受けられて、罪を赦す力を獲得して下さったのです。それゆえ、人と神との正しい交わり(神の義)が回復され、永遠の命を与えられた”のでした。
パウロは,「神の怒り(十字架)という光は,不信心と不義という人の罪に向けられる」と言いました…これは「十字架という光に照らし出される時、人の罪が浮かび上がってくる」と言う事です。
ある聖書翻訳者は、この”不信心”と言う言葉を、「神を畏れる心を失う事」と訳しました。
では「神を畏れる心を失う」とはどういう事なのでしょうか?…先ず思う事は、「神なんかあるものか」と”神を否定する事”です。それもあるでしょう…ある人は、更に「キリスト者の中にある罪をも指している」と言ったのです。
それは「神を一番大切にして差し上げる罪」だというのです…言い換えれば”神を信じる者が、自分が主人のようになって、神を大切にしてあげるという姿勢の罪です、神は、何時如何なる時でも、人が第一に愛し聴き従うべき御方だからです…自分の都合次第で、神への姿勢を変える事は、神に対する正しい態度ではないのです。
”もっと分かりやすく言えば、”芸能人とマネ−ジャ−との関係”です。マネ−ジャ−は芸能人に仕えるように世話をします。しかし、その”大切に世話をしている、その芸能人から利益を得ている”のです…”仕えながら支配している”と言えます。神を畏れる心を失い、神との関係の崩壊が始まると、神を支配する思いが生まれてくる”のです。
”私共は、愛なる神への信頼の下、良い時も悪い時も神の言を第一に聴き従うべき”なのです。
18節に、「神の怒りは、不義によって真理(主イエス)を阻む者に対して天から現される」ともあります…この「真理(主イエス)を阻む者」とある「阻む」と言うのは、「牢に閉じ込める」…今の言葉で言うなら、「拉致する」という事です。「主イエスに仕えながら、主を支配しようとする者は、主を拉致する罪を犯す事になる。だから神は天から怒りを下す」と言っているのです。正に”使徒パウロが一番問題にしたのはこの事だった”のです。
そして、このキリストを拉致する罪を日常に見ますと…”不機嫌になり人に八つ当たりする時”であります。
私自身語る資格の無い者ですが、誰にも身に覚えのある事ではないかとも思うのです。”物事が順調に行っている時はニコニコし、熱心に教会生活をし、奉仕もしますが、一旦、躓く事が起きますと、疲れてしまい、不機嫌になり不満をぶつける”のです。それがどうして、”神を畏れない心、キリストを拉致する罪”なのかと申しますと、”その時、自分が主人になっているから”です。
その時、人は、”自分の苦しみや辛さが第一、自分の疲れが第一であり、「神が本当に神ならば、自分を助けるべきだ」と、神に文句を言っているから”です。”自分が主人になって、当然のように神に仕える事を求めている…それは、神を畏れず神を支配する心”なのです。
しかも、”そこで自分は間違っていないと思い続けている”のです。”自分の言い分が認められなければ、ひがみ、すねて神から遠ざかってしまう”のです。”自分が主人になって、「自分のこの感情に主イエスも仕えるべきだ」と思っている時、自分の感情の中に主イエスを拉致している”のです。
”ユダヤ人達はそれをしたのでした。主イエスを捕らえ、牢獄で鞭打ち、十字架につけて殺した”のでした…救い主を十字架に架ける事に迄至る罪なのです。
他人事ではありません。「じゃ、どうすればいいのか?」と頭を抱えたくなります。人は直ぐに変われませんし、不機嫌になるのは仕方ないかも知れません。しかし、”その後が大切なのです。
「神様は、私に対して自分が主人である事を教えて下さる為、この事の起きるのを赦されたのかも知れない」と考え、御言葉の前に自分を反省し、また責めていた相手の思いを考える事が大切なのです。自分が主人のままで居続けない為”です。
B兄が入院されておられた時、こんな事を言われました「息子が定年なのだから自分も年をとったのだと思う」と…。故人は最後まで生還しようと闘病されました。でも先の言葉から、「故人は死を見つめながら、いろんな事を考えておられたのだ」と思いました。しかし、”そうした葛藤を誰かに八つ当たりせず闘病されたのは、主の支えに寄り頼まれたからだと思う”のです。
そうした葛藤の中にあった故人を、”主が力をもって持ち運んで下さった、主イエスは故人の主人であった”事を思います。
先週16節で「デュナミス」という”神のカ”について学びました。”ダイナマイトの語源”になった言葉です。そして、”この神の力が、神の怒りの爆発として天から降った時、吹き飛ばされたのは私共ではなかったのです。キリストが死んだ”のでした。”自分の身代わりに主イエスが、避雷針に雷が堕ちる様に、十字架で神の怒りを一身に受けて下さったのです”。
その事が分かった者は、更に、その”キリストを復活させられた神の力をも知る”のです。キリストの復活の光の中で、我々は、神の怒りから、”立ち上がる事ができる道が開かれている”と信じる事が出来るのです。
私は牧師でありますが、長い〜間「神様どうして?」と神を責め続けて来た事がありました。そうしか出来ない深い心の傷があったのです。しかし、今は、”私に沈黙して来られた主イエスを受け入れている自分を見る”のです。「神の力」を思わせられております。
私共はまた不機嫌になる罪を繰り返し犯すでしょう。しかし、そこで、「もはやキリストを拉致する罪の虜でないと信じる事が出来る」のです。”復活され、今、私共の手を取って立たせて下さる主を見上げて、主の力と共に自分と戦う道が開かれている事を知っているから”です。
”福音そのものであるキリストが十字架で、力ある神の怒りを受けて、罪からの救いという福音の力を与えて下さり、そして、神との正しい交わり(神の義)を回復して下さった”のでした…”私共は、その恵みを信仰によって受けて「神を畏れない心・キリストを拉致する心」から解放されて行く”のです。
祈祷>天の父なる神
今朝、私共は共に、「神の怒り」について聴きました。あなたを自分の都合で主人の座から追い出している罪について学びました。苦しみや重荷の中、当然と思う自分の言い分と感情の中、いつの間にか、自分の思いが主人となって、あなたを追い出していた事を知りました。B兄のように、死を見つめる中でも、その葛藤が主人となる事なく、死を超えて持ち運んで下さる、あなたに委ねて行けますように助けて下さい。
自分が如何に主イエスを拉致し、神の怒りを受けるべき者だったかを知りました。いえ、ルタ−の言う通り、自分がどんなに、父なる神を怒らせる者かを知り得ない者かを教えて頂いた気が致します。
私共は「腹を立てるな」と言われても無理な弱い者かも知れません。しかし、こうした日常に於いて、あなたを拉致する罪に気づく者として下さい。後で、はっと、あなたに主人の座を明け渡す者として下さい。「神様は、私に対して自分が主人である事を教えて下さる為、この事の起きるのを赦されたのかも知れない」と考え、御言葉の前に自分を反省し、また責めていた相手の思いを考える者として…あなたを主人として歩む者として下さい」
F姉の退院に感謝致します。他にも体の弱さを覚えておられる方々がおられます。あなたへの信仰と、あなたからの支えと癒しとをお与え下さい。
新谷宣教師御夫妻もブラジルに到着された頃と思います。2年間の働きを支えてお用い下さる様にお願い致します。遠い隣人の為に生きようとする若い先生夫妻の姿を見させて頂きましたが、私共も、アガペーの愛に生きる事が出来ますように、日々、アガペーの愛を求めて祈る者として下さいますように。
今日から始まる1週間の歩みが、あなたと共に歩む歩みとなりますように。
主イエスの御名によって祈ります アーメン
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