「神を造る罪

ロ−マの信徒への手紙1章18−23節
1:18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
1:19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。
1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
1:21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。
1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、
1:23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

マタイによる福音書6章26〜34
6:26 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。  それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
    ↓ 
6:30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、  信仰の薄い者たちよ。
    ↓
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであ ろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  神を造る罪

 ロ−マの信徒への手紙1章18−23節、マタイ6:26−34,03.9/21


 今朝は、先ずロ−マの信徒への手紙1章20節、23節をお読みします。此処から共に神の言に耳を傾けて参りたいと思います。

 使徒パウロはここで、”堕落した人間の罪の姿”を語りました。それは”天地万物の造り主の代わりに、被造物を拝んでいる人の姿”でした。

 20節でパウロは「世界が造られた時から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知る事ができます」と書きました。その時、彼の心には、神の造られた世界の美しさや素晴らしさが胸に迫っていたのです…更に,パウロの胸を突いて出て来た言葉は、お読みしませんでしたが、25節の「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です。アーメン」というものだったのです。

 礼拝堂は、神に礼拝を献る所です。会堂の中の1つ1つの備品は神を礼拝する為に必要な物ばかりです。そして、この中に生花もございます。神学的に、花がある意味を,どう説明したら良いのか分かりませんが、世界中の礼拝堂に花があるのです。

 土居教会では礼拝堂に「ああ、綺麗なお花やねー」と言われながら入って来られる姉妹がおられます。その言葉を聞くと私も豊かな気持ちになるのです。そして,そんな時「ああ、礼拝に添えられる花は、この美しい花を造られた神を思い、世界を造られた神を見上げさせるものなのだなあ」と思わされるのです。

 先週、「礼拝は、先ず感謝をもって、神を褒め称える事から始まる」という事を語らせて頂きましたが、花は私共に、感謝して礼拝を始める思いを与えるのです。

 と同時に神は、そんなパウロに、「神が造った世界が如何に汚され、間違ったものになってしまっているか」と,”創造者なる神への讃美が聞こえなくなった世界を嘆く神の思い”を書き記すように導かれたのでした。

 使徒パウロは、そんな神の思いを2度にわたって記しました。23節、「滅びる事のない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うもの等に似せた像と取り替えたのです」。25節では、「(人は)神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んで、これに仕えたのです。造り主こそ永遠にほめたたえられるべき方です。アーメン」です。

 ここに共通の言葉が出て参ります。それは、「替え」という言葉です。これは「取り替える」や、「ひっくり返す」とも訳される言葉です。23節では「神を…人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えた」25節には、「真理を偽りに替える」となっております。「神である自分の姿を、とんでもないものに変えてしまった」と”神の嘆き”を記したのです。

よく似た親子がいるとします。人は「お父さん、お母さんに、子供さんが似てきましたね」と言いますが、「親が子供さんに似てきましたね」とは言いません。不自然だからです…”神を自分に似せたものと造り変えてしまうという事は、そういう不自然な事”なのです。

 では,人は何故、偶像を造るのでしょうか?…それは、”自分の都合がよい時だけの神が欲しいから”です。”罪を犯している時はいないで、頼み事するだけの神を造りたい”のです。”神を見上げ神に従うのではなく、神を自分の手中に治め、神を利用しようとし、自分に仕えさせようとする”…これが聖書が語る、”罪の本質”なのです。

 ”罪”というのは、”神と人との関係が不自然になった所に生まれて来る”ものなのです。罪という字は、”目と言う字が横倒しになっています、そして,その下に、非ず”と書きます…”目が正しい所に非ず”…「目が正しい神様を見上げていない」…”そんな不自然な生き方が人に罪を犯させて行く”のです。ですから、神が嘆かれた、”偶像の神を造り上げようとする思いこそ、神との不自然な関係を求める、罪の思いの表れであり、罪の本質そのもの”なのです。

 ”神様を信じる”という事は、神と自然な関係に戻る事であり、”人間にとって自然な事”なのです。求道中の方々とお話ししておりますと、しばしば気づく事がございます。それは”信仰に対する根強い誤解”です。

最初に日本に入ってきた対するプロテスタント教会は、”生真面目を特色とするピュ−リタンの流れを汲む団体”でしたので、どうも日本には,”キリスト者に清貧潔白な真面目で頑張る人”というイメ−ジがあるようです。

それは道徳に通じるものがあるような気がします。私共は学校で道徳の教育を受けました。”道徳というのは、理想的な生き方を提示し、「こうでなければいけない」と頑張って善をする事を勧める”のです。

求道中の方々は、道徳と混同して信仰も捉えてしまうようです。信仰に入ったら「頑張って神を信じなければならない。頑張って教会に行かなければならない。頑張って人を愛さなければならない。頑張って聖書を読み、お祈りしなければならない…私には出来ないのではないか?続かないのではないか?」と悩まれるのです。

 確かに、その様な信仰に陥り、またその様な信仰を強いる教会がある事も事実です。”聖化”を掲げる私共日本ホーリネス教団の教会も気をつけなければならない事です。
しかし、その「頑張って〜しなければならない」というのは、”頑張り信仰”と言いまして、”不自然な信仰”です。長続きしませんし身に付かないのです。

 ”神を信じるという事は自然な事”であって、”信じない事の方が不自然な事”だと聖書は言います。また、日曜の朝は礼拝に行く事が自然な事であり、寝坊する事の方が不自然なのです。
人は愛する人が出来ますと、早く起きてでも会いに行きたくなりますし、何時も声を聞きたくなります。

神に対しても同じ事です…聖書を読んだりお祈りする事は、神の言を聴き、神と話す事なのです…”神に愛され神を愛する者は、律法から解放され、愛から生まれる自由によって、自然に礼拝し、聖書から神の言を聴き、お祈りをして神と話す”のです。

 花が自然に咲くのと同じように、”与えられた信仰は、芽を出し、育ち、花を咲かせられるのです…頑張ってではない”のです。しかし、悲しい事は、”この自然な事が不自然な事になっている事”なのです。”人が堕落し、神との関係が不自然になってしまっているから”です。

”ここに神の悲しみがあり、主イエスの十字架が必要さがあらわれている”のです。この事を見る時、”キリスト者であっても、自分の内に自然に神を愛し切れていない部分が残っている事に気づくのです。そして、そこで、自分もまた十字架を必要とし続ける者である事が分かる”のです。
 礼拝堂に生けられている美しい花は、その事を私共に語りかけるのです。「あなた方は、この花の造り主を知っているか?造り主を礼拝する事は、人として自然な事なのだ」と…。

 ここでもう1度、20節をお読みしたいと思います。「神の見えない性質、即ち神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた被造物において知られていて、明らかに認められる」…この「認められる」という言葉は、「感覚的に分かる」という事です。

主イエスも、山上の説教の中で言われました。マタイ6:26節28節「空の鳥を見るがよい」。「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい」と…。「ほらわかるでしょう。空の鳥、野の花を造られた天にいます、あなたがたの父の事が…」と言われたのでした。

 更に、続いて「まず神の国と神の義とを求めなさい」と言われたのです。私共が花を見るというのは、「ここにも神の支配がある」、”そこから現実を見る信仰ヘと呼び帰される為”であります。
 その信仰に呼び帰された時に、私共は,更に続く、「思いわずらうな」と言う主イエスの御声をも聴くのです。

確かに信仰をもっても、人生から苦労がなくなる訳ではありません。悩みがなくなるわけでもありません。しかし「一日の苦労は、その日一日で十分である」という、”苦しみと共に居て下さると言う主の言葉を受け入れる”ようになる。そうなる時、”造られた者として、迎える死さえ迎える事ができるようになる”のです。

 ”神が造られた花を信仰をもって見るという事は、それ程に激しく心を揺さぶるもの”なのです。
  最後に使徒パウロは、ここで深い悲しみを込めて語ります。「造られた者は、罪のゆえに、この神の言を聴く事が出来なくなっている」と…。”神は御自身と人間とを自然な関係に引き戻す為、御子を十字架に架け血潮を流させた”のでした。ですからパウロは、”罪からの救い”とは、”神との不自然な関係から引き上げて、自然な関係に回復される事”と言ったのです。
 
 今朝、礼拝の場に綺麗に生けられている花を通して、”今、自分達が十字架によって、造り主を見上げる者へと回復されている事を、そして、その神に見守られている事が分かる者と回復されている事を、共に喜び神への礼拝を献て参りたい”と思います。

お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる神様。
 今朝、私共は、あなたが造られた美しい花を通し、あなたが私共を造ってくださった事を思わせられました。あなたは、私ども自分自身が思うより遙かに高く、尊いものとして人を造ってくださった事を知りました。

 しかし人間は、神が造られた、この世界を、また、この自然界を、醜いものとし、暴力の世界とし、憎しみの世界としてしまっている現実を、あなたが深く悲しんで、そこから引き上げ回復する為、御子イエスを十字架にお架け下さった事を思い感謝致します。
 私共は十字架を通し、自分が、あなたに造られた者、あなたを礼拝し神の言を聴き、祈る者と回復して頂きました。
 そして、父なる神から「思い煩うな、あなたを造った私は、責任を持ってあなたと共にいる」とかたって頂いている、この喜びに感謝致します。

 もし、キリスト者の中で、この喜びが鈍っている方がおられましたら、この朝、共に十字架を見上げ、罪の赦しの宣言をしっかりと聴き、いよいよ、あなたに近くさせ、あなたに触れる事を求めさせ、喜びに溢れる者として下さいますように…。
 そして、今、御前にいる方々と共に、あなたをほめたたえる事ができるように。求道中の方も、キリスト者の者達も、あなたとの関係を自然な関係へと回復させて下さいますように…。

 また、この「神と共にいる」という何ものにも代え難い慰めを必要としている人々に、この福音を携えて行く者として下さいますように。

 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。 アーメン