「狭い門から入る」
マタイによる福音書7章13〜14節
7:13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
7:14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「狭い門から入る」
松木充牧師 マタイによる福音書7章13〜14節、03.8/3
緒論
この箇所は、山上の説教の結論の導入部。三組の二者択一の教えの第一である。(1)狭い門、広い門(13〜14節)、(2)にせ預言者[と其の預言者](15〜23節)、(3)岩の土台、砂の土台(24〜27節)。イエスは、山上の説教の結論において、二つの道からの選択・決断を迫られるのである。
この教えは、13節と14節が対句。記憶。暗唱のためで、ヘブライ的文学手法であり、このような短い教えを記憶するまで反復させるのは、当時の典型的な教授法。
門。道と言われるのは、道が門に続いてていくから、道と門がセットになっているのであろう。私達は、エルサレムのような、城壁に囲まれた町の門を想像しなけれぱならない。いずれにせよ、最大のポイントは、「はいる」こと。「はいれ」は命令法不定過去=出たり入ったりすることではない。決断して「はいれ」ということ。
なぜ狭い門からはいらなけれぱならないのか。それは、(1)その狭い門こそが命に至るから。
(2)それを見いだす者が少ないから。逆に、滅びに至る門は大きく、その道は広いのて、多くの人がそこへとはいって行ってしまう。
I.命に至る狭い門
救いの道がそうそうあるものではない。永遠の命に導く道は、狭い。
それでは、「狭い門」とは何であろう。それは、まずイエス・キリストのことである。「滅びにいたる門」(13節)、「命にいたる門」(14節R)
)は、直訳すれぱ「減びへと導き入れる門」、「命へと導き入れる門」。能動的な動詞を含み、滅びに導く悪魔的な働きと、命に導くイエスの働きを暗示する。イエスは、「私こそが道であり、真理であり、命である。私を通ってでなけれぱ、誰ひとりとして父(神)のみもとに行くことはできない」(ョハネ14:6、私訳)と言われる。このお方だけが、永遠の命に導く道、命に導く門である。
第二に、行ないによらず、ただイエスを信じるだけ、という救いの方法の狭さ。15〜23節の、にせ預言者への警戒の教えで、にせ預言者達がイエスに宣告される審判、「あなたがたを全く知らない」(23節)は、直訳「私はいまだかって、ー度もあなたがたを知ったことがない」。被らは、イエスとの人格関係=信仰の関係を一度も持ったことがなかった。しかも彼等は、預言。悪霊追い出し・奇蹟を、救われる根拠と考えている(22節)。つまり、行ないによって義とされようとしていた。救いの道はただ一つ、イエス・キリストを心から救い主と信じ、主と告白することだけである。
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第三に、それは「聖書のみ」という狭さでもある。山上の説教の本論は、「律法と預言者」で囲い込まれた部分(5:17〜7:12)。「律法と預言者」とは旧約聖書=イエス時代には聖書そのもの。つまり、今日的には、旧新約聖書に表わされた神のみこころである。さらには、山上の説教の結論の結論、岩の土台と砂の土台のたとえ(7:24〜27)でも、イエスの御言葉が岩の土台にたとえられる。
主は、「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうが、もっとやさしい」と言われた(マタイ19:24)。ひとつには、金持ちはどうしても自分の金や富に頼ってしまい、本当の意味で神に信頼することが出来ないからであろう。あるいは、キリストを信じる者であっても、自分の行ないに確信の根拠を置いてしまうことはある。神のみに信頼することは、単純過ぎるだけにやさしいことではないのである。
しかし、主イエスは、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできないことはない」(19:26)と言って下さる。神以外のものにすぐに信頼してしまう罪深い人間も、神の恵みにより、この狭い門から入ることが出来るのである。
U.見いだす者が少ない狭い門
「狭い門からはいれ」という主イエスの教えは、それを見いだす者が少ないからこそ、
警告として語られるのである。反対に、滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、多くの人々がそこからはいって行く。
言うまでもなかろうが、救われる人が少ないという一般論や教理をここから導き出してはならない。この御言葉から教えられ、ー人でも多くの人が狭い門から入るように願っての「警告的意味」を正しく読み取りたい。だから、それを見いだすよう捜し求めよう(7〜8節)。伝道する立場からも、狭い門、キリストに導く努力を投げ出してはならない。
「滅ぴに至る門」とは、それでは何か。キリスト以外の者が提供する「救いの道」と称するものすべてであるのは当然。しかし、この直接のコンテクストでは、すぐ続いて述べられる「にせ預言者たち」(15‐23節)が関わってくる。もう一度詳しく見てみよう。
(1)にせ預言者運ば、主イエスの名によって預言をし、悪霊を追い出し、カあるわざを行う(22節)。しかし、終わりの日のさぱきに、彼等は追い出される(23節)。
(2)にせ預言者たちの働きと主イエスの弟子達の働きとの区別は、一見困難。しかし、彼らの一見主のわざに見える行いは、主との個人的な関係において行われたのではなかった(23節)。「わたしはあなたがたを全く知らない」は、「私は、いまだかつてー度も、あなたがたを知ったことがない」。
(3)彼らは、預言。悪霊追い出し、奇跡を行なってはいても、神のみこころは行なってはいなかった(21節)。主の御名を用いて、彼らは自分自身の利益をはかっていた(15節)。
(4)彼らは、自分達の行なっている奇跡的なわざが救いを保証すると考えた(22節)。救われる資格がない罪人であると自覚し、ただ恵みにすがるような信仰は彼らにはない。
行ないによる救いは確かにわかりやすい。あるいは、異言を語れること、お金が儲かること、病気が治ること、奇蹟が行なえること、感情的に喜べること等の「しるし」に頼って救いを確信することも、見えない神に信頼することよりはるかに簡単である。しかし、「広い門」は救いの門ではない。
結 論
現代においても、預言、悪霊追い出し、奇跡等が行われ、多くの人々の関心を集め、また、それだけに混乱をも生じている。中には明らかに聖書的に間違った教えも含まれているし、嘘や誇張の証詞。報告もあり、個人が崇拝されたり金儲けしてしまっているケースもある。多くの人々が集まっているからそれが真理とは限らない。滅びにいたる門は広く、そこからはいる人は多い、と主イエス御自身が警告されるのだから。
他人はどうあれ、私達は、聖書が正しく伝える、唯一の道である救い主イエス・キリストを信じ、この狭い門からはいり、この狭い道を、右にも左にもそれずに歩んでいきたく思う。そして、また、そこへこそ、私達の愛する人々を導き入れたいと願う。
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