「誇るべき福音

ロ−マの信徒への手紙1:16
わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

Tコリント1章18節

十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる私達には神の力である

ロ−マの信徒への手紙8:14〜17
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私達は、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、私達が神の子供である事を、私達の霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  誇るべき福音

            ロ−マの信徒への手紙1:16.03.8/24


 このローマ1章16節は、ロ−マの信徒への手紙の要約と言われる有名な箇所です。この所から2週に渡って、共に神の言に耳を傾けて参りたいと願っております。

 パウロは16節の始めに「私は福音を恥としない」と言いました。この言葉は、パウロの心の中の1つの決断から生まれた言葉でありました。

  四国という土地柄のせいでしょうか?…こちらに参りましてから、「教会に出入りする所を見られると世間体が悪くて」という言葉をお聞きした事が何度かありました。Tコリント1章18節に「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる私達には神の力である」とありますように、”福音を信ずる事は、当時の人々からも愚かと思われていた”のでした。

 ”当時の世界を象徴し、また代表する人々は、ユダヤ人とギリシャ人”でありました。”ユダヤ人は、宗教を代表する民族”でした。しかも、そのユダヤ人が信仰していた”旧約聖書には、救い主の贖いが預言されていた”のです…そして、その預言が、”イエス・キリストの十字架と復活という形で成就した”時、その”福音に神の最大の力を見抜く事が出来なかった”のでした。

何故なら、ユダヤ人にとって、”神は、奇跡などの力をもって助けて下さる御方だった”からです。これは、日本人にも通じる感覚かと思います。優れていた宗教観を持ったユダヤ人を持ってしても、”一見、無力に見える十字架に、神の力を見出す事が出来ず、福音は躓きとなった”のです。

 もう一方の、”文明の世界の象徴だったギリシャ人”は、ギリシャ哲学に象徴されます様に、”知識を重んじた民族でありました”ので、当然の結果として、”「十字架と復活こそ人を救う」とする福音を愚かな事と断定した”のでした。

この様に、”福音は、宗教の世界からも、文明の世界からも受け入れられなかった”のでした…この事は今日の社会に於いても言える事であります。ですから世の中で、”キリスト者である事を明らかにするには恥ずかしさや、ためらいが生まれる”のです。

 私は牧師ですから、何処に行ってもキリスト者である事を明らかに致します。キリスト者である事は、早く明らかにした方が後々楽な事が多いのですが、それでも、その度毎に、ためらいと闘わなければなりません。昔、交通違反をして、警察官に職業を聞かれた時に、顔から火が出る思いをした事は忘れる事が出来ません。

 使徒パウロも自分が完璧な人間でない事を知っていました。ですからパウロは「私は、罪人の頭である」と言ったのです…”罪人であると認める事は恥ずかしい事です。しかし、救いに預かるという事は、十字架の前に、自分が罪人である事を認める事から始まる”のです。

 ともすれば信仰に生きる者は肩身が狭くなります…世間の目をはばかり、神の御前に自分の罪深さが見えて来るからです。どちらを向いても顔を上げる事の出来ない思いさえ致します。けれども、”その顔を上げさせる力こそ、福音の神の力”なのです。

”私共は弱いままで良いのです。福音は、うつむくしかできない状態のままで、私共の顔を上げさせる神の力”なのです。この”神の力”を知らないと肩身が狭くなるのです…だからこそパウロは「私は福音を恥としない」と言った後で「福音は、全て信じる者に救いを与える神の力である」と言ったのでした。

 しかし、使徒パウロ自身、”この福音を喜んで人に伝えようとする時の反対や抵抗は骨身に染みていた”のでした。けれども、ユダヤ人がどう言おうがギリシャ人がどう言おうが、”これを伝えざるをおれなくなる福音という神の力をパウロは経験してしまった”のでした。

 ここで、もう1箇所、ロ−マの信徒への手紙8:14〜17を開きます。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私達は、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、私達が神の子供である事を、私達の霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」

パウロが「この霊によって私達は、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と言ったのは、「私は聖霊によって、神を『お父ちゃん』と呼んだキリストと同じ神の子とされた」と言う事でした…”聖霊は神の御前と人の前でうつむくしかできない者である私共を「アッバ、父よ(お父ちゃん)」と呼ぶ神の相続人(神の子)として下さる”のです。

 私共の中には、あらゆる現実に押し潰されそうになり喘ぎながら、やっとの思いで日々の生活を乗り越えておられる方がおられます。時には、重荷を抱え、礼拝の場に重い躰を引きずるようにして来られる方もあるかも知れません。

そんな時には、”人の力では、その現実の厳しさしか見つめる事が出来ません…しかし聖霊なる神は、そうした苦しい現実の中でも、「しかし主よ。あなたは私の父」と呼べるようにして下さる”のです。”絶望の中に立つような時にさえも、「しかし、それでもあなたは、我々の父であり続けて下さるのですね」と顔を上げて、神に語る者として下さる”のです…此処に神の力が働いているのです。そして、そこに語り尽くせない証が生まれてくるのです。

”教会は、その神の力を語り続けるのです”…その誇るべき神の力は、たとえ私共が、死を前にしましても、その中に神の力が入り込み永遠の命へと導く力だからです。神の力の中に置かれる時、死が私共を導くのでなくなるからです…ですから、”この福音という神の力に預かった者達は、使徒パウロの様に、この神の力を知らずに滅びに向かう多くの人々を前にして沈黙し続ける事が出来なくなる”のです。

 では、どの様にキリスト者は福音を手渡すのでしょうか?…まじめなクリスチャンになる事によってでしょうか?…いいえ、まじめなクリスチャンになる事は良い事ですが、その事によってでは福音は伝えられないのです。

ではキリスト教をよく学ぶ事によってでしょうか?…いえ、学ぶ事は信仰にとって大切な事ですが、知識によってでも、福音は伝える事が出来ないのです。福音を伝える事のできる人は、まじめな人であるとか、良く聖書が分かる人ではありません…”福音のカを体験した人”なのです。

 パウロがまさにそうでした。「人がどう言おうが、私はこの福音によって救われた。私は罪の中に死んでいた者だった。神からの家出人だった。そして何をやっても虚しさに閉じ込められていた。でも、イエス・キリストの十字架が私の罪の為であり、私の死を滅ぼしてくださったのが復活だと信じた時、私は救われた」…”この経験をした人は福音を伝える事が恥ずかしい事ではなくなる”のです。いえ、”恥ずかしさを越えて福音を伝えずにおれない者とされて行く”のです。

 有名な聖書翻訳者は、この「私は福音を恥とはしない」と言う言葉を、積極的に、「私は福音を誇りとする」と訳しました…パウロの本心を汲んでの訳だろうと思います。

 困難な問題の中にある人を見る時、世の何を持ってしても救いを与える時が出来ないのではと思う事がございます…しかし、”その様な中にある人に対しても、罪を赦す福音は、その人と神との交わりを回復し、神の子にして、永遠の命にまで召してしまうのです。深い神の慰めと支えとが、その人を包む…これが福音の力であるとパウロは言った”のでした。

 パウロは、”キリスト者の誇りは、世の諸々の宗教のように「神を信じたら御利益があった」という事ではない…自分が救われたイエス・キリストの十字架と復活の福音を伝えて行く時に、人々が救われて行く、その福音の担い手となる事こそ誇りだ」と言ったのです。

 ”パウロは、この福音の力の体験ゆえに、「私は福音を誇りとする」という事を心に決めた”のでした。
「主イエスを知らなかったら私の人生はどうだったのだろうか?私の死はどうなったのだろうか?」と考える時、「私はこの福音によって救われた。この福音の神の力によって、罪赦され、神の子とされ、あなたの交わりによって救われ続けてきた」と福音の力を知るのです。

そして、「私を救ったこの福音に対して、何時も目覚めた心を与えて下さい。そして、何時でも誇り伝える事が出来る者として下さい」という祈りが沸き上がって来るのです。そして、その事こそが、”私共教会が、真のキリストの躰として歩んで行く土台となる”のです。