「神との交わりの回復

ロ−マの信徒への手紙1:17
福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

ロ−マの信徒への手紙3:23〜24
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  神との交わりの回復

            ロ−マの信徒への手紙1:17,3:23〜24.03.8/17


  今朝は、共にロ−マの信徒への手紙1:17の神の言に耳を傾け、”福音による神との交わりの回復”について共に学んで参ります。順序が逆になりますが16節は,次週に話させて頂きます。

 17節に、「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」とございます。この「神の義」という言葉は、この句に於いては「神による救い」と言い換える事も出来るものです。厳密には「神の義」という言葉には2つの意味がございます。

 第一は、「神というお方は、正しいお方である」という「神の本質」を表す意味に使われます。
 第二には、「神と神の民との健全な(正しい)関係」という関係を表す言葉として用いられます…この17節の「神の義は、その福音の中に啓示され」と言うのは、”神は人間との関係を健全な(正しい)ものに回復する為に福音を与えられた”という事です。

  ”元来、人は神との対話者として創造された”と聖書は語ります。ですから、”全ての生物の中で、人間だけが神を信じ礼拝する”のです。事実,地球上の全ての民族が何かしらの神を信じているのです。”人間は神との愛の交わりなくして心の満たしを受ける事は出来ないから”です。しかし、”人間は罪を犯して堕落し、神との関係を断絶”してしまいました…この事が、実は、”世界の全ての悲劇の根源”なのです。

 ”旧約聖書において、神は、神の義の回復(神との関係の回復)の為に、あのシナイ山においてモーセに律法を与えられました。律法を守って罪から離れ、清い心で神との交わり場を回復する為”でした。

所が、”旧約聖書の歴史は、人は律法を守り切る事が出来ないと証明する歴史”となってしまったのです。そこで”神はメッセ−ジを預言者に託された”のでした…その神が託されたメッセ−ジは、「律法では、人は義となる(神との関係を回復する)事は無理であった…だから、神は、やがて地上にメシヤ(救い主)を送る。そして、その救い主は、十字架で人の罪を贖い、罪贖われて誕生する新しい神の民との間に、神と人との関係を回復する」というものでありました。

 そうした中で、イスラエルにおいて、「神の義=救い」は、”罪の赦し+罪赦された者が回復する神との交わり”をも意味するようになり、二千年前、救い主の十字架で成就したのです。

 先日、T姉が、今、老人福祉施設である”ちかい”に入所されておられるW姉を御訪問下さいまして、昔、W姉がナルドの壺という本に書かれた、W姉の証の生涯を、W姉にお話下さいました…と申しますのは、W姉は96才で、ここ暫く足の痛みや皮膚の痒さの為に眠れない年月を過ごされ、御自身の証の生涯の事さえも、忘れかけておられたからです。

しかし、T姉のお話を通して、一晩かけて主イエスと共に歩まれた、ご自分の生涯を思い出され、翌日、私が訪問した時には、大きな喜びに満ちておられました。W姉は産婆さんとして、土居町の1万人以上の赤ちゃんを取りあげられた事は有名ですが、その生涯は波瀾に満ちたものでした。と同時に、主イエスと共に歩まれた証に満ちたものでもありました。

  W姉は、大阪の淀川で、有名な賀川豊彦牧師から洗礼を受けられ、その後、身体が弱いキリスト者の男性と結婚されました。その後、中国に渡られて2人のお子さんを授かりましたが、2人のお子さんと御主人を相次いで亡くされて、産婆さんに戻られ暫くして再婚されました。

戦争中、御主人と御主人が連れてこられた2人のお子さんの面倒を見ておられましたが、ソ連に抑留されて御主人は連れ去られ、厳しい抑留生活の中、栄養失調で、その2人のお子さんの命が尽きてしまい、1人で凍った土を掘られ、子供さんにオ−バ−をかけて土に埋められたそうです。

 その後、戻って来られた御主人との間に、今のお子さん2人を授かりました。その後夢に見た日本の土を踏み、お母さんに溢れる心を何から話そうかと思い巡らしながら、土居町に帰って来られた時、お母さんが召された事を知って希望が失われ、失意の中で教会生活の復活された事。
 
 また土居町の方々の見送りの中、腫瘍の手術に行かれ、奇跡的に癒されて戻られた事など凄まじい試練の連続でした。しかし、何時も御言葉を求め、主の御言葉に支えられ続けた事が証には切々と綴られておりました。正に、「主イエスの御言葉を待ち望み続けた御生涯」でした。

 そして、96才になられたこの時、再び主イエスと共にあった日々の喜びを思い出され、喜びながら「これからO姉と毎日、お祈りします」と言われ、先日は、輝いた目でご自分で車椅子からベッドに移ろうとされたのでびっくりしました…正に、「救いというのは、罪赦されて、主イエスと交わりつつ生き続ける事だなあ」と思わされました。

 では、どうしたら人は、そのような神からの救いを受け取る事が出来るのでしょうか?…滝に打たれて悟るぐらいでは間に合わないのです。聖書は、「人は皆罪人であり、罪人は神の国を継ぐ事は出来ない」と語っています。”誰1人として救いに預かる資格などない”のです。

 ロ−マ3:23−24に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」…”十字架の救いという無条件な神のプレゼントを受け取る以外に、人の救いはない”と聖書は語るのです。

 その事を、アダムとイヴの物語から見て参ります。アダムとイヴは、”神との対話者として特別に創られた存在(人間)”でした。しかし、アダムとイヴは罪を犯してしまい、”神の御前に出る事も、神との対話者になる事も出来なくなってしまった”のでした。”罪を犯した時、アダムとイヴは自分達が裸である事に気づいて恥ずかしくなった”のです。

この事は,”人は汚れた時、聖なる神の御前に出る事が出来なくなる事を象徴している”のです…そこで神は、アダムとイヴに、”罪を象徴する裸を覆い隠す為に毛皮”を与えられました。アダムとイヴは、”神に罪を覆われた”のです。

 神が”毛皮を受け取る条件”を付けられたなら、2人は受け取る事が出来なかったのです。ですから”神は無条件で毛皮を差し出され、2人は素直に「いただきます」と貰い受けた”のでした…しかし、”この背後で2匹の羊の血が流されている”事を忘れてはいけません。

この事は、”イエス・キリストの、十字架の救いを受け取る事”と重なるのです。”キリストの十字架を信じる”という事は、”イエス・キリストの命という毛皮を着せて頂き、罪が覆われ赦される”事だからです。

 続いて聖書は、「正しい者は信仰によって生きる」と語ります。

この「正しい者」というのは、悪い事をしない人の事ではありません。

”欠けも、弱さも、失敗もある罪人であるにも拘わらず、イエス・キリストを信じて救われ続ける罪人”の事です。また”信仰”というのは、何があっても動じない強い信仰の事ではありません。

”弱いままで良いのです。神の言の御前に、心砕れ恥を捨てて、「私は罪人です」と告白し続けて行く信仰の事”であり、その信仰によって救われ続けて行くのです…何故なら、”高ぶった人の心に、信仰は与えられず、また、神もお住みなる事が出来ないから”です…”この1点においては、信仰の生活の長さや、牧師も信徒も関係ない”のです。

 聖書は、”主イエスを信じて救われた人は、その後も、日毎に主を信じ続ける信仰によって、人は救われ続けていく”と言うのです。”救い”は、”過去形ではなく、現在進行形”なのです。

 勿論、キリスト者でなくとも生きています。しかし、”聖書の言う「生きる」と言うのは少し違う”のです…あの有名な”放蕩息子の譬え”を見てみます。

 放蕩三昧したあげく落ちぶれた息子が、「そうだ、私には、まだ1つだけ生きる道が残っていた…父の下に帰ろう」と帰ってきた息子を、父が「死んでいた筈の息子が帰ってきた」と”無条件で喜び迎えたお話”です。”聖書は、父なる神に立ち返った人を喜ぶ、父なる神の喜びの下で生き続ける事を「生きる」と言う”のです。

”自分をありのままで受け入れ喜んで下さる神の喜びの下で生きて、人は初めて人間らしく、また自分らしく生き続ける事が出来る”からです。

 青年キャンプの為にお祈りありがとうございました。豪雨と寒さの中、ハプニング続出の思い出深いキャンプとなりました…キャンプでの1人の青年の証を御紹介致します。

 その青年は、ある出来事によって心傷ついて、人に対して心を閉ざし、神をも見失う辛い年月を過ごしておりました。その事をお聞きし、カウセリングの最後に「今。神様をどう思う?」とお聞きしました。

その時,その青年は「イエス様が、私について来なさい。と言われている気がする」と答えられましたので、「イエス様は、どの辺でそう言われているの?」と問い返しましたら「少し離れた所」と言われたのです。そこで、私は主イエスが、姦淫の女の足下にしゃがみ込んで何かを書き続けたお話を致しました。

「イエス様は、離れた所じゃなく、歩み出せずにいた、あなたの足下に今おられたんだよ。しかも、あなたを見下ろしてじゃなく、あなたの足下にしゃがんで「今まで辛い思いをしていたあなたと共に苦しんでいたんだよ。私は、あなたと共にいるよ」と字を書いて下さっている…このイエス様にどう答えようか?

青年は頷いて「はい。と受け入れます」と答えられました…その時、その青年の目に涙が溢れ、人生の転機を通られたのです。

主イエスを目を見つめる事が出来ない時、主イエスはそんな私共の下にしゃがんで、「今の、あなたをありのまま愛している」と字を書いて迄受けとめ救って下さるのです。

”人が、「主の十字架と復活が、私の罪の赦しの為、神との交わりの回復の為」と信ずる時、神は無条件に、その人の罪を赦し、神との交わりの回復を与え、心に聖霊が住み、人は心満たされされる”のです…そして私共は、この”十字架の救いに立ち返った者を喜ぶ、神の喜びの下で、人間らしい、自分らしい人生を回復して行く”のです。