「パウロの自己紹介

ロ−マの信徒への手紙1:1

1:1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから…。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  パウロの自己紹介」

                      ロ−マ1:1,03.7/6
 この朝から、共にロ−マ人への手紙を学んで参ります。この「ローマ人への手紙」は、パウロがローマの教会に向かって書き送った手紙で、”聖書の冠”とも言われる、福音を整理して伝える大切な手紙であります。

 当時のロ−マは,「全ての道はローマに通じる」と言われた”世界の中心地”でありました。ギリシャのアレキサンダー大王が世界征服をもくろんだ結果、ギリシャ語が世界の通用語となっていたのです。更に、道もローマに向かって造られ、福音はロ−マを起点として伝わって行ったのです。ここに、”歴史を支配される神の御手を見る思い”が致します。

しかし,パウロが手紙を送ったこのローマには教会堂はまだ無かったのです。パウロの伝道によって、エペソや、ピリピの街などで救われた者達が、転勤先の”ローマの地で家庭集会をしていた”のでした…その”ロ−マの家庭集会に向けて書き送られた手紙が、このロ−マ人への手紙”なのです。

 また,この”ロ−マ人ヘの手紙は、何度か世界の歴史を作り変えた書”でもありました。中世時代は、暗黒時代とも呼ばれます…カトリック教会の信仰が脱線したのが原因でした。”聖書を聖職者だけのもの”としたり、”免罪符を買う事によって罪が赦されるといって発行”したり、他にも”宗教裁判”など数々のキリスト教会史の汚点が並びます。しかし、”神の言である聖書には自浄作用があった”のです。

 あの有名なマルチンルターが、この”ローマ人への手紙を、新しい気持ちで読み直した事”によって、「信仰によってのみ救われる」という、”信仰の基本中の基本を大真理として発見した”のでした…”そこから宗教改革が起こった”のです。

 時代は降りまして”英国の教会が腐敗堕落した時”にも、神は”私共の教団のル−ツともいえる,ジョン・ウエスレーを起こされ”ました。彼は、アルダースゲート街の教会で読まれていたローマ人ヘの手紙を聴きながら、”心暖る経験をした”のです。”聖め”の経験でした…この体験が、やがて、”英国の教会や社会を浄化し滅亡の淵から救い出した”のでした。

 第二次世界大戦に於きましても、世界の神学界をリ−ドして来たドイツの教会が、”ナチスの圧迫を受けた時、2つに分裂し、一方がヒトラーの傘下に降ってしまった”のでした。その事を通して、”ドイツの教会は、自分達が如何に信仰の命を失った、頭でっかちなものであったかを悟った”のです…そんな中、有名な”カール・バルトが、ローマ人への手紙を読み、神の前に悔い改めた事によって、新しい宗教改革といわれる運動が起きた”のでした。この”ローマ人ヘの手紙の重要さを、こうした歴史からも教えられる”のです。

 パウロは、このロ−マ人への手紙の書き出しに於いて、”先ず、[自己紹介]を致しました。その、パウロの自己紹介は、[キリスト者の本質を言い表すもの]だった”のです。

ここでパウロは、自分の事を3点にわたって自己紹介致しました。「キリスト・イエスの僕」、「神の福音の為に選び出された」、「召されて使徒となったバウロ」、というものでした。

 今朝は、このパウロの自己紹介から共に聴いて参りたいと思います。”パウロは自分の事を、先ず最初に、「キリスト・イエスの僕」と言いました”…この”「僕」という言葉は、原文のギリシャ語では、奴隷という言葉”が使われています。

しかし、パウロは誇らしげに、「私はキリストの奴隷である」と言ったのでした。”パウロという人は、最高のエリ−ト”でした。しかし、”主イエスに出会い、主イエスを信じ、主イエスの愛に圧倒された時、パウロは「この方の奴隷となる」と公然と誓ったのです。

 パウロが、”キリストの愛に心をつかまれた時、それまでの人生が、「世間体をつくろう為の奴隷でありました。また、望まない罪を行ってしまう罪の奴隷であった」と気づいた”からでした。
 では、パウロがどの様にキリストの愛に心つかまれたのかと申しますと、先ず、”キリストが、最初にパウロの為に奴隷となって示して下さった愛によって”でありました。

ピリピ2:6〜8でパウロは、次のように言いました。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくある事を固守すべき事とは思わず…己を虚うして僕のかたちをとり、人間の姿になられた…己を低くして、死に至る迄、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」…パウロは、”主イエスの御降誕と、生涯と、十字架が、どんなに人に仕えるものであったか、また、パウロ自身に仕えるものであったかを心の底から知った”のでした。

それゆえピリピ3:8では「私の主キリスト・イエスを知る絶大な価値のゆえに、一切のものを損と思っている。キリストのゆえに、私は全てを失ったが、それらのものをふん土のように思う」と言ったのです。パウロは、鎖に繋がれた奴隷ではなく、”自由の中、自分の意志で、キリストの僕となった”のでした。

 この様に「神のへりくだりは、感謝もしなかった人々の為、十字架で命を捨てる迄、仕え抜いて下さるもの」であったのです。私共の教会でも、陰で御奉仕下さる兄弟姉妹がおられます。

私は、そうした”僕として生きる姿こそが、キリスト者として成熟した姿”ではないかと思い、私自身も、教会の信仰の先輩達の姿に学ばせて頂いております…”先ず、キリストが私共の為に仕えて下さったから…私共も、喜んで仕える者に成熟する事が出来る様になる”のです。

 第二は、聖書では最後になっておりますが、「使徒として召された」という事です。それは、「身分が与えられた」という事でした。”「へりくだって僕となった」(降った)”と同時に、”「使徒として引き上げられた」(上げられた)”のです。

”使徒”と言う言葉には、”「福音を告げる者」という意味”があります。そして、この後、”ギリシャ語では「指揮官」という意味も持つ様になって行き”ました。何故なら、”神の御心を語りおこなう使命を果たす内に、キリスト者達を「指揮官」のように導く者となっていったから”でした。

 この「使徒」と呼ばれたのは、”主イエスの12人の愛弟子だけ”でした…彼等は”主イエスが徹夜の祈りをされて召し出され、主イエスに、御自身の正体を教えられ、御自身の使命を託された…特別な存在だった”からでした。またこの”使徒の数は、神の民を現す12”からとった12人だったのです。

 しかし、”イスカリオテのユダ主イエスを裏切り自殺した為に、使徒の数は11人となってしまったのです。そこで、使徒達はクジで1人を補充し、12人としましたが、パウロは、その事を認めず「神に使徒として召される経験をした自分こそが、新しい使徒であると主張した」”のです。

確かに、”パウロには神に託された使命”がありました。
 その使命とは、”ユダヤの文化と全く違う物の見方考え方をするギリシャ文化の人々に、福音を理解させき、信じる事の出来るように、福音を整理し直し、伝える器として用いられた”のでした。

ロ−マの市民権を持ち、ロ−マに精通していたパウロならではの働きでした。それは、”△の中に□を入れるような福音の整理だった”のです。それゆえ、”日本人も文化が違うにも拘わらず福音が理解出来るようになった”のです。

パウロは、この様な、”特別な福音の担い手として、神に立てられた”のでした…この”福音の担い手”という点では、”使徒パウロも、今のキリスト者も同じ”なのです。何故なら、”神に召された者は皆、福音の為に立てられた者だから”です。

”私共が、今、教会で求道している、またキリスト者として礼拝しているのは、決して偶然ではない”のです…”福音を宣伝えられる為、神のご計画の下、キリストに祈り立てられている”からです。

 そして、この”キリストの福音の為に召された恵みは、次のパウロの第三番目の自己紹介へとつながる”のです…それは、「神に選び出された者」という事であります。

 「福音」には「良い知らせ」という意味があります。病の中にある人に「これを飲めば必ず治る薬が開発された」と言うニュ−スが飛び込んできたらそれは福音と言えるでしょう…であるなら、”人間の罪を赦し、神と人が交わりながら生きる世界を開き、天国を約束する、イエス・キリストがおられる”…この、”「良い知らせ」を福音と言わず、何を福音というのでしょうか?”

 この様な”福音”は、世界中探しても、他の何処にもない”のです…”キリスト者は皆、この尊い福音を伝える器として、神に選ばれた者達”なのです。

日本では、この福音に預かっている人は極く僅かしかおりません。韓国では人口の40%もキリスト者なのです。しかし、最も伝道困難と言われる日本では、たった1%、毎週、礼拝に出席している人に至っては、0,2%だとも言われます。”殆どの人が濁流のように滅びへと向かっているのが日本”なのです。

”神は、この滅びになだれ込む日本への為に、私共を福音を担う器と見抜き選んで下さった”のです。「え−自分が?」と思われる方が おられるかも知れませんが、「神の選びは人の能力や力を見てではない」のです…「人がイエス様を、自分の主と信じ、主に従おうとする者ならば、神は、その人の弱さを通しても神の栄光を現される」からです。

”神の栄光を現す神の御計画が、必ず私共1人〜の上にある”のです。パウロが自己紹介を、「福音に仕える僕」、「使徒として召された者」、「福音の為に選ばれた者」と言ったように、「私共をも、この福音を担う器として下さい」と共に祈り求めたいと思います。