「挨拶に込められた福音」

ロ−マの信徒への手紙
1章7〜15節
1:7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:8 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
1:9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、
1:10 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。
1:11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。
1:12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。
1:13 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。
1:14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。
1:15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  挨拶に込められた福音

            ロ−マの信徒への手紙1章7〜15節、03.7/27

今朝、私共が共に聴きます神の言は、ロ−マの信徒への手紙1章7〜15節です。この箇所は、”使徒パウロが、まだ見ていないローマに行く事を熱望している”所です。

 この所を読み進んで参りますと、「キリストの福音を宣教する為に世界の中心地、ロ−マに行きたい」という使徒パウロの情熱が痛い程響いて参ります…そして、その使徒パウロの情熱に充ちたビジョンに応えられた神が、幾つもの困難を乗り越えさせて使徒パウロをロ−マへと連れて行くのです。

 この箇所から2回にわたって語って参りたいと願っておりますが、1回目である今朝は、使徒パウロのロ−マの教会への挨拶の言葉から、”挨拶に込められた福音”について学んで参ります。

「青年よ、大志を抱け」で有名な、クラ−ク博士は、キリスト教精神によって、札幌農学校(北海道大学の前身)を設立した人です。この言葉には続きがございまして、「青年よ、大志を抱け、キリストの為に」なのだそうです…先日TVで、「この言葉が本当にクラ−ク博士のものだったかどうかは疑わしい」と言っておりまして、少々ショックでしたが、クラ−ク博士を通してキリスト者となった弟子が語った言葉であったとしても、素晴らしい言葉である事は確かです。

 使徒パウロにも大きな”大志(ビジョン)”がありました…それは”全世界に福音を満たす”という大きな志でした。

この時パウロは、既にギリシャに福音を伝え終えて、更なるビジョンに燃えていたのでした。それは、”当時、世界の中心地であった遙か遠くのロ−マに福音を伝えて、福音の種を世界に蒔き、更に、地の果てと信じられていた、スペインまで福音を伝えようと言う世界的視野の大志”でありました。

 何故、使徒パウロは、そんな壮大な大志を抱いたのでしょうか?…それは、かつて自分が救いを体験した、”十字架と復活による福音”を伝えた時、”人々が続々と救われ、新しい人生に入って行く福音の力を見たから”でした…その中でパウロは、”人間が心の底から求めている救いが、また、心の渇きを満たすものは、ここにしかないとの確信に至っていたから”です。

 このように、”宣教の情熱の根源は、福音の力の体験”なのです…私共も、この”福音の力”を体験しますとじっとしておれなくなるのです。

先週、6日間にわたりブラジルへ宣教師として立たれた新谷牧師夫妻とお交わりをさせて頂き、心洗れ、教えられ、燃やされる体験をさせて頂きました。「キリスト教は交わりの宗教である…キリスト者はキリスト者との交わりに生きる、そこで主イエスのお語りになるお言葉に出会う」というのは本当だなあと、改めて教えられました。

 新谷聖美先生がお話下さいましたが、ブラジルへ渡った日系人は、第二次大戦後、日本の敗戦を認める人と認めない人々との間に摩擦が起き、殺人事件にまで至ったのだそうです。

そうした日系人達の心の救いと癒しの為、若い先生方が、私共の代表として、”体験された福音をもってブラジルに行かれる”のです…共に先生方を祈り支えて参りたいと思います。
 
 ”使徒パウロは、この挨拶に福音を込め”て語りました…7節に「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人達一同へ…」とございます。ここにある「聖なる者」というのは、”キリスト者”の事です。

「え−、私が聖なる者?」と思われる方もおられるかも知れませんが、”キリスト者が、神に聖なる者と見なされる”のは、”私共の中(行い)に根拠があるのではないから”です…”一方的で、無代価な、アガペーの愛で、神が私共を愛し召して下さった所に根拠があるから”です。

そして、”キリスト者となる為の唯一の資格も、この十字架の愛を、私への一方的、無代価な神の愛と信じ受けとめる事”にあるのです。

 そして、その様な人々が遠くロ−マの地にもいるという事が、使徒パウロの本当の喜びでありました…8〜9節は、その事に対するパウロの感謝の言葉です「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなた方一同について私の神に感謝します。あなた方の信仰が全世界に言い伝えられているからです」…このパウロの喜びは、”福音が持つ力への感謝”でもありました。

 聖霊によって教会が誕生して20〜30年しか経っていないにも拘わらず、”教会に託された福音”は、既に”ギリシャに及び、更に、工ルサレムから遙か遠くにあったロ−マの地に迄、ギリシャからロ−マへ転居した人々によって伝えられていたから”でした。

 今日でも、「ローマ教会の起源」については良く分かっておりませんが、聖書学者は、次のような推察をしております。”使徒言行録2章に、ぺンテコステの時に聖霊が降って教会が生まれた時の様子”が記されております。

その時そこには、”全世界から人々が集まっており”ました。そして”聖霊が降った時、人々がいろいろな国の言葉で話し出した”事が書いてあります。”全世界から来た人々は、自分の国の言葉で語られる福音を聴いて驚いた”のでした。

”使徒言行録2章10節の所には、その中に、ローマから来ていた人達もいた”と記されております。”聖書研究家達は、その時の旅人達が、ローマに帰って、後に教会の礎石になったであろう”と理解します。

 しかし、”それだけではなかったであろう”とも思います…何故なら、”使徒パウロがまだ見た事のないロ−マの教会に対して親しく手紙を書いている”からです。しかも、この手紙は、”信仰的にも、知的にも最も深い成熟と理解を求められる内容があるからです。

それらの事から、ロ−マの教会の人々は、”使徒パウロの信仰の友であった”と思われるのです。おそらく、”ロ−マの教会の人々は、使徒パウロがギリシャで信仰に導き、彼の信仰の友となった人々であったろうと思われます。

”引っ越し先のロ−マの地で、かつて、工ルサレムで教会の誕生を目撃した人々にも福音を伝え、あの教会誕生の出来事の意味を理解した人々と共に、家庭集会を持つようになり、教会の礎となったと理解する事は自然に思えます。”

 また、この手紙が書かれたのは紀元57年頃と言われています…そして、この時から6〜7年後の西暦64年に、歴史に名だたる暴君ネロの残忍な迫害が始まりました。そして、ロ−マの教会は、その迫害を乗り越えたのです。

”この手紙を受け取ったロ−マの教会が、福音の恩寵の深さに支えられていたからだと思う”のです。立派な会堂もなく、聖書も完成していないこの時に、”福音に生きる信仰は成熟していた”のでした。

ここでパウロの挨拶に戻りたいと思います。7節の後半に、「私達の父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように」とあります。何と麗しい挨拶かと思います。

”挨拶というのは、文化や、生き方が反映される”といいます。ある商人の町では「もうかりまっか」と挨拶するそうです。関西育ちの牧師先生が東北に赴任し、信者さん宅を訪問した時、「儲かりまっか?」と挨拶して驚かれたというお話を聞いた事がありました。

使徒パウロはここで「主イエスからの恵みと平和が、あなた方にあるように」と挨拶しました…”パウロの生き方そのもの”が、”福音による救いの喜びと、神と共に生きる平安に生きるもの”だったからです。

 この「恵み」というのは、”ギリシャ人達の挨拶の言葉”でした。また、「平安」というのは、”ヘブライ人(ユダヤ人)達の挨拶”でありました。

当時の世界は、”文明や政治”では、”ギリシャ思想が中心”でした…使徒パウロにとって”恵み”とは、ギリシャ人が考えていた様な、単なる”喜び”ではなく、”十字架によって罪赦されて救われた喜び”でありました。

 一方、”宗教”では、”ユダヤ教が、一番歴史を持った、秀た宗教であった”のです。そのヘブライ人達は、人の顔を見ると、「シャローム=平安があなたにありますように」と言ったのです。”ユダヤ人が考えていた「平安」は神との平和な関係から生まれる「安心」”でした。

 ”使徒パウロは、ここで2つの世界を1つにした、新しいキリスト者の挨拶を生み出した”のでした…”恵みと平安は十字架によって与えられるから”です。

「イエスの十字架によってこそ罪赦され救われた喜びが生まれ、十字架によってこそ、神との断絶が回復し、神と共に生きる平安が与えられるからです…使徒パウロは「主イエスの十字架によって成就した救いの喜びと、神と共にある平安の中に、あなたは生きていますか?」と言ったのでした。

 使徒パウロの手紙には、この「恵みと平安とがありますように」という言葉が必ず出て参ります。ここに、如何に、”使徒パウロ自身が、このキリストによる福音の恵みに生き、また、今朝、私共にも、このキリストによる福音の恵みに生きて欲しいと、どんなに願っているかをを思わされる”のです。