「福音の体験

ロ−マの信徒への手紙1:2〜6
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1:2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、
1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。
1:6 この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  福音の体験

            ロ−マ人への手紙1:2〜6、03.7/13

 今朝は、ロ−マの信徒への手紙1章2〜6節の所から、共に神の言に聴いて参ります。

この2節の始めと6節の終わりに線が引いてあります。これは( )を表す線であり、1節の福音を説明している所なのです。

ここには、この「福音」は、”神が預言者を通して与えると約束されていた…イエス・キリストに関するもの=キリストから与えられるものである”と紹介してあるのです。

 パウロは、コリント人への第一の手紙2〜4節でも、その福音の内容を述べています…「どんな言葉で私が福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなた方はこの福音によって救われます。さもないと、あなた方が信じたこと自体が無駄になってしまうでしょう。最も大切な事として私があなた方に伝えたのは、私も受けたものです。即ち、キリストが、聖書に書いてある通りに私達の罪の為に死んだ事、葬られた事、また、聖書に書いてある通り、三日目に復活した事」と言いました。

パウロはここで、「ただやみくもに信じるのではなく、”福音の内容”をしっかり信じなさい。そうすれば、あなた方の救いは間違いない」と言ったのでした。何故、パウロはそこまで断言出来たのでしょうか?

 何故なら「この福音というのは、パウロが考え出したものではなく、旧約聖書に預言されていたものであり、それを救い主が十字架と復活を通して与えて下さり、教会が命がけで守って来たものだったから」からでした…そして、”何よりもパウロ自身が、その福音によって救いを体験したものだった”のです。

「福音」には「グッドニュ−ス」という意味がある事は先週お話し致しましたが、”福音”には、この福音を聴いたら、「是非、その望みにかけてみたい。」と思わせる力がある”からです。”だからこそ神の御子が、約束されていた福音を、十字架と復活をもって与えて下さり、教会も、その福音を命がけで守り続けてきた”のです。

 この「罪から救われて、永遠の命を持つ事ができる」という”良き知らせ”に対して、”現代の日本人は余りにも鈍感”です。忙しさに追われたり、また、溢れる目先の欲を刺激するニュ−スに麻痺しているからでしょうか?それとも宗教に求めるものの意識の低さからでしょうか?

 ”聖書はこの福音をイエス・キリストから与えられたもの”と語ります…確かに、”主イエスのたとえ話や、奇跡や、説教は、どれをとっても、この福音を説明するもの”でありました…マルコによる福音書1章15節にある「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というメッセ−ジを説明するものだった”のです。

ここにある「神の国」という言葉は、”旧約聖書において預言者達が約束していた、「やがて、メシヤ(救い主)が遣わされて、この世に神の支配(神の力と愛による支配)が実現する」事です。

そして、その神の国が「近づいた」というのです。これは「来ている」とも訳せる言葉です。具体的に言えば「人が救われ、キリストと共に生きる世界が来た」という事です。

 ”完全な神の国(天国)は、やがての日に実現する”のですが、”十字架を信じた人の心の内においては、既に、天国をかいま見る様な、主の愛と力による臨在の世界が来た”のでした。

 ”この福音を受け取った教会は、神の国を、十字架と復活に置き換えて宣ベ伝え”ました…何故なら、”主の十字架と復活こそが、神の国に入る道だったから”です。

この、”救い主が与えて下さった福音には命がある”のです。この福音の命は、福音を受け入れた人の心に充ち、その命の中に成長させ、隣人に福音を紹介せずにおれなくなるのです。

しかし、そうした”私共の信仰が眠りこけてしますと、福音は命を失い、キリストの福音を手渡して行く事が出来なくなってしまう”のです。パウロは8節で「あなた方一同について私の神に感謝します。あなた方の信仰が全世界に言い伝えられているからです」と喜んだのは、”ロ−マの信徒の信仰が目覚めていたから”でした。

 3〜4節に、「(福音は)御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、私達の主イエス・キリストです」と、福音そのものであるイエス・キリストについて、2つの面から述べております。

 1つの面は、「イエス・キリストは、肉によればダビデの子孫から生まれたという事」です…これは、”ダビデ王の信仰に心打たれた神が、「やがておまえの子孫に救い主を与える」といわれたサムエル記の約束の成就として遣わされたお方”だという事なのです。

 2つ目の面は、「聖霊によると、神が人間になってくださった」という事です。考えてみれば、これ以上の福音があるでしょうか?…「もし蟻を見ている人がいて、そのまま行ったら危ないよ」と幾ら言っても蟻に伝える事は出来ないのです。人が蟻になって「そのまま行ったら危ないよ」とあの触角で会話して伝えねばならないのです。

”神は人の痛みを理解しつつ、救いの道を伝える為に、御子を人としてこの世にお送り下さる道をとられた”のでした。

その事への”神の決意”は、最初の人間である”アダムとイヴが罪を犯して堕落してしまった時に、既に神が決意されていた事”だったのです。”アダムとイヴは罪を犯した時、自分達が裸である事に気付き恥ずかしくなって毛皮で身を隠し”ました。

ここで”毛皮をつくる為には、動物の血(命)が流されている”のです…”罪を覆い隠す為に命が犠牲になった”のでした。”神は、人類の歴史が始まったばかりの、その時既に、人間の罪を覆う為、御子の血を流す決意をされた”のでした。

 そうして”神より遣わされてきた救い主は、罪以外、私共の痛みの全てを舐め尽くされて、共に痛む友となり、理解し支えながら、十字架に架かられ、人類最大の敵である死をも経験し、私共に救いの道を与えて下さった”のでした。

私共は何時か必ず死を通過します。しかし、生きている者は誰1人として死を経験していません。しかし、”キリストだけが、死を経験されたお方として復活して下さった」”のでした…”死の世界を打ち破って生き返ってくる事は、この世の誰もまねする事のできない事”です…これが”福音の神髄”なのです。

 私共は思い煩いに囲まれています。”思い煩うのは、不安は突き詰めると死に行き着くから”です…ですから、”本当の救い”というのは、目先の御利益ではなく、”死に対する救い”でなければならないのです。”死後の神の審きに対する解決は、主の十字架と復活にしかない”のです。

 NHKの番組で、アメリカ開拓時代の田舎のクリスチャンホ−ムを舞台にした「大草原の小さな家」というのがあります。その中にあった「おばけ屋敷」というお話を紹介致します。

 若くして愛する妻を病で失った男が、悲しみに打ちひしがれて家に閉じこもっていました。やがて人々は、その家を不気味がり、おばけ屋敷と噂される様になってしまいました。その事に心痛めた主人公の少女ローラが、率直にその男の悲しみの中に飛び込んで行きました。

しかし、その男の悲しみの深さに、ローラもまた圧倒されて手が出なくなったのです。男の余りの深い悲しみに、語る言葉を失って家に帰ったローラは、自分もまた馬小屋の屋根裏に閉じこもってしまいました。

暫くしてロ−ラは聖書を読み始めました。そんなロ−ラを見た父親は心配して声をかけました。ロ−ラは言いました。「聖書を一所懸命読んでいるけれど、眺めるだけになってしまう。どうしていいのか分からない。あの人を慰める言葉が見つからない。」…娘の訴えを聞いた父親は答えました「あの人は自分の悲しみをちゃんと見る事ができない。だから立ち直れないのだ」と。
「悲しみを見つめる?」と考えたロ−ラの目に、その時、ただ自分で眺めていただけだった聖書の言葉が飛び込んできたのでした。ヨハネによる福音書11章25節の言葉でした。『私はよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる」…この言葉が心に響いたロ−ラは、その男の人に、「何とかして、この御言葉を聞かせてあげたい」と考えました。

そして、その男の家の前の岩陰に聖書を置き、読んで欲しい所にしおりをはさんだのです。その置かれていた聖書に気づいた男は、ついにその聖書を開いて読んだ時、心が開かれたのでした。そして物陰で見守っていたロ−ラに気づいて「今度の日曜日に教会でね」という挨拶をして番組が終わりました。

 私共の信仰は、神様を信じ、無病息災、商売繁盛を願う事ではありません。教会の信仰というのは、そういう所にあるのではなく、”強いられている、この世の戦いの中で、打ちひしがれたり、苦しんだり、ローラが慰めようもなかった男が、悲しみの直中で、永遠の命を告げる御言葉によって立ち上がった”…そういうものなのです。

”キリストの福音を受けとめた時、イエス・キリストの福音が、「これはあなたの為のもの。あなたが、あずかるもの」と、私共に迫る、この福音を体験する事が出来る”のです。