「主イエスの御支配」
マルコによる福音書16章15〜20節
16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
16:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
16:19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16:20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕
ヘブライ7:24〜25
7:24 しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。
7:25 それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「主イエスの御支配」
マルコによる福音書16:15〜20.2003.6/29
いよいよ3年半にわたって共に学んで参りました。マルコによる福音書も今朝で最後になりました。このマルコ書を通して、主イエスから頂いた多くの恵みを思い返しながら、この最後の箇所から,共に神の言に聴いて参りたいと思います。
今朝、共に学ぼうとしている事は、”天にあげられたイエス・キリストの御支配について”であります。私共は、明日何が起きるか分かりません。思いがけない危機に立たされる事があるのです。そんな時”頼みに出来るもの、或いは駆け込む所がある人は幸い”です。
詩篇31篇1節に、「主よ、私はあなたに寄り頼みます。」(口語訳)という表現があります。新共同訳では、「主よ、御もとに身を寄せます」となっています。原語では、「主よ、私はあなたの中に逃げ込みます」です。”聖書は、「キリスト者には絶対のピンチの時にも、逃げ込む所がある、それは明日をも支配されておられる主イエスだ」と告げる”のです…何と幸いな事かと思います。”私共には、このような確かな拠り所が、今日も明日もとこしえまでも変わらずにある”のです。
マルコ16章の16節で主イエスは、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」と語られました。少しドキッとするお言葉です。しかし、”宗教改革者で有名なルターは、「あなたの拠り所は何ですか」と聞かれた時、「私が洗礼を受けているという事です」と答えた”と言います。
今でこそ「宗教改革」と一言で言いますが、当時それは本当に大変な事だったのです。”当時の教会や国家は、絶対の権力でした。そこに一人で立ち向かった”のでした。そして、”そのルターを支え続けたものが、「私は洗礼を受けている」という事だった”のです。
しばしば、「洗礼を受けた時の感激を忘れていた」という言葉をお聞きします。私にも経験のある事です。けれども、”ひと度、私共に与えられた洗礼というのは、自分が忘れようがどうしようが、消えない事実”なのです。”永遠の証印”という事が出来るものなのです。
ルターは、この”16節の「信じて洗礼を受ける者は救われる」という主の御言葉への信仰によって一切の試練を克服した”のでした…この”洗礼という恵みによって、「孤独な戦いから逃れたい」という悪魔からの誘惑を退け、神の御心を果たした”のです。そして、この”「信じて洗礼を受ける者は救われる」事への信仰は、私共も問われている事”なのです。
では、何故、”洗礼が、私共が危機の中で、駆け込む拠り所となるのでしょうか?”…そこで、”まず「洗礼」とは何なのか?”ということを共に学んで参りたいと思います。”洗礼は、儀式でありますが、「信じて」受けるもの”です。では、”何を信じるのか?”と申しますと、”イエス・キリストを信じる”のです…この”「信じて受ける」という所に、洗礼の力がある”のです。
”イエス・キリストを信じる”事は、”復活し昇天された救い主を信じる事です…つまり、今、私共をも御支配下さっているお方を信じる”事なのです。
確かに、”人が自分の内にある信仰を見る時、揺れ動く不安定さを認めない訳にはいかない”と思います。しかし、”主イエスは不動”なのです…「イエス・キリストと共に死に、イエス・キリストと共に新しい命によみがえさせられる」という信仰によって洗礼を受けた者は、「私は、あなたを見捨てない。どんな事があっても、私は、あなたを受け入れる」という主イエスの御支配に預かっている者”なのです。
ですからルターも、危機の中で、”「私は洗礼を受けている」という事実を拠り所として立ち続ける事が出来た”のでした。”ルターが「私は洗礼を受けている」と言った言葉”は…「神は私の味方であり、私を御支配し続けて下さるお方」と言う信仰告白だったのです。
15〜19節に「『全世界に行って、全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。』このように言われて、主は天に上げられて、神の右の座に着かれた。」とあります。
この「天の神様の右の座に着かれる」という、”神の右の座”は、”神の権威、神の権能を授けられた者の位置”なのです。
マタイによる福音書の最後には、『私は天と地における一切の権威を授けられた。見よ、私は世の終わり迄、あなた方と共にいる』ともございます…主イエスを信ずる者は,この”「天の神の右の座に昇られ、全知全能なる神のお力によって支配下される主イエスに守られる」”のです。
ヘブライ7:24−25にも「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わる事のない祭司職を持っておられるのです…この方は常に生きていて、人々の為に執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人達を、完全に救う事がおできになります」とあります。
私共が、”主イエスに近づくなら、死の力をもってしても滅ぼせない、完全な救いを与える事のお出来になる方の傘の下に入れられている”と聖書は全巻を通して語っているのです。
”主イエスに近づき、この恵みに預かる道”は、”ただ1つ「信仰」”なのです…「信じる」という言葉は、実は「説得する」という言葉から生まれた言葉なのです。
人は言葉を聴いて「説得されて」信じるからす。”ただ危機の中でも、信じ続ける信仰”には、”「この方は私を裏切らない」と心底思える信頼が必要”なのです…ですから”「救い主を信ずる信仰に至る説得」は、「主イエスの愛の説得によって生まれる」”のです。
主イエスは、御自身を裏切り十字架の足下から散って行った者達に姿をお見せ下さったのでした…そしていつもの如く、『安かれ』とおっしゃったのです。それこそ、”愛の説得”だったのです。弟子達は、この”主イエスの赦しの説得に降参した”のでした。
先週、「主が復活された、イエス様を見たという人々の言葉を信じなかったトマスが、主イエスに、『あなたは見たので信じたのか。見ないで信じる人は幸いだ』と言われたお話を致しました。「信仰」というものは、「主イエスのお約束の御言葉を見ないで信じるようになっていく」事です。
危機の中でも「神がおっしゃったのだから、時が来たら必ずそうなる」と見ないで信じるのです。しかし、信仰の初めは、見なければ信じる事など出来ないのです…”主イエスの愛への信頼の成熟に伴い、だんだんに見ないでも信じられるように成熟して行く”のです。
”主イエスの赦しの説得は、弟子達の心に信頼を生んだ”のでした。ですからこの後、”弟子達は、どんな危険の中へも出かけて行って、主イエスの御支配を見上げつつ、命をかけて宣教する事が出来た”のです。
自分達が経験した事、それは、”主は自分の為に十字架にかかり、そしてよみがえられ、今も自分達の為に生きて働いておられる事でした…彼等は危機の中でも、主の御支配の下にある平安の中で証をした”のでした。
その結果、「主は彼らと共に働かれたのです…そして、彼らの語る言葉が真実である事を、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」のでした。
この主イエスの御支配は、”彼等の福音宣教の言葉を、今までと全く違う力ある新しい言葉とした”のでした。”また新しい徴も言葉に伴ったのでした…18−19節「彼らは私の名によって悪霊を追い出し…手で蛇をつかんでも、毒を飲んでも決して害を受けない。病人に手を置けば治る」”という事が起きたのです。
”これは、この後に生まれる、新しい世界を目に見える現象を通して暗示したもの”だったのでした。”悪霊や蛇の毒は、当時はローマの権力をはじめとした、毒に満ちた世や、人の心”の事でした…”キリストの支配の下にある者は、そうした世や人々の毒の中にあっても守られる”と言う事なのです。
また、”「手を置いた者は癒された」という事は、”心や身体に弱さを覚えている者は、主イエスの御支配に預かる”事を告げているのです。”今も目を注ぎ御手を置いて下さる御方がいるという事なのです”。
マルコが、私共に最後に告げる事…それは、「神の右の座に昇られた主イエスは、神の権能を持って、今、あなた達と共にいる」という事なのです。”私共は、この事を信じて洗礼を受け、その証印によって永遠に主イエスに支えて頂く”のです…これこそが、”私共が預かっている救いであり恵み”なのです。そして、それこそがマルコによる福音書が神に導かれて最後に語った事なのでした。
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