「既になされていた事」
マルコによる福音書16章1〜8節
16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
Tコリント15:44b〜45
15:44「…死は勝利にのみ込まれた。
15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「既になされていた事」
マルコ16:1-8 Tコリント15:54-55 03.6/15
今朝は、マタイによる福音書16章の1〜8節の所から共に神の言に聴きつつ「神様が既に石を動かして下さっていた事」について学んで参ります。
主イエスの復活という出来事は、神話のように聞こえるかもしれませんが、これは神話や昔話ではないのです…昔においても信じられない大きな出来事でありました。ここに登場します3人の女性達も、主イエスの復活は信じていなかったようです。”主イエスが何度も語られておられた筈の復活でしたが、何かを暗示する物語として聞いていた”のでしょうか?
安息日が明けるのを、じりじりする思いで待っていたであろう、この3人の女性達は、主イエスが葬られた墓に向かって急いでいたのです。
しかし、それは、「復活の主にお会いする為ではなく、主イエスの遺体に会う為でした。主イエスの遺体に何かしてあげよう・せめて香料でも塗ってさしあげたい」という女性らしい、けなげな思いで墓に向かっていたのです。しかし,信仰によって墓に向かっていたのではなかったのです。
先日、犬の散歩をしておりました時、道端のお地蔵さんのお掃除をして、お供え物をしながら拝んでいるお婆さんを見かけました…まさに、これぞ日本と言うような光景でした。何か懐かしささえ感じました。しかし、それは”人間が神のお世話をする姿”でもあります。
”天地万物を創られた神”は、掃除をしてもらったり、服を着せて貰ったり、お供え物を貰ったり、”人の世話に頼る存在ではありません”…”人間に作られた神ではないから”です。
この3人の女性達も、この時、”主イエスの為に何かをしようとしていた”のでした…「自分達を愛し尽くして下さったイエス様に、出来る限りのお返しをしたい」その気持ち自体は、けなげで美しいものです…しかし、主イエスが、”神に復活させられる救い主”だと信じていたならば、はたして遺体の世話をしようとして墓に向かったでしょうか?
では彼女達は、どんな思いで墓に急いで向かっていたのでしょうか?…3節に「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合いながら墓に向かっていたとあります。”大きな石が女性達と主イエスの間を隔てていた”のでした。
所が、いざ墓に到着してみたら思いもかけない事が起きていたのです…”石は既に転がされていた”のでした。それは”神の御業”でありました。
”決して人が介入する事ができない。人は見る事も許されない、「聖なる神の領域」こそ、この復活の業”なのです。
神は、”既に主イエスを甦らせ、既に墓の石を動かしておられた”のです。
以前、ある説教者から、聖地旅行に行かれた時のお証を伺いました。主イエスのお墓は四畳半位の大きさで岩をくりぬいて造られた"ひやっ"とする所で、そして、そこに「He
is not here,He is rizun」「彼は此処にはいない、彼は甦られた」と書いてあるのだそうです。
その先生が、「あーイエス様が、此処に横たえられたんだなあ」と思っておられた所に、一人のアメリカ人の婦人が入ってこられたので、その先生は茶目っ気を出され「He
is not here」と言われたそうです。そうしたら、相手の方が「ofcourse not ,he
is rizun=当たり前ですよ、甦られたのですから」と返事されたので、二人はお墓の中でパチンと手を合わせ「praise
the load=私達の主は甦った。主の御名を賛美します」と握手されたのだそうです。
この様に、私共が主の御名を賛美する為には、”神が御子イエスを既に復活させられ、墓の入り口の大きな石が動かされている必要があり”ました…そして、この”大きな石は、神によって既に動かされていた”のでした…正に、”私共の神を礼拝する思いは、ここから生まれる”のです。
礼拝は自分の努力で守る行為ではありません。また、神の為にして差し上げる行為でもありません。”礼拝は、神への感謝の応答”なのです…”私の為に、神が既に与えて下さっていた恵みに気づいた者達の応答”なのです。そして,この”礼拝という応答だけが、人間が出来る、唯一の神への真実”なのであります。
日本人は、救いを求める時に何かをします…四国でよく見かけますお遍路さんの巡礼や、滝に打たれる。また座禅をする等の修行や善行です。勿論、善行はするにこした事はありません…しかし、”人の救い”というのは、”「そんな人間の業で間に合うものではない」”と聖書は切々と訴えるのです。
Tコリント15:54〜55に「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」とあります…これは、”私共の永遠の滅びが、既に十字架の勝利に飲まれている”という宣言です。ここに”神による救いの本質がある”のです。
”罪の赦しによる救いは、十字架の贖いによってしか開く事の出来ない世界であり、死による永遠の滅びに対する勝利は、罪なき神の一人子の十字架によって既に開かれている”という事を物語っているのです。
さて、4節に「目を上げて見ると」とあります。既に神の御手によって、石が取りのけられた墓の入り口から中に入った女性達は、どうしたかと申しますと「見上げた」のでした。
お墓の天井は、それ程高くはないのだそうです。しかし、此処にはハッキリと「目を上げてみると」と記されているのです…これは一体何を意味しているのでしょうか?
これは、”心の目の高さ”の事なのです…”「目を上げてみると」…「キリストが、神に甦らせられた」という事は、天におられる神を見上げる事無しに信ずる事は出来ない事”だと表している言葉なのです。
では”私共にとって大きな石”とは何でしょうか?…大きな石を幾つか挙げる事が出来ると思います。”病気”…これは本人にとっても家族にとっても大きな石です。また、”試練”も大きな石かと思います。”キリスト者は、その大きな石という危機の中で、御言葉を握って祈りつつ、生ける主が共にいて大きな石を動かして下さる事を知る”のです。
そして,人にとって最大の大きな石は、”罪という石”であります…何故なら、”罪という石はキリストから人を遠ざけてしまう最も厄介な石”だからです。”罪と言う石の本質”は、「あれをした。これをした」ではなく、”神を無視し神に逆らう心”です…この,人の心の底に巣くる”罪の根が、罪を生み、神を悲しませ、人を傷つけ人間関係を壊して行く”のです。
キリスト者になりますと、この”罪という根が、如何に自分を支配し、またキリストから引き離そうとするかに気づく”のです。どんなに努力しても解放されない罪の根なのです。
しかし、”ガラテヤ2:20には、その罪の根から解放される道さえ、既に備えられている事が記されているのです…「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」…キリストと1つとされて生きる時、人はキリストが私を罪から解放して下さる事を経験するのです」…そして、これが、”ホ−リネス教団が掲げる聖化の恵み”なのです。
Tサムエル記に、イスラエルの初代の王であったサウル王が罪を犯した時、悔い改めをしなかった為に、神に捨てられた事が原因で、心の病に陥ってしまった事が記されています。
その時、サウル王は、ダビデが弾いた琴で落ち着いたりしましたが(現代のカウセリングや、癒しの音楽にあたるもの)、しかし、”サウル王は心からの罪の悔い改めに至らなかった為、神による罪の赦しに預かる事が出来ず、本当の癒しに預かる事はなかった”という事が記されております。
”二千年前に主イエスの墓を塞いでいた石は神の御手によって既に動かされていたのです”。
それは、”今、私共にも置かれる神の御手”なのです。しかし、私共の前に,”罪や災いという大きな〜石”が置かれる時、どうして取り除こうかと思い巡らす余り、”人は、しばしば、神の御手がその上にある事を忘れてしまう”のです。
”しかし、そこで、信仰の目を上げて、主イエスを見上げる時、「この石も既に動かされているのだ」という約束の御言葉を、主イエスから頂き、主の御業を見る”のです。
正に、”キリスト者の信仰の歩みは、主イエスが、既に、御言葉でお約束下さった事を受け取り続けていく歩み”なのです…そして、そこで”人は主の御名を讃える者へと変えられて行く”のです。
![]()