「新しい墓」

マルコによる福音書15章16〜20節

15:16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。
15:17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
15:18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
15:19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。
15:20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

マルコによる福音書15章25〜32節

マルコによる福音書15章42節〜16章6節

15:42 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、
15:43 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。
15:44 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。
15:45 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。
15:46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。
15:47 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。
16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  
新しい墓  
     マルコによる福音書15章42節〜16章6節、03.6/1

 今朝は、マルコ15章42〜16章6節から共に神の言に聴いて参ります。今朝は主イエスが埋葬される時の物語です。この時、福音書の中で初めて登場し、その後、また姿を消す人が登場して参ります。アリマタヤのヨセフです。

 彼は身分が高い議員でありました。主イエスが十字架で息を引き取られた後、このアリマタヤのヨセフは、勇気を出して総督ピラトの所に赴き、主イエスの埋葬の手続きを行ったのでした。

そして、その姿を目で追っていた婦人達がおりました。47節に、それはマグダラのマリヤと主イエスの母マリヤだったとあります…「本当は、自分達が主イエスを葬りたかった」という思いを抱きながら見つめていた女性達でした。

しかし、それは不可能な事だったのです。何故かと申しますと、”女達は墓を持っていなかったから”です。当時、墓を建てるのは、”自分の土地でなければならなかった”からでした。

 創世記に登場しますアブラハムを思い出して頂きたいと思います…旅から旅を続けていたアブラハムが、最愛の妻サラを失った時に、妻を葬る土地を、自分の土地として手に入れなければならなかった事を創世記23章は伝えています。古くからの風習でした。

私も土居の地に赴任して来た時に、そこら中にお墓がある事に驚きましたが、土居にも自分の土地に先祖を葬る風習があるのでしょうか?…アリマタヤのヨセフは墓を持っておりました。

マタイによる福音書には、それは、まだ誰も葬った事のない新しい墓だったと記しています。アリマタヤのヨセフは既に高齢であったので、自分を葬る為に準備していた墓であったと思われます。
 
 所が思いがけない事が起こったのです…主イエスの十字架でした。マタイ書は、アリマタヤのヨセフは主イエスの遠巻きの弟子であったと記します。しかし、アリマタヤのヨセフは、”主イエスを捕らえて総督ピラトに引き渡す決議をした議会”に身を置いていた為、彼にとっては,決議に同意をしない事が、”精一杯の意思表示”でありました。

 当時は、”十字架に架けられた犯罪人は、ひとまとめに捨てられ”ました…”十字架に架けられた者は、神に呪われた者とされていたから”です。ですから、主イエスの遺体が十字架から降ろされた時、誰も引き取り手がなかったのです…それは”遺体が捨てられる”事を意味しておりました。

 それを見た時、”アリマタヤのヨセフは、いよいよ耐えられなくなり、自分の墓に主イエスを引き取る決心をした”のでした…そこで勇気を出してピラトに主イエスの遺体を引き取る事を願い出たのです。

後でまた述べますが、その行為はアリマタヤのヨセフの社会的立場に大きなダメ−ジを与える事でした。
 しかし、この時、アリマタヤのヨセフも百人隊長のように、”十字架の主の姿に「本当に、この人は神の子だった」と信じていた”のだと思います…彼は、”神の国を待ち望む者”となっていたのでした。彼には、自分の社会的立場を守る事は、もうどうでも良かったのでした。

 ある説教者は、「まだ誰も葬られた事のないお墓に、イエスをお入れした事は、1週間前、主イエスが、誰も乗った事のないろばの子に乗られてエルサレムに入場された事を思い起こさせる」と言います…これが”十字架における父なる神の御子イエスへの唯一の慰め”でありました。

 マグダラのマリヤと主イエスの母マリヤは、主イエスの遺体が墓に葬られる、一部始終を見ていました。そこに主のお躰があり続ける事を露ほども疑わず、待ちきれない思いで安息日が明ける迄待って、安息日が明けた2日目の朝早く墓に訪ねたのでした。「誰があの墓の入り口を封印している大きな石を動かしてくれるか」と案じながら…。

しかし、”墓に着いてみると、番兵に監視されていた筈の、大きな石は既に動かされており、そこに輝く衣を着た若者が座っていた”のでした。

 他の福音書を見ますと、その人は”2人の御使い”だったと記しています…御使いは言いました。「あなたがたは、何故、生きた方を死人の中にたずねているのか。その方は、ここにはおられない。甦られたのだ」と…。
 この言葉は原語では”受動態”で「甦させられた」と記されています…それは、”キリストの復活は神の御業だったから”でした。

 おそらく、アリマタヤのヨセフも、その出来事の報告を聞いたと思います。その時ヨセフは、自分のお墓を提供した事が無駄となったとがっかりしたでしょうか?…それとも、驚きつつも感動して、この地上でもっともダイナミックに神が介入された場所となった、自分の墓を聖なる所にしようとでも思ったでしょうか?

 おそらく後者だと思います。ヨセフは墓を捨てなかったからです。そして今、ここが墓であったであろうと思われる所に、聖墳墓教会という教会堂が建てられております…そのお墓は、かつてアリマタヤのヨセフによって建てられたお墓でしたが、”キリストが葬られ、復活された事によって、まったく新しい墓になった”のでした。

 確かにアリマタヤのヨセフは、主イエスを死に渡す議会の議決には賛成しなかったと聖書にあります。けれども、反対演説をしたとも記しておりません。戦争中に反戦の思いを抱きながら、意志表明出来ない人々と同じだったかも知れません。その意味では、このアリマタヤのヨセフもまた、主イエスの死に責任がないとは言えない1人でありました。

 しかし、”聖書はヨセフを責めない”のです…何故なら、”ヨセフは、その時出来た精一杯の事をしたから”です…この”アリマタヤのヨセフが主イエスの遺体を葬った事は、それ程困難な事だった”からでした。

 ヨハネによる福音書は、その18章28節に「人々は、イエスをカイアファの所から総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をする為である」とあります。

”主イエスをピラトに裁かせて十字架に架けようと、ピラトの官邸にまで連れて行った人々が、その官邸の中に入らなかった”のです…何故かと申しますと、”官邸は,異邦人、ローマの人びとがいる汚れた所だったから”でした…”そこに入る事は、神の民と自負していたユダヤ人にとって、汚れる事を意味したから”です。

その事は、”ユダヤ人がもっとも重んじていた、聖なる過越の祭りに参加出来なくなる事を意味していた”のです。だから、”ピラトの官邸に入らなかった”のです。

 従って、アリマタヤのヨセフが主イエスの遺体を受け取る際に、”ピラトの官邸に行った”事、また、”神に呪われたとされていた十字架の遺体に触れた”という事も、議員として、ユダヤ人としても致命的な行為だったのです。

 彼は、何故その様な事ができたのでしょうか?…ルカ23:51に、彼は「善良で正しい神の国を待ち望んでいた人であった」とあります…この「善良」という言葉には、”親切で、憐れみのある”という意味がございます…神の国を待ち望んでいたヨセフは、”人だけでなく、神に対しても善良だった”のです。

”神が愛で支配する世界の到来をひたすら待ち望みながら、今の世でも出来る限り正しく、優しく生きていた人だった”のです…そんな”ヨセフから滲み出た自然な行為が、自分のお墓に主イエスの遺体を引き受ける行為を生んだ”のでした。

 よく描かれる”アリマタヤのヨセフの絵は常に老人”です…”ゆったりとした包容力を持った老人”として描かれます…この時、”何も語らず静かに、力を尽くして主イエスの肉体を受け止めたから”です。

 ある本にフィレンツェの大聖堂にはミケランジェロの見事な彫刻があると書いてありました。”悲しみ、絶望に倒れかかる主イエスの母マリヤを後ろから支える、静かで大きな男として刻まれたアリマタヤのヨセフの彫刻”です…このアリマタヤのヨセフの生き方は、”神を待ち望む心から生まれた”のでした。

 主イエスが、お生まれになって間もなく、老人であったシメオンと、アンナと呼ぼれた老女が、幼な子の誕生を祝った出来事がありました。この”シメオンとアンナは、救い主を見るまでは死ぬ事はないと希望を持っていた人”でした。そして、ついに”シメオンは主イエスを、手に抱いて神を賛美した”のでした。

 そして、その”主イエスの地上の命が終わりました時も、望みに生きていた老人の手に抱かれた”のでした。

 私共の人生も、墓の様な絶望の淵をのぞき込む事があるかも知れません。しかし、”主イエスに望みをおいて生きるなら、あのアリマタヤのヨセフの墓が、御使いに「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げられ新しい墓”となったように、”望みは失望に終わらず、主の愛と命に包んで頂く所となる”のです。

”私共の絶望という墓が新しい希望の墓となると信じて生きる…それがキリスト者の人生”なのです。