「キリスト者の産声」

マルコによる福音書15章33−41

マルコによる福音書15章33〜41節
15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
15:40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
15:41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  
キリスト者の産声  
                        マルコ15:33−41、03.5/25
 今朝はマルコによる福音書15章の33節以下の所から、共に神の言に聴いて参ります。

 ”教会には十字架”がございます。そして、この十字架こそ、教会の象徴、シンボルであります。 先日、土居小の三年生が教会を見学に来ましたが、「私が牧師に見えない」と子供達が驚いておりました。勿論、牧師が牧師らしく見えるかどうかで(勿論、見えた方が良いのですが…。)、教会が教会となる訳ではありません。”十字架があり、聖餐を囲んで礼拝をささげる群れが教会”なのです…”その信仰の行為によって主イエスの躰(教会)とされるから”です。

 時折、この教会の前を通る人々がちらっと十字架を見て行く姿を目に致します。おそらく十字架を見た事のない方は少ないと思います。そして,その十字架を見る者の中からキリスト者が生まれるのです。

そこで、”どのように十字架を見る者が、キリスト者として新しく生まる事が出来るのか”と言う事を、今朝は百人隊長の”キリスト者の産声”から共に学んで参ります。

 前回、私共は、”主イエスが人々の嘲笑の中、敢えて無力に撤し十字架に向かわれた事”を学びました…そして主イエスは、その十字架上で「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」(34節)と叫ばれたのです。これは「我が神〜どうして私を、お見捨てに成ったのですか」という意味でした。

 今でも、救い主を待ち望んでいるユダヤ教では、”過ぎ越しの祭り毎に、過ぎし1年間の民の罪を、小羊に背負わせて、その小羊を民の身代わりに献げて、罪の赦しを受け取り、新しい年も神と共に生きる約束を受け取る儀式を行います”。

勿論、その”儀式が有効だったのは、神の一人子イエスが、神の小羊として十字架に架かる迄”でありました…”キリストというなだめの供え物は一度限りで完全な生け贄だった”からです。。

 屠り場に引かれて行く時、小羊は本能で死を感じて怯えるそうです、そして殺される時の、”断末魔の小羊の叫び声は耳から離れない”と言われます。聖書が主イエスがお使いになっていたアラム語のまま、主の十字架の叫びを記しているのも、主イエスの叫び声が耳にこびり付いていたからだと思います。

主イエスは、それ程迄に無力な王に徹して十字架で苦しまれたのでした…しかし、そうでなかったなら”十字架は成就しなかった”のです。「もし、あの沢山の人を癒したあの天的な力で、主イエスが十字架から降りられたら、どんなに、力ある神として主イエスを伝道しやすかっただろうか」とも思います。

”しかし,主は敢えて無力に撤しられた”のでした。そこには理由があるのです。福音の御利益化を防ぐとういう事もありますが、今朝は最も大きな理由に注目して参ります。

 主イエスが無力に撤した、その理由は、「罪人である私共が受けるべきであった神の怒りを、御自身をなだめの供え物として身代わりに十字架に献げる為」でありました…そして、”これが最大の理由”なのです。

 或る説教者は、この”主イエスの叫び”について次のように述べます…「もし、イエスが神から見捨てられず、あらゆる神の助けを奪われ、神の愛の何のしるしもなく、神の憐れみもなく、死に渡されたのでなかったならば、イエスは、十字架に架けられなかったであろう」と言いました。

 この説教者は、”主イエスは十字架上で、「人々から捨てられた」だけでなく、「神からも捨てられた」”と言うのです…”神から、一かけらの愛も憐れみも遮断され、捨てられたのが十字架”だったと言うのです。

 思えば、”主イエスは、この世で唯1人、一時も絶やさずに神と愛の交わりに生きたお方”でありました…その”御子イエスが父なる神に捨てられる”…その時の”主イエスの絶望を思いますと立ちすくむ思い”が致します。

しかし、”ここに神の愛を見る事こそが信仰”なのです…”百人隊長は、主イエスの十字架の下で、その事を見つめた”のでした。

 クジラという動物が居ます…クジラは、動物の中で一番大きく、とても知能が高く、愛情も深いそうです。傷ついた友達と共にいて、ついには自分も死ぬ事も多いのだそうです。

 マッコウクジラの群が攻撃されて、クジラのお母さんが傷ついた時には、お父さんクジラは、お母さんクジラを傷ついたままでは放っておかず、死んでしまうか、それとも傷が治るか、それがわかるまでそばにつき添っているのだそうです。そして、いよいよ傷が酷くなった時には、そばから離れず、ぴったり寄り添うそうです。

 別の種類の、トックリ鼻クジラというクジラは、友達の一頭が傷つくと他のクジラが群がって助け合うのです。中には自分が儀牲になって、他の友達を助けるクジラもいます。

 コクジラは、敵に襲われた時、降参のしるしに、上を向いてひつくり返えるそうです…後のクジラを救う為と言われています。”自分の命を投げ出している間に、残りのクジラを逃してあげる”のです。

 ”神の一人子の十字架も、私共が受けるべき神の審きと神の怒りを、なだめの供え物として身代わりに受け命を投げ出して下さった”ものでした。その”身代わりの命”は、クジラの命の比ではない事は誰にも分かります…”十字架で尊い神の一人子の命が献げられた”のでした。

 神が私共に求めておられる事は、”この十字架に神の愛を見る事”なのです…そして、それこそが、”十字架を見つめる”という事だからです。

 その様に”十字架を見たのが百人隊長”でした…彼は39節で「本当に、この人は神の子だった」と”深い言葉を漏らした”のです…彼は、”異邦人であるローマ兵でした。キリストを処刑する任務が与えられていた人だった”のです。

しかし、”ルカによる福音書を見ると、「神を褒め称えながら…本当に、この人は神の子だった」と言ったと記されております”…十字架を見つめながら、この百人隊長が漏らした、この言葉こそ、”キリスト者としての産声”であったのです。

 誰でも”十字架を見つめる人はこの決断が迫られる”のです。”十字架で苦しみ抜かれた主イエスの前に「エリヤが救いに来るか見てみましょう」と傍観者でいるか?それとも「本当に、この人は神の子です」と告白するか”です…そして聖書は、37節以下で、”十字架を見つめて、主イエスこそ真の神の子と告白する者への祝福を述べる”のです。

 37節「イエスは大声を出して息を引き取られた」とあります。その時、「神殿の奥の至聖所を仕切っている巨大な幕が真っ二つに上から裂かれた」のでした。

これは、”汚れた世にいる事の出来なかった聖なる神が、十字架の血潮によって罪許された人の心に、神がお住まい下さる為、神殿の奥にある至聖所の幕を破って、神が出てこられた事を物語る”ものなのです…”神の小羊の十字架という、なだめの供え物は、神が人に向かって来る道を開いた”のでした。

 同時に、”神の小羊の十字架という、なだめの供え物は、人が神に近づく道をも開いた”のです。

ヘブライ10:19〜23に「それで兄弟達、私達は、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私達の為に開いて下さったのです…信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」とございます。

 この”垂れ幕は、聖所と、その奥の神が臨在されておられた至聖所を仕切る幕”でした。ここでは、”十字架で御子イエスの肉が裂かれた事と、この至聖所を隔てる垂れ幕が裂かれた事が重ねられているのです。

 主イエスの肉体が裂かれて、神の御前に行く道が開かれたと記している”のです…”神の小羊の十字架という神へのなだめの供え物は、神が人の心に入る道と、人が神の御前に行く道とを開いた”のです。
 
 主イエスは、十字架の絶望の暗闇の中で、この「人の罪が赦され、神と人が共に生きる世界を見、そこに光を見出して、その道を開く十字架を耐え忍ばれた」のでした。

 その事が、イザヤ53:11に預言されているのです…「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。私の僕は、多くの人が正しい者とされる為に彼らの罪を自ら負った」という預言です。「人の罪が赦され、神と人が共に生きる世界」は、「神から完全に捨てられた」暗闇にあった主イエスさえも、”励まし支えた光の世界”であったのです。

 私共も、”この救いを開いて下さった神の小羊である主イエスの十字架を見つめ、百人隊長のように「真に、この人は神の子だった」と告白し続ける人生を送りたいものです…そして、その信仰告白に対し、神は必ず、神と共に生きるという恵みと祝福を与えて下さる”のです。