「アブラハムの生涯に見る主権」
創世記20章1〜7節
20:1 アブラハムは、そこからネゲブ地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに滞在していたとき、
20:2 アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。
20:3 その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」
20:4 アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかったので、「主よ、あなたは正しい者でも殺されるのですか。
20:5 彼女が妹だと言ったのは彼ではありませんか。また彼女自身も、『あの人はわたしの兄です』と言いました。わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです」と言った。
20:6 神は夢の中でアビメレクに言われた。「わたしも、あなたが全くやましい考えでなしにこの事をしたことは知っている。だからわたしも、あなたがわたしに対して罪を犯すことのないように、彼女に触れさせなかったのだ。
20:7 直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
説教題「 アブラハムの生涯に見る主の主権」
創世記20章1〜7節、菊間教会 井上真樹牧師 2003.5/18
緒論
主の御名を賛美します。多くの方々のお祈りに支えられ、わが家に新しい命が誕生したことをこの場を借りてまずお礼を申し上げたいと思います。
昨年8月25日が予定日だったのですが、予定日を過ぎてもいっこうに生まれる気配が無くいつ生まれるか、いつ生まれるかと待ち遠しい毎日を過ごしておりました。結局、なかなか陣痛が来ない事もあり、また妊娠中毒症の症状も出ていたこともあり、9月5日(木)に入院をすることになりました。
そしてその後の様子を見ながら8日(日)まで待ってみてそれでも陣痛が来なければ9日(月)に帝王切開でという方向で進んでおりました。しかしその入院した日の深夜に陣痛が始まり、翌日9月6日(金)の午前10時19分に無事に女の子を出産する事が出来ました。
最善の時にまた最善の方法で主は誕生させて下さったのです。ですから、主は全ての事において最善をなして下さったと信じ、御名を崇めています。
入院する前日に行った検診で妊娠中毒症とは言われないまでも、すでに尿蛋白が出ており、足のむくみもかなり前からひどかったのですが、それ以上に私達を不安にさせたのは、このまま陣痛が来なかったら帝王切開になるという事を医師から聞かされた時、正直、私達は動揺を隠せませんでした。それまではある面、のんきに構えてそのうち時満ちてとあるように、主の最善の時に産まれてくるだろうぐらいに思っていた事が、入院する前日に医師からそのように言われ、とたんに私の心は不安と戸惑いに変わっていったのでした。
しかしそんな私に何度も何度もヨハネによる福音書14:1の御言が響いてきたのです。
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」…この御言を何度も聞きながら、正直それでもまだ神様の事を信じ切れていない自分がいたのです。そんな時、この聖書箇所が導かれたのでした。
この箇所は、その週の木曜日の聖書通読箇所で、そこから祈祷会のメッセージを準備していたのですが、そこからある一つのことを主は私にお語り下さったのです。それは「主の主権」ということでした。
ということで、今朝はこの創世記20章、そしてアブラハムの生涯から「主の主権」という主題で皆さんと共に御言の恵みにあずかって参りたいとそう願っています。
本論1 同じ失敗を繰り返すアブラハム
皆さんもよくご存知の通り、このアブラハムという人物は後に「信仰の父」「神の親友」とさえ呼ばれるようになる偉大な人物でした。その彼が、この所を見ると、以前エジプトに下っていった時と全く同じ失敗を繰り返していることが分かります。
それは、神を恐れず人を恐れるあまりに、神を信じないで全くの不信仰に陥った結果、犯してしまった過ちとでも言えるものでした。どんな失敗であったかと言いますと、自分の妻であるサラのことを自分の妹であると言ったことでした。
しかしこの事は、あながち間違いでもないのです。それはアブラハムとサラの関係は夫婦であると同時に、異母兄妹でもあったからでした。だから彼が「これは私の妹です」と言った事は全くの嘘偽りであると言う事でもないのですが、それが人を恐れる余りに自分の命を守る為の手段として、人を欺く為に言った事であるとするなら、それは当然、人を欺きまた神を欺く罪であるのです。
[20:11〜12] アブラハムは言った、「この所には神を恐れるということが、まったくないので、わたしの妻のゆえに人々がわたしを殺すと思ったからです。また彼女は本当に私の妹なのです。私の父の娘ですが、母の娘ではありません。そして、私の妻になったのです。」
かつてアブラハムは神様に「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。私しはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(12:1〜2)と御声をかけられ、住み慣れたハランを離れ、神様の示す地カナンへと旅立ちました。その時の彼は、それこそこれから行く所を全く何も分からずに教えられずに、ただ神を信じる信仰によって彼は旅だったのした。
そんな彼がカナンの地に着いてから、その地に飢饉がきた事により、エジプトに下っていったその時に、彼は自分の妻であるサラに対して自分はアブラハムの妹であると言わせたのです。
[12:10〜13] さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、
そこに下った。ききんがその地に激しかったからである。・・・
このように彼は以前エジプトに下った時と全く同じような過ちを繰り返すのです。そしてこの二度に渡る同じ過ちは、エジプトに下った時は、神の示す地カナンに到着して間もなくの事、神から「私はあなたの子孫にこの地を与えます」と言われ祝福にあずかった直後であり、今朝の箇所である20章のゲラルに滞在していた時は、神から「私はあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう」「あなたは多くの国民の父となるであろう」と祝福の約束をいただいた直後の事でした。
即ち、彼は神様から大いに祝福され、またそのような祝福をまさに身をもって経験していながら、彼は神を信じる信仰の徹底がなされていなかったのです。だからこそ、かつてのエジプト、そして今回のゲラル滞在というような局面に立たされた時に、人を恐れ自分の命を守る為に、神を信じ神に信頼し、すべてを委ねるという事をせずに、自分の考えに頼って自分の何かでそういった局面を乗り越えていこうとする姿勢が伺えるのです。
私達が創世記に記されているアブラハムの生涯全体を見る時に、彼は確かに素晴らしい信仰を持っていました。純粋に神を信じ、神に従う姿勢を持っていました。
かつて父を始めとする家族と共に住み慣れたハランにいた時、「私の示す地に行きなさい」と言われた時に、行く所を全く知らされずに、それでも彼は信仰を持ってそこを出発したのです。またあのひとり子のイサクを神様から「全焼のいけにえとして捧げなさい」と言われたときに、葛藤があったでしょう躊躇もあったでしょう、でも神を信じ、信頼し全く従う彼の従順の姿勢を私たちは見ることができます。
だからこそ彼は後に「信仰の父」と呼ばれるほどに称賛されるような偉大な信仰の人であったのです。しかし聖書はそのように「信仰の父」「神の親友」とさえ呼ばれるようになる偉大な信仰の人アブラハムのことを、決してなにか素晴らしい人物であるとだけ記してはいないのです。人間の持つ神を信ぜず、神に信頼せず、神に逆らって歩もうとする罪性を包み隠さず書き記しているのです。
ですからあの信仰の父とさえ呼ばれているアブラハムでさえ、同じような罪、過ちを繰り返していることを聖書は私達に教えているのです。
これは何もアブラハムに限った事ではなく、同じ人間が同様の失敗をする事はあり得る事であり、一度悔い改めた筈の罪を、再度にわたって犯す事もあり得ると言う事を聖書は私達に教えているのではないでしょうか。
ですから、私達も同様に同じような罪を神の前に繰り返す事があるではないでしょうか。涙ながらに悔い改めて、神に対して罪の問題をイエス・キリストの十字架の恵みによって解決する事が出来、信仰を持って主に従いつつ歩む事が出来ているかと思えば、同じような罪。過ちを私達も何度も何度も繰り返す事があるのです。
逆に言うならば、私達はそれ程に罪深いのです。イエス・キリストの十字架の赦しにあずかっても、罪の根である原罪をもきよめる聖めの恵みにあずかっても、それでもまた同じ事を繰り返す程に罪深く、罪に対して自分の力ではどうする事も出来ない惨めな存在なのです。
だからこそ私達はイエス・キリストの十字架の赦しが必要なのではないでしょうか。
罪の問題というのは自分の力でどうする事も出来ないからこそ、神の側で解決の道を備えて下さって、ただイエス・キリストを信じる信仰によって罪の赦しという恵みが与えられているのです。
本論2 主の変わらない真実、そして主の主権
アブラハムはこのように12章においてそして20章において同じような失敗を繰り返したのです。それだけではない。彼は神様から約束の言葉を頂いているのに、自分に子供がなかなか与えられない事を不安に思い、自分の勝手な判断で女奴隷であったハガルによって自分の子を設けようとする過ちさえも犯すのです。その結果、彼らの家庭にどれだけの悲劇が起こったかをも聖書は記しています。
そんなアブラハムを、私達と何ら変わらないひとりの罪人として聖書は記しているのです。それでも神様は、そんな彼に対して「おまえはどうしようもない奴だな、もうおまえはいい、幾ら私がおまえに祝福を与えてもいっこうに私を信じ私に従おうとしない。だからおまえに変わって他の人を私は選ぼう」などと言って彼を見捨てるような事をなさらないお方なのです。
しかもこの20章において神様は、アブラハムが犯した失敗をも用いて、彼の不信仰で卑劣な策略にもかかわらず、彼が正しい手段をとったかのように、その結果をすべて最善へと導かれるのです。
[20:14〜16] そこでアビメレクは羊、牛および男女の奴隷を取ってアブラハムに与え、
その妻サラを彼に返した。・・・アブラハムの人を恐れて神を恐れず、神を信じないで、神に信頼しなかった結果、犯した過ちであったのに、神様はそれでも尚、アブラハムに大いなる祝福を与えているのです。それはいったいなぜでしょうか。
神様は神の主権の下に彼を選び、祝福すると約束し、そして彼の子孫から人類を罪と死の支配から救い出すイエス・キリストという救い主を起こすという、人知を遙かに越えた深い御思い、ご計画を抱いていたのです。そしてかつてアブラハムに語った祝福の約束のゆえに神は真実に彼を決して見捨てることをせず、彼に祝福を与え続けたのです。
私はこの箇所を読んでいてふと神様って不公平だなという思いが起こってきました。ここでのアビメレクにはなんの落ち度もなかったはずです。ただアブラハムが人を欺く罪を犯して、言ってみればこの時のアビメレクは被害者でした。それなのに神様はアビメレクに夢の中で語り、そして彼の財産をアブラハムに与えるようにさせているのです。
逆にアブラハムは自分の失敗であったにもかかわらず、それでも神様から祝福されるというような奇妙な経験をするのです。普通に考えたら変だなって思いませんか?…だから私は神様って不公平な事をなさるお方だなと最初ここを読みながらそう思ったのです。
でもそんな思いは聖書全体からのメッセージを聞くときに、すぐに吹っ飛んでいきましたと言いますのは、それは神様がアブラハムを神の主権の下に選び彼を祝福し、彼の子孫から人類の為に救い主を起こすという深い神の御思い、神の計り知れない計画を知ったからでした。
この時、アブラハムが人格的にまた能力的に優れた人物であったかというと決してそうではなかった、ということが聖書を見ればよく分かります。今朝見てきたように彼は、同じような失敗を何度も繰り返すような私達と全く変わらない一人の罪人でした。
神を信じたかと思えば、ある局面に立たされるとすぐに人を見、周りの状況を見、そして恐れ不安に心を支配されてしまうような人物でした。ですからただ神の主権の下にアブラハムは選ばれ、そして祝福に与っていったのです。
決して神は不公平な方というのではなく、神が主であり唯一のお方であり、神が絶対的な権威を持ったお方なのです。そして私達はただ神の愛、神の恵みに応えるものとして生かされている存在なのです。ですから、私が今日生きるのも死ぬのも、すべて神の主権、神の全能の御手の中にあることなのです。
なぜ私がこの所を読んでいて神様って不公平なことをなさるお方だなという思いが起こってきたのかということを正直に言いますと、それは入院する前日の検診でこのまま陣痛が来なければ帝王切開でということを医者から聞いていたからでした。その時、私の理性では帝王切開というのも一つの出産の手段に過ぎないものであり、それは赤ちゃんが悪いのでもお母さんが悪いのでもないということは分かっていました。
ですから、家内にもそう言って励ましてはいたのです。でもそう言いながら、私の心は確かに動揺していたのです。母親教室で知り合った予定日が同じ日だった方はとうに早く産まれ、私たちより予定日が後だった方は私たちより先に生まれ、そんな状況を見る中で私は、頭では神様の最善の時に生まれさせて下さるということも分かっていました。
しかしそこにいたのは主を信じますと言いながら、信じ切れない自分だったのです。「すべてを委ねます」と言いながら委ねる事しかできない筈の者なのに、委ねきれない自分がそこにいたのです。
「あなたがたは心を騒がせないがよい。神を信じ、また私を信じなさい」と御声をかけられながら、それでも神を信じきれない自分、全てを委ねきれない自分がそこにいるのに気がついたのです。その事を気付かされた時、私は正直愕然としました。自分に失望したと言いましょうか、
自分は神のことばを語る者でありながら、ちっとも神のことを信じていない、信頼していない、まさに不信仰の罪の中にあった自分に絶望したのです。
それでも神様は、こんな不信仰で罪深くどうしようもないこの者に向かってヨハネ
15:16の御言「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」と語って下さったのです。
それは私にとって大きな慰めであり、私に信仰を与えて下さったきっかけとなりました。ですから、信仰も主が与えて下さるのです。自分の何かで信じるんじゃないんです。その次の日、祈祷会でこの所からメッセージをさせていただきましたが、御言を取り次がせていただく中で平安を頂き、勝利することが出来たのです。
そして神様からのお取り扱いをいただいたそのようなことがあって後、その日の晩に神様はやはり最善の時に最善の方法で出産へと導いて下さったのです。
私は最初の子でもあるので絶対に立ち会い出産をしたいと願っていました。そんな願いも主はすべてご存知で、木曜日の祈祷会にも日曜日の礼拝にも重ならない最も良いときに、そして最も良い自然分娩というかたちをとって、このようにして新しい命をこの世に誕生させて下さったのです。
結論
愛する兄姉、神様は決して不公平なお方ではないのです。私達は人を見てうらやんだり、ねたんだり、あの人はあれだけ祝福されているのに、自分は祝福されていないんじゃないかと惨めに思ったりする事はないでしょうか。
しかし、神は決して不公平なお方ではなく、全て神の主権の下、深い御思い、深いご計画をお一人一人に抱いておられるのです。ただ私達は人知では測り知る事の出来ない主の全能の前に神の御思いを知らされ、神の御声に聞き従い、神の愛、神の恵みに応える者として活かされている存在なのです。どうぞこの朝、私達お互いが、いよいよ主に厚く信頼し、主の御声に聞き従う者とさせて頂きたいと願っています。
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