「真の王への愚弄」
マルコによる福音書15章16〜20節
15:16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。
15:17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
15:18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
15:19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。
15:20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
マルコによる福音書15章25〜32節
15:25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
15:26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
15:27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。
15:28 *こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。
15:29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、
15:30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」
15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。
15:32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「 真の王への愚弄」
マルコ15:16−20,25−32。03.5/11
今朝は、”マルコによる福音書の15章の2箇所から、「ユダヤ人の王」と嘲笑された主イエス”について、神の言に聴いて参ります。既にピラトについて学びましたが、その時から「ユダヤ人の王」という言葉が繰り返して登場しているのです。
私は,この「ユダヤ人の王」という言葉を聞きますと、”クリスマスの3人の博士”を思い出します。博士達は「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、何処におられますか?私達は東の方で、その星を見たので、その方を拝みに来ました」と言いました。
これは、”主イエスこそ、礼拝されるべき真の王であった事を象徴する出来事”でありました。此処でピラトもまた主イエスの事を、「ユダヤ人の王」と言いました。しかし、それは”からかい半分の皮肉を込めた言葉”であったのです。
3人の博士とピラトは、”全く反対な思いで、主イエスを「ユダヤ人の王」と呼んだ”のでした。それはピラトだけではありませんでした。
主が十字架につけられた時、”通りかかった人々、祭司長達、律法学者、長老達など、みんなが主を嘲けり”ながら29〜32節「『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ…他人は救ったのに自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう』」と言ったのでした。
また、この「それを見たら信じてやろう」と言う言葉もまた、次の物語を思い起こさせます。主イエスが救い主として踏み出される前に、”荒野で40日40夜断食祈祷”された時、キリストを救い主の道から脱線させようと”誘惑してきた悪魔の言葉”です。
悪魔は「もし、あなたが神の子なら、この石をパンに変えてみよ。もし、あなたが神の子なら此処から飛び降りてみよ」と言いました…しかし,その時、”主は、サタンの言葉を拒否された”のです。その時から”サタンは、「神の子である事を超自然的な力で証明してみよ」と誘惑し続けたのです。
此処でも”サタンは主を嘲ける人々を用いて誘惑した”のでした…しかし、”主は力を使う道を捨てられた”のです。
今日も独裁者という王がおります…権力を振り回す独裁者の陰で涙する人がいるのです。しかし、これは外側の問題だけではありません。”私共の内側をも様々な王が支配し、人を不幸にしている”のです。
人には物欲、金銭欲、権力欲など様々な欲望があります。欲自体は大切なもので悪いものではありません…しかし、”欲望が王のように人を支配する時、人は神の祝福から逸れて行く”のです。
これまで人間は、多くの”人間の王”に対して「万歳」と言って”失敗を重ね”て参りました…いい加減人は”「王様万歳」と叫ぶ危険さを学ばなければなりません”。
此処ではローマの兵士達が、からかい半分に主に対して「ユダヤ人の王万歳」と言ったのです。これを見逃してはいけません…この言葉は間違っていないのですが、”軽薄な告白”であり、何よりも”嘲り”だったからです…”人は慎重に王を持つ心を失うと不幸になる”のです。
”聖書が真摯に語ろう”としているのも、この点なのです…たとえば、先週、主イエスが鞭打たれた生々しい様を語りましたが、聖書は「鞭打たれた」と”簡潔に記すだけ”なのです…少し不思議な気が致しますが、それは”聖書がもっと語ろうとする事があるから”なのです。
それは、18〜20節です「『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭を叩き、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した」と言う事なのです。
これは、”主イエスを愚弄する罪”です。この”紫の服”と言う、”紫や赤は王位を現す色”でした。ですから、これは兵士達の嫌がらせ以外の何ものでもありませんでした。”おそらく兵士が着ていたであろう紫色の外套を主に着せて、敬礼し、叩き、唾をかけ、ひざまづいて拝んだ”のです。
”聖書は肉体的虐待よりも、こうした精神的虐待の方を重い罪と主張している”のです。 主イエスにとって、この事の方が辛かったのです。
時を隔てている私共は、主に肉体的な虐待を加える事は出来ませんが、この”嘲り”という”精神的な虐待は出来る”のです。キリスト者の多くはそうでないかも知れません。しかし、主イエスを小さく〜見積もってしまう事は、主イエスを嘲る罪だとしたら、キリスト者といえども、日々犯してしまう罪かと思うのです。
”人間が心の中に残虐さを持つ事は歴史が証明”して参りました。あの第二次大戦では、参戦した全ての国々が例外なく残酷な行為をしたのです。近年でも、独裁者が自国の国民を虐げています…人間には理性や知恵もあります。同情して涙する心もあります。にも拘わらず、”人間ほど残酷な生き物もない”のも事実です。
そして,この”主を愚弄している人々の姿こそ、人間の残酷さを象徴している”のです。ローマの兵士、通りすがりの者、祭司長、律法学者、長老達、そして主と一緒に十字架につけられた強盗まで、”例外なくイエスを罵っている”のです。
では何と言って罵ったのでしょうか?…31〜32節「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう」と言ったのでした。
彼等も”主イエスが「他人を救った」事は認めた”のです。しかし”「力を持たない救い主がなんになる」と十字架の主を愚弄した”のでした…こうした思いは、私共の中にも無いと言えないかも知れません。そして,実は此処が大切なのです。
何故なら,此処に”主イエスが無抵抗に徹して十字架につけられた意味”と、”真の王の姿もある”からです。”主イエスの生き様の一切は、他者の救いの為”でした…いつも”主は他者の為にだけ力を使われた”のです。
”真の王は国家国民を愛し仕える為に権力を使い”ます…正に、”主は御自分の民を救う為、無力を貫かれて十字架に架かられた”のでした。
古今東西、人々は”力によって正義が勝つ”事を好んで参りました…水戸黄門や、月光仮面やウルトラマン、みな”力によって正義が勝つ物語”です。もし此処で、主イエスが力をお使いになって十字架から降りて来たら人々は、主を救い主と信じたでしょうか?…いえ反対に、その力を見て恐れたと思うのです。
主は、世の常識とは異なる”負けて勝つ道”を選ばれたのでした…それは”私共を救う為”に、”十字架に架かる道”でした…聖書は,この主に対する無知な人の姿が、どんなに主のお心を痛めたかを記す”のです。
”ルカ24章1節にある「我が神、我が神、なにゆえ私を捨てられるのですか」と十字架上で叫ばれた主の御言葉は、詩篇22篇の御言葉”でありました。
実は、この”詩篇22篇に十字架上の主イエスのお心が預言されていた”のです。また”詩篇には貫かれている1つの構図(パタ−ン)がございます”…この22編もその代表的なものの1つです。
その”構図は、「人は限界状況に追い込まれた時に,神に語り…神が応えて下さる時賛美が出てくる」というもの”です。
詳しく述べますと、<神への叫び→神への信頼の告白→願い→聴かれた確信→賛美の誓い→神の応え→賛美に至る>というものです。
この”主の「我が神、我が神、なにゆえ私を捨てられるのですか」という叫びから、”当時のユダヤ人は聖書を暗記しておりましたから、後に続く言葉と、それが意味する事を、後で十字架を信じた時に分かった”のでした…”十字架の勝利を信じ、賛美を誓い、賛美に至る事を語ろうとしていた”事を悟ったのです。
(口語訳)「(1節) 我が神、我が神、なにゆえ私を捨てられるのですか…。」←(神への叫び)
「(3〜5節) 我らの先祖達はあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。彼らは…あなたに信頼して恥をうけなかったのです」←(神への信頼の告白)
「(6〜19節) 私は…人にそしられ…侮られる。全て私を見る者は、私をあざ笑い…言う、『彼は主に身を委ねた、主に彼を助けさせよ…。』と…。私の心臓は、ろうのように胸の内で溶けた…私の舌はあごにつく。あなたは私を死のちりに伏させられる。悪を行う者の群れが私を囲んで、私の手と足を刺し貫いた…彼らは互に私の衣服を分け、私の着物をくじ引にする…しかし主よ…、遠く離れないでください。我が力よ、速く来て私をお助けください。」←(願い)
「(22〜25節) 私は…会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。主を恐れる者よ、主をほめたたえよ…主が苦しむ者の苦しみを軽んじ、いとわれず…み顔を隠す事なく、その叫ぶ時に聞かれたからである…私の賛美はあなたから出るのです」←(聴かれた確信→賛美の誓い→神の応え→賛美に至る)
主イエスは、人々の愚弄を受けられながら、”心の中で、この御言葉を祈る中、聖霊に支えられつつ、十字架に架かり続け、そこで勝利されて私共を救い、賛美に至られた”のでした…そして,ここにこそ、”御自身の民を愛し、民に仕える真の王の姿がある”のです。
私共は、”主を愚弄する者の道ではなく、主をほめ、救い主として、心の王座にお迎えする者の道を歩んでいきたい”ものです。
![]()