「ペトロの挫折

マルコによる福音書14章27−31節

14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。
14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

マルコによる福音書14章66−72節
14:66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、
14:67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
14:68 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
14:69 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
14:70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
14:71 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
14:72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

ルカによる福音書22章32節
22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」


聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  
ペトロの挫折  イースター礼拝
  マルコ14:27−31,66−72、ルカ22:32、、03.4/20

 今朝はイースター礼拝です。主イエスの復活を記念して、全世界的で最も祝われているキリスト教の祝日です。
この朝は、講解説教の順番に沿って、”ペトロの挫折の箇所から、復活の主の背後の祈りによって、ペトロの信仰が復活した事”について共に学んで参ります。

 今朝のテキストであるマルコ14章27−31,66−72節は、ペトロが主イエスに対して「そんな人など知らない」と否認した物語でありまして、4つの福音書の全てに記されています。それはペトロが、”自己絶望の中で、主の背後の祈りのよって立つ”という事を本当の意味で知ったからでした。

それこそ、初代教会が、教会のリ−ダ−であったペトロの恥をさらしてまでも語り継いだ、”恵みの神髄”だったからです。

 十字架の前の晩、主イエスが「あなた方は私を信じて従う事ができなくなる。羊飼いである私は打たれ、あなた方、羊は散らされると聖書にあるからだ」と言われた時、一番弟子であったペトロは思わずあつくなって、「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません」と言いました。

すると、主は「はっきり言っておくが、あなたは、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度、私の事を知らないと言うだろう」と答えられたのでした。ペトロは更にあつくなり「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたの事を知らない等とは決して申しません」と答えたのです。この真剣さに呼応して他の弟子達も、「自分も自分も」と言い出したのでした。

 その後、主イエスは捕らえられ、カヤパというユダヤ人の家に連れて行かれて不法な裁判を受けました。その時、ペトロは恐怖と闘いつつも、勇気を奮い立たせてカヤパの家の庭に入っていったのです。庭でたき火が焚かれ人々が暖をとっていたからです。

 家の中では主イエスを処刑にする為の裁判が行なわれていました。おそらく、会議の内容は、庭にまで聞こえていただろうと思われます。沈痛な思いで、その会議を聞きながら庭で火に当たっているペトロに向かって、突然、女中の人が話しかけてきたのです。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と。

人は”大きな山には誰も躓きません。小さな小石に躓く”のです。恐怖でパニックになっていたペトロも、「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」という、女性の一言に躓いてしまい、強がりのメッキが剥がれ「主イエスなど知らない」と言ってしまったのでした。そして、その時、鶏が鳴いたのです…1度目でした。

 何故ペトロは、それ程、恐怖に縛られたのでしょうか?…”主の弟子である事がばれたら命が危ないと思った”からだと思います。しかし、それなら、主イエスを捕らえに来た大祭司の手下の耳を切り落とした時点でペトロは捕まっていた筈です…”当局には、キリスト抹殺しか眼中になかった”のでした。

ペトロが主の弟子だったと認めた所で「あんたも馬鹿だね。あんな男の弟子になって」となじられる程度ですんだと思うのです。ペトロは、自分をとりまく空気が読めない程に,恐れに支配されていたのでした。

 そんな時、またも、さきの女中の人が、「やっぱり、この人は、あの人達の仲間です」と言いだしたのです。”ペトロは、再び打ち消し”ました。

しばらくして、今度は、居合わせた人々が言い出しました。「いや確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤなまりだから」と…ガリラヤなまりを指摘されて追い詰められたペトロは、”「そんな人など知らない」と誓い呪い始めた”のでした。その時、”鶏が再び鳴いた”のです。

ペトロは「ハッ」と「鶏が二度鳴く前に、あなたは、三度、私を知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出し、”自分の弱さを思い知らされ男泣きに泣いた”のでした。

この出来事が物語るのは、”人間の意志や力では出来ない事がある”と言う事であります…それは、”主イエスに従う事”なのです。

ですから、これは、”私共の中にもある弱さ”なのです。世の嵐の中、”神に信頼し切れなくなる弱さ”です。”人は、挫折の中でのみ、主を信じ抜くカが無い事を知らされ、主の背後の祈りに拠り頼む”という”本当の信仰の姿に至る”のかも知れません。

 主イエスは、ペトロの「従います」という言葉を否定されず、ただ、「羊は散らされるであろう」と、挫折を予告をされました…この予告は、後に”ペトロが自分の弱さを知り、主の背後の祈りに拠り頼む”と言う、”本当の信仰の姿を回復する為に必要な言葉”だったのです。

 ”サタンは、私共の弱さをついて、地雷の様な罠を仕掛け”てきます。私共自身よりも”私共の弱さを知っている”のです。ですから、人は”自力では主に従い続けて行く事が出来ない”事と共に”自分の弱さを自覚していないと、地雷を踏むようにサタンの仕掛けた罠にはまり、主から離れてしまう”のです。

ペトロも、この時サタンの罠にかかり救い主を否認したのでした。そして更に恐ろしい罪まで犯してしまったのです…それは、71節「ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら」とある様に ”呪いの罪”でした。この時、誰を呪ったかについては2つの説がございます。

@、「もし、あんな人の仲間であるならば自分を呪う」と自分を呪ったとする説。
A、「自分を弟子にし、自分の人生を無駄にした主イエスを呪った」と言う、主を呪ったとする説です。

 どちらにしても、”主イエスと縁を切る言葉”でした…悔やんでも悔やみきれない罪を犯してしまったのです…これは、”ペトロの人生最大の挫折”となりました。しかし、そこで”ペトロの信仰の再生(構造改革)が始まった”のです。

ペトロの失敗の原因は、”頑張り信仰”にありました。「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません」とのペトロの言葉に、”自分と他人を比較している”響きを感じます…”人に負けまいとする信仰は、頑張る自力の信仰”です。

主は、こうした”ペトロの頑張り信仰を、主の背後の祈りに拠り頼む信仰へと構造改革”されたのです。

 では、ペトロはどのように、”信仰の構造改革されて行った”のでしょうか?…ルカ22:61によりますと、”ペトロが3度目の主を拒否する言葉を言い終わった時、裁判が終わり連行される途中の主が振り返り、じっとペトロを見つめられた”とあります。

その悲しみつつもペトロを優しく包む眼差し”を見た時、ペトロの心にはルカ22章32節の「しかし、私はあなたの信仰がなくならないように、あなたの為に祈った。それで、あなたが立ち直った時には、兄弟達を力づけてやりなさい」と言われた主の御言葉が稲妻が墜ちるように甦った”に違いありません。

”ペトロは挫折の中で、自分の弱さの為に背後で祈って下さっていた主を知った”のでした…そこで”「背後で祈って下さる主に拠り頼む事を学んだ」”のでした。その後、生涯ペトロは、”復活され祈り続けて下さる主に拠り頼み続けて行った”のです…そしてペトロは、”挫折から立ち直り、兄弟達を力づける者と変えられて行った”のです。

 ミッションスク−ルの北海道家庭学校(非行少年の更正を目指す学校)の校長の谷昌常先生は、生徒達に”「敵を愛しなさい」と言って更正させておられる”そうです。

そこに入学して来る子供達にとって「敵を愛する」という事は、「非行せずにおれない境遇に追い込んだ親を愛する」事です。「酒乱の父や、自分を捨てた父や母を愛しなさい」と,谷先生は、”子供達の痛みに共に涙しながら心を込めて教えておられる”のです。

 信仰や、聖化に於いて、”「敵を許す」事は最も難しい事の1つ”です。ですから、私共も「敵を愛しなさい」と言う主の教えを聞く時、何時の日か、”信仰が成長した時の目標として聞いてしまいがち”です。

しかも、その敵が親ならば、許す事は,おそらくこの世で最も難しい事かと思います。しかし、谷先生は「挫折し崩れている人間が立つ様になる為には、敵を愛する事を学ばなければ駄目だ」と言われ、「挫折の原因をつくった親を許しなさい」と言われるのだそうです。

 何故なら、”その血を流すような信仰の取り組みの中でしか、人は、御言葉と共に働く聖霊の力…即ち、主イエスの力を知る事が出来ないから”です。

主イエスは、高い目標を与えられるだけの御方ではありません。”復活されて、今この時も、挫折し倒れている者の傍らに立ち、「背後で祈り、支えて一緒に立ち上がって下さる御方」”なのです…ここに,”初代教会が、指導者ペトロの挫折を記してまで私共に伝えた<福音の神髄>がある”のです。

このイースターの朝、Y兄が受洗の恵みに預かられました…それは、”Y兄が、十字架の血潮によって、罪赦され、土居教会という、キリストを頭とするキリストの躰と1つとされた事”なのです。

この恵みの大きさと重さを思います。そして、この救いという恵みは天国まで続くのです…主は、Y兄の弱さも、これから弱さの為に犯すかも知れない罪や挫折もみな御存知なのです。その上で、Y兄を救い御自身の躰として下さったのです…それは復活の主が、今も「弱さの為に祈っていて下さる」からです。だから「安心して私の下に来なさい。私の背後の祈りを生涯求め祈りなさい」と招いて下さるのです。

このイースターの朝が、私共にとってもペトロのように、”頑張り信仰から、背後で祈り続けて下さる復活の主により頼む信仰へと生まれ変わる時”となれば幸いです。