「懐の深い愛」
マルコによる福音書14章10〜11節
14:10 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
14:11 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
マルコによる福音書14章17〜21節
14:17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
14:18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
14:19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
14:20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
マルコによる福音書14章27〜28節
14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。
14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「 懐の深い愛」
マルコ14:10−11,17−21.03年3/9
今朝はマルコによる福音書の14章の10−11節と17−21から27ー28節の箇所から共に、神の言に聴いて参ります。
裏切りは、最も深い精神的打撃を人に与える行為であります。此処に十字架の直接のきっかけとなる、イエスの弟子のイスカリオテのユダの裏切りが始まります。
ある注解書に、”ユダが主イエスを裏切った訳”についての1つの説が紹介されておりました…当時、イスラエルはローマの支配下に置かれており、ローマからの独立を求める声の強い村で育ったユダは、熱心な正義感で改革を支持する大人へと育ち、”それゆえ主イエスに対しても、政治的な改革者の姿を重ねて求める様になった”と言うでする
しかし、主は、何時になっても改革への旗揚げをしないばかりか、「十字架に架かって死ぬ」と語るばかりでした。それこそが”魂の救い主の姿”なのですが、それが理解出来なかったユダには、”欲求不満と失望がたまっていき…そうした不満がユダを裏切りに向かわせた”と言う説得力のある説です。
ユダは祭司長達の所へ行き、”主イエスを売り渡す交渉”をしました…その交渉で決まった金額は、”奴隷の値段である銀貨30枚”…人につける最も安い金額だったのです。
この”銀貨30枚の価値”を語る聖書の箇所を開きます。ゼカリヤ11:12「私達は彼らに言った。「もし、お前達の目に良しとするなら、私に賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。」彼らは銀三十シェケルを量り、私に賃金としてくれた」という箇所でする。
意味の分かりづらい所ですが、此処には「神が御自分の民を一生懸命養った。その神の恵みを、人々は僅か銀貨30枚という余りに低い価値に見積もった」という事が書かれているのです。
そして、此処でも”人の罪を贖う為、十字架に架かる神の一人子も「銀貨30枚」に見積もられた”のでした…此処に、”人は如何に神の恵みを低く見積もるか”が表現されております。
勿論、値段が高かろうが安かろうが、人が人を売る事ぐらい卑しく、残酷で悲しい事はありません。まして”神の一人子を売るとなりますと、悲しい事を通り越して恐るべき事”であります。しかも、”福音書は「十二弟子の一人」がそれをしたと繰り返し述べる”のです。
この”弟子達は、やがて使徒と呼ばれて教会の中核になって行く”のです…そうした”教会の歴史の一番始め”に、裏切りと言う出来事が記されてしまったのでした。
主イエス御自身も、此処で「十二人のうちの一人で」とか「あなた方のうちの一人が」と、
”十二人の弟子という言葉を意識して繰り返している”のです…その訳は、”裏切る,イスカリオテのユダを、主イエスは、なおも弟子から外さず、仲間の1人として招き続けておられたから”でありました。
それは,”最後の晩餐の席に、ユダをも招いていた事にも表れている”のです。私共は、人生の勝負時や、生死の分かれ目で”裏切った人を赦す事が出来るでしょうか?…裏切りを赦す事”は、信仰に於いても、”最も難しい事”なのです。この”ユダの裏切りさえ、懐深く赦す愛は、神にしかできない愛、アガペーの愛”なのです。
この”主のユダへの招きは、最後の晩餐の席でも続けられました”…普通、食事の場では、雰囲気を壊してしまう発言は避けるものです。しかし主イエスは、この晩餐の席で、弟子達に”問題の核心を突きつけた”のでした。
「はっきり言っておくが、あなた方の内の一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」と…。弟子達はびっくりして「まさか私ではないでしょう?」と口々に言い出しました。主の言葉によって、弟子達は皆、”自分の中にも裏切りの心がある事に気づき”たじろいだのです。
「まさか私ではないでしょう?」と言う弟子達に対して、主イエスは何も答えられませんでした…やがて,主の沈黙の通り、弟子達は一人また一人と主を裏切って行くのです。マルコ書は、”裏切り”を、”ユダ1人の問題ではく、十二弟子の問題、ひいては教会の問題”として語っているのです…何故なら、”教会は、何時の時代も、十二人の中の一人を抱えている”からです。
ここで1つの疑問が浮かんで参ります…”十二弟子を選ばれたのは主イエスであった”のに、何故、その中から裏切り者が出たのか?ユダの心を変える事が何故出来なかったのか?と言う疑問です。これは”深い謎の1つ”であります。そして、”この深い謎に、最も深い悲しみを持って相対したのが主ご自身であった”のです。
20節で主は「十二人の内の一人で、私と一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれ(裏切り者)だ」と言われたのです。日本でも「同じ釜の飯を食べた」という言葉がございます…”信頼出来る人間関係を指す言葉”です。
”この時代のイスラエルの食事には更に特別な意味合い”がありました…「食事の宴に招いた主人は、客人に対して、主人の命がある限り、主人の持てる全てを持って守り抜く」と言う”契約という意味合い”です…イスラエルの人々にとって、食事の席は”礼拝に準ずる聖なる場”であったのです。
その”主イエスの食卓”の、”主が手を入れている鉢にユダも手を入れてきた”のでした…この確信犯であるユダに対して,主は張り裂けんばかりの悲しみを抱えながら言われました…21節「人の子は、聖書に書いてある通りに去って行く。だが人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者の為に良かった」と言われたのでした。
マタイ書を見ますと、”ユダは主イエスを売り渡した後、「自分は罪の無い人を殺してしまった」と後悔して、折角手に入れた銀貨30枚を捨てて自殺した事が記されている”のです。
「生まれない方が良かった」…余りにも厳しい言葉ですが、これは”ユダを責める言葉ではなく、絶望の中死んで行く、ユダの気持ちを、主が先取りして代弁した言葉”であったのです。
何故、かと申しますと、その言葉の前に「人の子は、聖書に書いてある通りに去って行く」と主が言われているからです…ここに「十字架は神と自分が決めたのだ。ユダのせいではない」と言う意味の言葉だからです。
にも拘わらず、”ユダは後悔の中、自殺してしまった”のです…この”死を持って償う”のは、日本の切腹にも見られる思想ですが、”神の前では、それは解決には成らないのです。死では罪は消えないから”です…”主はユダに死を求めていた”のではなかったのです。
ある説教者はマタイ26:15で、主に、「裏切る者がいる」と言われた弟子達が「主よ、まさか私ではないでしょう」と口々に言った時、ユダだけが「主よ」といわず「先生」と呼びかけた所に注目して、「ユダの心の中では、主イエスは既に主ではなかった」と言います。
”同じように主を裏切ったペテロは、罪を悔いた時には、心の中で、依然として主であった主イエスに立ち返る事が出来たが、ユダには帰る所が無かった”と言うのです。”心の中の主を捨てて、立ち返る所を失っていたユダには、死をもって償う道しか見えなかった”のでありました。
主イエスは弟子達に、聖書をもって語られました。27-28節を要約して言いますと「あなたがたは、預言されているように、みんな私を裏切って、ばらばらに散って行く。絶望の中に散って行く。もうやり直しがきかないとの思いの中で故郷のガリラヤに戻って行く。しかし、私は甦って、あなたがたより先にガリラヤに行き、そこで、あなたがたを待っている」と言われたのです。
私共が「取り返しがつかない」という”思いに押し潰されそうな時、主は「私は、永遠にあなたの立ち返る所となる」”と言われたのです。
ではユダはどうなるのでしょうか?…ある神学者はTペテロ3:18−20を引用して語ります。「キリストも、罪の為にただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちの為に苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導く為です。キリストは…霊においては、捕らわれていた霊たちの所へ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ…八人だけが水の中を通って救われました。」
此処には、「十字架の後、黄泉に降られたキリストが、ノアの洪水の時、箱船に乗らずに滅んで行った人々の所へ行って、十字架で開かれた福音を伝えられた」事が語られています…その神学者は、「その中にユダも居たであろう」とも言います。
主は、”最も深い所まで降られて、主を裏切る弱さ、主を裏切った後悔、絶望を受けとめて下さる”のです…私共は、”この懐の深い主の愛のゆえに立つ事が出来る”のです。そうでなければ、教会に来る事も、後悔の中から立ち上る事も出来ません。”十字架の下に立ち返る事を知っている私共は、何処までもキリストの十字架の下でやり直す事が出来る”のです。
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