「ゲツセマネの祈り

マルコによる福音書14章43〜50

14:43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
14:44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。
14:45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
14:46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
14:47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。
14:48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。
14:49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」
14:50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
14:51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、
14:52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。

聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  
剣と棒を捨てなさい
              マルコによる福音書14章43〜52節、03.3/30
  今朝、私共は、マルコ14章43〜50節を通して、主イエスが捕らえられた場面から神の言に聴いて参ります。

この出来事は、主イエスがこれまで語ってこられた「私は人の手に渡される」という事が現実になった所です。

 血の汗を流してのゲツセマネの祈りを終え、弟子達に話をされていた時、主イエスの弟子であるユダが、剣と棒をもった祭司長や大勢の物々しい群衆を引き連れてやって来ました。そして、主に接吻をして、この人こそキリストだと人々に合図をしたのでした。こうしたユダの裏切りによって、主イエスは捕らえられてしまったのです。

 その時、弟子の1人が剣を抜いて捕らえに来た人の耳を切り落としたのです。ヨハネによる福音書は、それはペトロだったと記します。ペトロは、マルコ14:31で「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたの事を知らないなどとは決して申しません」と言った弟子でした…そのペトロが剣を抜いて、決死の思いで相手に斬りかかって行ったのです。

 しかし、多くの説教者は、「このペトロの行為は、本当に主と殉教しようとしたのではなく、恐ろしさの余り剣を抜いたのだろう」と言います。

以前、イスラエルとパレスチナの紛争の報道を見ておりました時、銃撃戦に巻き込まれた一般市民の親子が、物陰に隠れて震える中、撃ち殺されていく姿がありました。世界中から避難を受けたシーンについて、或る兵士が「銃撃戦になると、相手を観察する余裕など無くなってしまう…恐くて引き金を引いてしまう」と語っていたのを思い出します。おそらくペトロも同じ思いで斬りかかって行ったのだと思います。

 マタイによる福音書を見ますと、その時、主イエスはペトロに「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われた事が記されております。
先週、週報におきまして、この度のイラク戦争に対する牧師の考えを、この御言葉をもって語らせて頂きました。

「剣を取る者は皆、剣で滅びる」…”戦う者の末路を語る言葉”です。剣に頼る者は、今は勝っても、何時かは必ず破れて滅びると、恐れにおののき剣を振り回すペトロに、その行為を続けたらどうなるかを語られたのでした。

しかし、この事は短絡的に「軍備を放棄せよ」と申しているのではありません…理想は、世界中が軍備を放棄する事です。しかし、現実的ではありません。永世中立国であるスイスでも、防衛の為の軍備を整えつつ侵略を放棄しているのです。この御言葉の大切な事は「剣を抜いてはならない」と言う事なのです。

 マタイ23章53節を見ますと、主イエスが「私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」と言われた事も記されております。

”12”という数は、聖書では、”完全を現す数字”ですから、”圧倒的な力を持つ軍勢”ともとれる言葉です。しかも、”それは、人の力を遙かにしのぐ、天の軍勢の力”でした。

”主イエスは力をお持ちだった”のです…その力を呼び、自分を捕らえに来た者達を滅ぼす事など簡単な事だったのでした。

 では何故、”主イエスは戦いを拒否された”のでしょうか?

48〜49節で主は、次のように言われました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。私は毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなた達は私を捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現する為である」と、ゲツセマネの祈りを通し、十字架に向かって立ち上がられた主は、”敢えて戦いを拒否し、聖書の言葉の成就である十字架の道を選ばれた”のでした。

”剣をとらない道”と言うのは、弟子達の様に、”逃げる道でなく十字架に立ち向う道だった”のです。

主イエスを”捕らえに来た人々は、剣と棒をもって来た”のです…見方を変えると、”人々は、主イエスの内に、底知れぬ神の力を感じ恐れていた”といえるのではないかと思います。

 独裁者は、自分の力が弱まり、相手の力が強まる事を何より恐れます。同じ事が、この場面でも言えるのです…”独裁者のように、主イエスを力で捕らえに来た人々には、主の底知れぬ天的な力を見て恐れ、剣と棒をもって主に立ち向かって来た”のでした。

 そうした剣と棒を持つ人々の中にあって、”ただ1人、主イエスだけが、剣と棒を捨てられた”のです…確かに現実の戦争の中では、政治的な視野での解決が必要となります。

しかし、人の知恵と人の力による解決は完全ではありません。しかし、”神が御覧になり、神が決意された事は、人の力によっては成就しない事を、主は此処で、身をもって示された”のでした。

主イエスや初代教会が平和の為に取った手段は、”剣や棒は用いませんでした”が、かなり政治的にインパクトのあるものでした。

4世紀にわたって、”ローマ総督の支配下”に置かれていた初代教会は、政治に参加する道が閉ざされておりました。主イエスと使徒達は、当時の体制下において、”愛によって内側からつくり変えていった”のでした。

 一つの例は奴隷制度をめぐるパウロの行動です。ピレモンに宛てて書いた手紙において、パウロは、「逃亡奴隷であるオネシモを主にある兄弟として迎え入れるように」とピレモンに勧めています。

それは当時の状況でできる”最大限の愛の行為”でした。愛によって、”奴隷制度を骨抜きにし、内部改革をして行った”のです。「キリストにあるならば、もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」との原則(ガラテヤ3:28)から、”教会の中から差別がなくなり、平和と愛の共同体となっていった”のです。

 初代教会時代、”教会では社会的弱者が、いきいきと、時に中心的に活躍していた”のです…そうした”目に見える平和が、多くの人を惹き付けキリストへと導いた”のでした。

ついにはコンスタンティヌス帝も、”無視し得ない勢力となっていった”のです。”平和と愛の共同体が政治をも改革して行った”のでした…此処に”剣によらない道”があるのです。

 56節で、主イエスは「この全ての事が起こったのは、預言者達の書いた事が実現する為である」とも言われました。

マルコ8:31にも「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する事になっている。と弟子たちに教え始められた」と言う御言葉がございます。

 この「三日の後に復活する事になっている」…この「なっている」という言葉は、「こうならなければならない」と訳しても良い言葉であります。主イエスは、「私は、必ず、苦しみを受け、殺され、復活しなければならない」と言われたのです。

それは、”神が定めた御計画”だったからです。「しなければならない」という言葉は「強いられる」という事でもあります。

 主イエスは、”神が定められた事を強いられた”のでした…それは、”主イエスの運命”と言っても良いかも知れません。”運命は逆らいたいと思っても逆らえない重い圧力を持つもの”です。主イエスは、その”救い主としての運命を、愛ゆえに受け入れられた”のでした。

ペトロはびっくりして「主よ。とんでもない事です。そんな事があってなりません」と主を諫めました。その時、主はペトロに向かって「サタンよ退け」と言われたのです。最愛の弟子が自分を気遣ってくれた言葉に対して「悪魔」とまで言われたのでした。

十字架の定めを受け入れられた主にとって、”十字架に向かう道を妨げようと誘惑するのは悪魔の業だったから”でした。

 2年前、壮年会の方々と徳島にある大塚美術館に参りました。世界中の美術品を、原画の大きさで陶板に写し焼いて展示している壮大な美術館でした。そこには、多くの画家が描いた”ユダが裏切りの接吻の場面”の陶板の絵がありました…しかし、”主が剣と棒を捨てて神に定められた運命を受け入れるシーンの絵は無かった”様に記憶しております。

 この主の決心には、主イエスの”激しい情熱”があったのです…この”情熱”という言葉は英語では、”パッション”と言う言葉です。そして、この、”パッション”という言葉は、”受難”とも訳されるのであります。

”ゲツセマネの祈りに続く、逮捕の物語、それに続く、十字架の受難の物語は、キリストの愛の情熱の物語”なのです。

描きにくい場面と思いますが、私は、この”剣と棒を捨てて、十字架に架かる運命を受け入れる決意をされた、主の愛の情熱に満ちた表情を描いた絵を見てみたいものです。

 主イエスは、”天の御使いの12軍団をも呼ぶ事の出来る力を、剣と棒を持つ道ではなく、十字架に架かる愛の情熱へと向けられた”のでした。そして、この”十字架”によって、私共が、”神に、ありのまま赦され、受けとめて頂く世界が開かれた”のでした。