「切なる神の愛

マルコによる福音書14章12〜16節

14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
14:13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14:14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
14:15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
14:16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。


聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


  
切なる神の愛
                   
                      マルコ14:12〜16、03.3/2
 今朝はマルコによる福音書の14章12〜16節から共に神の言に聴いて参ります。
本来なら10節から始めるべきなのですが、イスカリオテのユダの裏切りについては後日まとめてお話しさせて頂きます。今朝お話し致しますのは、主が十字架に架かられる前夜にもたれた、最後の晩餐の準備における出来事です。
 その日は「除酵祭」の第1日であったとマルコ書は記します。その日は、過越の祭りの第1日目でありました。先週も申し上げましたが、”過越の祭り”というのは、”イスラエルの三大祭りの1つ”でありまして、1年がこの祭りを中心に回る程の”最大の祭り”でした。

 この過越の祭りが、それほど大きな意味を持ったのは、”小羊を屠る儀式が中心にあったから”です。その儀式は、民が、”聖別された神の民であり続ける為に、過ぎし1年間の、民の罪を負わせられた小羊の命を献げて、神に罪の赦しを求めるもの”だったのです。

 そして、”この時に、主が十字架に架かられた”という事は、”主イエスが、罪を贖う1度限りの、完全な神の小羊として屠られた”事を意味しているのです。

しかし、その”十字架への歩みは、一人の弟子の裏切りによって始まった”のであります…確かに人の悪意によって始まったかに見える十字架への歩みでしたが、実は、”神が、そうした人々の悪意さえも用いられて、主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」として十字架に向かわせておられた”のでありました。

 14章21節で、主は、「人の子は、聖書に書いてある通りに去って行く」と述べておられます。この言葉から、”主イエス御自身も、人々の悪意によって架けられる、この「十字架を、聖書に預言されて来た、神の救いの御計画の成就」として捉えておられた”事が分かります。

 マルコによる福音書は4つの福音書の中で、1番最初に書かれた最も短い書であります。しかし、この”最後の晩餐の準備については最も長く記述している”のです。それは福音書を記す時、”神が,十字架に向かう主イエスに対し、主イエスこそ、王の王であると世に証された”事を記すようにと神に導かれたからでありました。

 そこで、”神がどのように、主イエスこそ王であると証されたのか”を見て参ります…主イエスは、晩餐の場所を探すにあたり2人の弟子を選ばれて「何処そこに行きなさい」とは言われずに、14:13-15「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子達と一緒に過越の食事をする私の部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこに私達の為に準備をしておきなさい」と言われたのでした。

 ”都”は、勿論大きな町でした。「そこに行けば水瓶を運ぶ男に出会う」と主は言われたのです…それは雲を掴む様な指示でした。確かに、水瓶を頭に載せて運ぶのは女性の仕事でしたので、男性が水瓶を運んでいるのは目立ったに違いありません。

とはいえ、大きな町の中で、そんな男に出会うというのは、偶然であって必ず起こる事の様に語られる主を、弟子達は理解出来なかったと思います。更に、主は「その男の家の主人が晩餐の備えをしている」と迄言われたのです。

どんな思いで2人の弟子は都に出て行ったのでしょうか?…しかし、弟子達は、”不思議な導きによって、その男と出会い、晩餐の備えが済んでいる家に着いた”のでした。

 思えば、似た様な出来事が数日前にもありました…主が工ルサレムに入場された時の出来事であります。その時、”主は,まだ誰も乗った事のない子ロバに乗って、平和の王として、神の都に入場されました”…これは預言されていた事でした。しかし、その”子ロバの探し当て方も不思議に満ちていた”のです。

 そこでも主イエスは、2人の弟子を子ロバを探す為に遣わされました…まるで子ロバに辿り着く迄の場面を見たかの様に、「向こうの村に行きなさい。そこに子ロバがつないである。その時誰かに『何故解くのか?』聞かれるから『主がお入り用なのです』と言いなさい」と言われたのでした…はたして全くその通りになったのです。

 何故、この様な不思議な事が、十字架を目前にして立て続けにあったのでしょうか?…実は、”同じ様な事が旧約聖書にもある”のです。その物語を見て行きますと、”不思議な出来事の意味が見えて来る”のであります。

 Tサムエル10:1-8に、イスラエルの初代の王として、神に選ばれたサウルが、預言者サムエルから、王としての就任式である”油注ぎ”を受けた時、「これからの人々との出会いや、出来事を事細かに告げられ、そして最後に預言者集団と出会い、彼等と共に、神から霊を受ける」と告げられたのでした…そして、”全く告げられた通りに導かれ、神の霊に預かり、名実ともに、神の国の初代の王となった”という出来事です。

これらの”不思議な出来事が物語っていた”のは、”神は王として選んだ者を、不思議な導きを通してこの世に証する”という事でありました。

 ダニエル2:21に「神は時を移し、季節を変え、王を退け、王を立て…。」とございます…此処で,”神が、「御子イエスこそ王である」と証をされたのは、神の御心に従って、今まさに十字架に架かろうとしていた、御子への父の切なる愛”だったのです。

 弟子の一人に裏切られ、また人々の悪意に陥れられて十字架へ向かわれていたこの時、
”主は、神の沈黙を感じる想像を絶する辛さと孤独の中におられた事と思います…しかし、晩餐の準備において、主が語られた通りに、神が不思議な導きをなされて、御子イエスを王として世に証して下さった時、主は、切なる神の愛と注がれている眼差しを知った”のでした…主はどんなに心慰められた事かと思います。

 工ルサレム入場から、十字架に至る迄の1週間の出来事は、弟子達にとって,1つ1つ心滅入るものであったと思います。”主イエスが、神に「王の王である」と証され、神に励まされつつ、神の御計画の成就の為、ご自身の意志で十字架に向かっている事”を悟る事の出来ない弟子達にとって、尚更、心滅入る事であったと思います。

 罪なき自分達の先生が、偉大な神の器が、人々の悪意によって抹殺されて行く。「神様どうして?」…答えの分からない、底知れぬ不安と動揺が弟子達を覆っていたのでした。

 そして、そうした心情は、主イエスの十字架と復活によって誕生した、初代教会も、迫害と殉教の中で、繰り返し味あわなければならないものでもあったのです。「救い主を信じて、神と人とを愛し、聖い心で世に仕えようとする自分達が、何故、世から憎まれなければならないのか?」…という切実な問いと葛藤でありました。

 そしてそれは私共の教会にも言える事なのです…私共も「神さま、どうして」という叫びや葛藤を数多く通って参りました。そんな”私共に対しても、聖書は語るのです。「この悲劇と見える十字架に於いても、神の御手の業は確かに行われていた」”と…。

 神は、ローマから総督として遣わされ、民衆の支持を維持する為に「イエスに死刑」の判決を下したピラトに迄、「イエスは王」と言わせたのでした。主が架かられた十字架の上には、「ユダヤ人の王」と書かれた罪状書が付けられておりました。律法学者達は「それでは困る、せめてユダヤ人の王と自称していた。と書き換えてくれ」と訴えましたが、”ピラトは「私が書いたものは書いたままにしておけ」と言った事にも、神の御手が置かれていた事”を感じます。
 
 時に、私共も、人に裏切られ、人の悪意に傷つき、神にも沈黙されているかの様に感じる、辛く孤独なトンネルを通る事がございます。そんな私共に、父なる神は今朝の物語を通し、「「そんな時でも、神である私の眼差と私の御手は、あなたの上にある」とお語り下さっているのです。

 その神を信じ見上げて行く時、私共は、”十字架において世に御子を王と証された、神の切なる愛を知る”のです。今朝、共に”「あなたの切なる愛を私にも教えて下さい。そして、あなたに信頼して歩み、あなたの証人として下さい」と祈りましょう。