「最後の晩餐」
マルコによる福音書14章22〜31節
14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
14:26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。
14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「 最後の晩餐」
マルコによる福音書14章22〜31節. 03年3/16
この朝は、マルコ14章22〜31節の所から、共に神の言に聴きつつ、主イエスが聖餐をお命じになられた”最後の晩餐”について学んで参ります。
この”最後の晩餐は最初の聖餐式”でした。今、私共の礼拝堂の前には,”聖餐台”があります。キリスト教の礼拝は、”礼拝式全体が罪の赦しと永遠の命に預かる聖餐式”だからです…”礼拝は聖餐を囲む式(食卓)”なのです。
キリスト教会が誕生してから三百年の間は、”迫害に継ぐ迫害を受けた期間でした。そうした中で教会は地下のお墓で礼拝をした”のです。迫害を受けて殉教した仲間の棺を囲み、その”棺の上で聖餐をしながら礼拝した”のです。
考えてみると恐ろしくさえ思える光景です。でも、その棺の中に眠るのは、先日まで共に礼拝に預かっていた仲間なのです…悲しくない筈がありません。気落ちする思いと戦いながらキリスト者達は、”愛する者の棺を聖餐をもって覆い礼拝した”のでした。
土居中学校の前に、私共の信仰の先輩である津村兄姉のお墓があり、その墓石には「私達の国籍は天国にあります」と御言葉が刻まれています。近所の方から「このお墓は、お宅の教会の方のでしょう?」と聞かれた事がありました。
愛する人を失った時、「この人は天国に凱旋されたのだ」という事に、”深い慰めを受けた経験”を多くのキリスト者はしております…ですからキリスト者は胸を張って証を込めて、この御言葉を墓石に刻むのです。
私共の群れのU兄も、奥様を天に送られた朝、礼拝の司会をなされたとお聞きしました。おそらく、その時、天国に昇って行かれる奥様の姿を見つめる思いで司式をされておられたと思います。
誕生したばかりの教会の人々は、”棺の上で聖餐に預かりながら、永遠の命の約束を見上げ、天国の希望に慰められた”のだと思います…”礼拝というものが如何に真剣な行為”かを教えられます。
この”最後の晩餐という食卓”は、正に、”十字架の死の影が差していた食卓”でありました…そこで主は27節「あなたがたは皆私につまずく。『私(神)は羊飼い(主イエス)を打つ。すると羊(弟子達)は散ってしまう』と書いてあるからだ」と言われたのです…此処で主は、”弟子達の群れが崩れ去って行く事を預告された”のでした。
それを聴いたペトロは、たまらずに、29〜31節「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません…イエスは言われた。『…今夜、鶏が二度鳴く前に、三度、私の事を知らないと言うだろう』…ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたの事を知らない等とは決して申しません。」と言ったのです。他の弟子達も同じように言ったのでした。
ペトロや弟子達にとって、”全てを捨てて従って来た、主イエスとの交わりが断ち切られる事は、考える事が出来ない程の恐ろしい事態”でした。「そんな目に遭うぐらいならば死んだ方がましだ」と、彼等は心底そう思ったのだと思います。
しかし、”主イエスには、弟子達は死ぬ事が出来ない”事が分かっていたのです…そして「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは私を裏切る」と言われたのでした。何故、主は、そのような事を言われたのでしょうか?…主イエスは、ペトロの,”死をかけた誓いの言葉は強がり”だと見抜いておられたから”でした。”絶望から出ている強がりには、本当の力が無い”からです。
17世紀に、一市民でありながら説教者でもあったジョン・バニヤンと言う人がおりました。彼は『天路歴程』という有名な本を書いた人です。この本には、”「クリスチャン」という名”の主人公が登場致します。この”「クリスチャン」という名の人”が、”天の都(天国)を目指して1歩〜真剣な旅をして行くというテーマの書”です。
バニヤンという人は、若い時から厳しい信仰の戦いをした人だったといわれます…信仰の道を歩み出した、或いは、歩み出そうとする人にとっては深く考えさせられる面白い本で、かつては聖書に次いで読まれていた信仰書であったという事です。
この中の印象深い出来事を1つ紹介させて頂きますと、”クリスチャンという名”の主人公が出会った”最も危険な場面”です。
それは”「疑いの城」という城に閉じ込められた時”でした。その城の主は”「絶望王」と言う名の王”でした。この絶望王は、”天の国の王(神)”を憎み、天国を目指して歩んでいる者を殺そうとしたのです。
どの様にして殺そうとしたのかと申しますと、”全く望み無き境遇に追い込み自殺させるという方法”でした。この”クリスチャンという名の人”と一緒に旅をしていたのは、”ホープフル(希望に満ちている)という名の人”でした。しかし、この”クリスチャンという名の人”は、”ホープフルという名の人”と一緒に希望と正反対の絶望に追い詰められ、その中で自殺に心惹かれてしまう”のです。
しかし、絶望に追いつめられた時、”クリスチャンという名の人”と、”ホープフルという名の人”は、2人で、”なすべきたった1つの事をした”のでした…それは”祈り”でした。2人は夜明けまで祈りました。そして”夜が明けた時、素晴らしい答えが与えられた”のです。
どんな答えかと申しますと、”「自分にはまだ歩く事が出来る世界があった…なのに絶望の穴蔵にうずくまっていた」という答え”でした。彼等は、祈りの中で”「絶望という扉を開く鍵」を持っている事に気づき、その鍵で扉を開けた”のでした。
その”鍵”は、”「約束」という名の鍵”で、それは、”祈り”の中でのみ与えられる”神の言による約束という鍵”でした。その時、彼等には、この”神の言葉の約束という名の鍵”は、”どんな絶望という扉も開ける事が出来る”という事が本当に分かったのでした。
”主イエスが、最後の晩餐の席で「弟子達は絶望の中散り散りに散って行く様になる」と敢えて言われたのは、「約束」を語られる為だった”のです。
その”約束”が24〜25節です。「そして、イエスは言われた。『これは、多くの人の為に流される私の血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲む事はもう決してあるまい」…「十字架の血潮の徴であるブドウ酒を、もう1度共に飲み祝う時が来る、天国で飲む時が来る」と、”主は永遠の命と天国で預かる主の食卓”を約束して下さったのでした。
”天国は、父なる神を見、神と共に生きる世界”です…私共も”聖餐の度毎に、「これは多くの人の為に流す私の血」と言われた、”十字架の血潮による罪の赦しの約束に預かり”ます…そこで、”私共の心の目には、罪を赦して下さった神様が見えて来る(分かってくる)”のです。
”罪の赦しに預かる時、人は天国をかいま見る事が出来る”のです。そこで”私共が、どんなに追い詰められ絶望しようとも、この絶望の中にも神が共におられると言う事が分かって来る”のです…それは、”やがての日、天国で、もっと〜鮮やかに分かる神の臨在”です。
その時、私共の人生の重荷が依然として重くとも、この”絶望王が私の支配者ではない、神こそ,私の真の支配者である事に気づく”のです…そして、”「絶望の扉を開く鍵である、神の約束の御言葉を祈り求めよう」との思いに導かれる”のです。
主イエスはペトロ達に言われました。「あなた方は散らされる。しかし私は、よみがえって、あなた方より先にガリラヤに行く」と…。”最初の教会とも言うべき弟子達の群れは、主が十字架につけられ死なれた時、主の言葉通りに崩れて行った”のです。そして「死んでも、私はあなたを愛します。あなたについて行きます」といったペトロは、”絶望に支配された強がりの無力を知った”のでした。
そんな”教会の再建の道を開かれたのは、「よみがえって、あなた方より先にガリラヤに行く」と言われた主イエスだった”のです…”主は、私共が絶望に直面して崩れて行く所に先回りして「神の約束の言葉」をもって待っていて下さる”のです。
この朝から、私共は”絶望の向こうを約束して下さる主を見上げ、「主はよみがえられた。主は今、私と共にあって約束の御言葉を与えてくださる」と心で繰り返し、主の約束の御言葉を求める生活を生きて行く者達となりたい”と思います。
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